Infinity 第三部 Waiting All Night116

小説 Waiting All Night

 暁の頃だというのに、下級役人たちはいつもより早起きして、一目散に宮廷の門の前まで来るとそれが開くのを、列を成して待っている。みんな私語はしない。黙って周りを盗み見ている。周りの役人たちが何を考えているのか想像している。この隣の男も後ろの男も、自分と同じことを考えているのは間違いない。
 厚い門が引かれて少しずつ開くところに、下級役人たちは我先にと飛び込む。門扉が開ききらぬうちに身を挟み、踏みつけらして男たちの静かな攻防の末、門を通過して行く。
 役人たちが飛び込むのはそれぞれの持ち場ではなく、弾正台の館だ。
 弾正台の役人はまだ出勤しておらず、館の前でも男たちは待っている。
 そこまでして下級役人たちが成し遂げようとしているのは、密告である。
 自分の気に入らない上司、同僚が春日王子の一味であるとまことしやかに語り、弾正台が調べて何か出てくればそれで上がりだ。それには、弾正台を納得させるほどの何かを語らなければならない。寝ずの思いで考えて来た相手を陥れる話を命賭けでよどみなく語らう。その姿を一足遅く到着した役人たちが見つめながら自分の番を待っている。まさか自分の先を越されてはいないか、との疑心で頭がおかしくなりそうになりながら。
 実言は夜明けとともに起き上がった。隣で寝ていた礼も起きて、身支度を手伝った。
「真夜中に帰ってきたというのに、こんなに早くから宮廷に行くの?」
 礼は夜明けのひんやりとした空気に肩をすぼめて、上着を引き寄せて羽織った。
「戦は終わっても、権力争いは終わらない。父上なんかはここからが本番という顔だよ。それほど宮廷に出仕しない人が、毎日大王のところへ参っている。皆、春日王子亡き後の情勢を戦々恐々で見守っているよ。無事にこの後処理が終わればよいが」
 実言は言って、最後に礼に帯を結んでもらった。
「悲しいことが多いから、早く終わって欲しいわ」
 礼は実言の前に膝をついて帯を結び終わると、真っすぐに実言を見上げた。眼帯をしていない礼の両頬を実言は両手で覆った。
「そうできるように力を尽くすよ。早く、礼と子供達とでゆっくりしたいものだ」
 実言は礼の顔に自分の顔を近づけて、額をくっつけた。
「お前が待っていてくれると思うと、早く帰ってきたいものだ」
 礼は、実言に体をひどく動かさないように念を押した。春日王子につけられた傷を考えると、本当はまだ安静にしておいた方がいいのに、と心の中では思うが、微笑んで夫を朝焼けの中に送り出した。
 礼は久しぶりの我が邸での朝に心が泡立つ思いだ。疲れていた体も夫の隣で寝たらすさまじく回復した。身なりを整えたら庭におりて、薬草園に入って朝日に照らされる薬草の葉をゆっくりとした手つきで摘んで行った。摘んだ葉を入れる籠を持ってこなかったので長い袖の中に入れて行った。時折、摘んだ葉を鼻に当ててその爽やかな匂いを嗅いだ。
 苦しいことがあった分、この小さな自分の砦の中で自分の打ち込めるものを寡黙に実行することは心安らぐ思いだった。きれいに管理された薬草園は、束蕗原から来ている去の弟子たちがきちんと世話をしてくれたからだった。心の中で感謝しながら整った中にいると、礼の心はより落ち着いた。
 伊緒理もおばあさまと住む邸に小さな薬草園を作ってもらっていた。あの子がそこに帰られるのはいつになるかわからないが、彼の心が安らぐ場所が美しく保たれていることを望んだ。
 礼は庭を伝って子供達が眠る部屋の前まで歩いてやってきた。
 寝て起きたら、子供達がこのたびの母のひどい仕打ちを忘れて、飛びついてきて来れるという淡い幻想を持っていたがそれは幻想でしかないと後でわかった。
 子供達は次々に目を覚まして、乳母が掛けている声に答えている声がしている。寝起きのたどたどしい言葉が可愛らしく、礼は自然と笑顔になった。
「実津瀬様、急に走り出しては危ないですわ」
 部屋の中から乳母の咎める声が聞こえたと思ったら、簀子縁まで小さな勢いのある足音が聞こえてきた。
 礼は子供達の部屋に上がる階の下で、その様子を窺っていた。
 簀子縁まで走り出て来た実津瀬は階の下の女人と目が合ってぎょっとなり、その顔が誰だかわかるなり踵を返して部屋の中へと戻って行った。
 礼は沓を脱いで階を上がって行くと、実津瀬は庇の間で蓮と抱き合ってその耳元に何か話している。階の上に上がった礼を見た二人は、ぷいっと顔を逸らして部屋の奥へと駆けて行った。
 礼は二人が許してくれるまで待つと決めているが、こうもつれない態度だと、心が折れる思いだった。
 澪が簀子縁に現れた。
「礼様」
 そう言って声を掛けた。礼は急なめまいに襲われて、澪に抱き着いた。
「お部屋に戻りましょう。まだ体はお疲れですわ。朝餉も上がらずに歩き回られたから」
 礼は同意するように頷いて、澪の肩すがって寝室に戻って行った。実言と寝ていたままの寝室に戻って、しばらく横になった。澪と縫が何かと世話を焼いてくれて、礼はありがたいと思いながらうとうとした。
 再び目覚めると澪と縫が朝餉を持ってきた、と言っても時刻は昼近くである。三人で会話をしながら礼は粥をほおばった。
 実津瀬と蓮は祖母の、実言の母である毬に相手をしてもらって遊んでいるとのことだった。実言も礼も邸にいない間は、毬が二人の相手をして慰めていたので、それまで以上に実津瀬も蓮も毬を頼りにするようになった。
「そう……お母さまにも申し訳ないことをしたのね」
 礼は呟いて、今にも右目から大粒の涙をこぼしそうだった。
「礼様、毬様がお呼びですわ。実津瀬様や蓮様の部屋でお待ちです」
 実津瀬と蓮の乳母がそう言って呼びに来た。
「行くわ」
 礼は言うと、澪が立ちあがって乳母に朝餉が済んだら向かうと伝えている。礼は縫にもっと粥を食べろとせかされる。
「縫、そんなに入らないわ」
 礼はそう言うが、椀一杯の粥も食べない礼に、縫は心を鬼にして匙を自分が持って口に入れてやるのだった。
 礼は朔が伊緒理の差し出す匙を黙って口の中に入れている光景を思い出す。自分ではできないことが他人の作用でこうも、もうできないと思うことができるものかと思った。今も縫が差し出す匙をそっと口の中に入れると少ない量ではあるが、その少し塩味の利いた粥を噛みしめるように味わった。自分を心配してくれているというその心に触れて、限界は取り払われていく。
 礼は口元を拭いて、義母の毬に会いに、子供部屋へと向かった。
 庇の間に入ると、蓮の好きな人形遊びに実津瀬がつき合っているのを、義母の毬が見守っていた。
 毬は一人立ち上がって、礼に近づいた。
「礼、お帰り。無事で何よりだわ」
 差し出された毬の手を礼は取った。
「お母さま……」
「何も言うことはないわ。実言もあなたもいないのなら、この邸は私が守らなければと、気持ちが燃えたものだったわ。こうして、何も問題ない状況でしょう。子供達は少しばかりご機嫌斜めね。でも、あなたのことを待ちわびて、何度、涙がこぼれたことか。それを思ったら、あなたが帰ったからそれ、飛びついて行けとは言えないわ。あなたもその覚悟でしょうけど、時をかけてあの子たちが許すのを待つしかないわね」
 礼は何度も頷いた。
「……はい……お母さま、子供達のこと、ありがとうございました。私の気がかりを大切に守っていただいて、私は戻ってきても何の心配もなく暮らしていけますわ」
「部屋の隅であっても、あの子たちを見ていてあげて、あなたを無視しているようで、気になって仕方がないはずよ」
 それから礼は庇の間に入って、実津瀬と蓮が遊ぶ姿を見ていた。こんなことは二度目である。乳飲み子の二人を置いて、実言を追って北方へ行った時と、今。一度目の時も、子供達との溝が埋まるのには時間がかかった。
 礼は本当に子供達に申し訳ないと思いながら、その小さな二人が走り回ったり、人形をもって物語を語ったりする姿を見ていた。そのうち、二人が毬と乳母に寄り掛かってうとうとし始めた。
 寝た子供たちを侍女に任せて、毬と別れると礼は、道を隔てて造った小さな診療所へと向かった。自分いなくても滞りなく運営されていることが嬉しく、頼もしかった。叔母の去の元で勉強した者たちが個々の力量と才覚で市井の怪我人、病人たちを救い助けていたのだ。
 礼は一人ひとりに頭を下げて、お礼を言った。
「礼様のことを皆は心配していました。実言様もいない中で、都が不穏な空気が渦巻いていました。その中でも怪我人や病人が減ることはなくて、我々は求めに応じて手当てをしていました」
「ありがとう。本当に、ありがとう。私は勝手だから、あなたたちを振り回してばかり。そして、岩城一族の下にいれば安全と思っていてくれていたでしょうけど、この度のように闘争に巻き込まれて命を落としてしまうこともある。萩には本当に申し訳ないことをしたわ。あなたたちも不安になったでしょう。それなのに、こんなにも尽くしてくれて。もし、不安なことがあれば何でも言ってちょうだい。束蕗原に帰ることを去様にお伝えするわ」
 礼は言うと、束蕗原から来ている者たちは皆一様に首を横に振った。萩のことは残念だが、それで束蕗原に帰りたいとは思わないと言った。
 礼は涙ぐみ、それを見たすぐ傍にいた女が、礼の腕を取った。その動作で礼は女と目を合わせた。
「私たちはここで尽くしたいのです。心配しないでください、礼様」
 束蕗原から来ている仲間に、励まされて礼は安心する。
「ありがとう、みんな、ありがとう」
 礼は涙を拭いて言った。
 その夜、まだ実言は帰って来ない。礼がいるなら早く帰ってきたいと言ったが、有言実行とはいかないようだった。
 蒸し暑い夜で、何度も寝返りを打ってやり過ごそうとしたが、やっとうとうとし始めたのは夜も深い深い時刻だった。
 衣擦れの音に敏感に礼は目を覚ました。自分に触れる手に、礼は問うた。
「実言?」
 実言は礼の体に手を回してきて。
「起こしてしまったかい?」
 と言った。
「ううん……遅かったのね。早く帰ってきてくれると思っていたのに」
 と、恨み節のようなことを言った。
「本当にその通りだ。すまないね」
 実言はすっぽりと礼を腕の中に入れて、眼球を失くした左目に口づけた。
「遅いということは、お仕事が忙しいのね。まだ、宮廷は落ち着かないの」
「もう少しというところかな……これほどに甚大な被害を出したのだから、二度と同じことが起こらないように大王への背信の芽を摘んでおかなければならないからね。時間がかかるよ」
 礼は逆に実言に抱きつき、足を絡めた。
「暑くてなかなか眠れなかったのよ。あなたが傍にいてくれたら安心……少しばかり眠りたいわ……」
 二人とも薄着だとはいえ、礼は先ほど暑いと言ったのに、こんなにくっついているのは矛盾していると実言は思ったが、それは礼の言葉のあやであろうと、礼の抱擁をそれ以上に返した。
「礼、私もお前と一緒ならよく眠れるだろうよ」
 実言はそう言って、礼の寝息を聞きながら自分も目を瞑った。

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