謀反人春日王子の一味と思われたらどうしようか、と戦々恐々としている人物は少なくない。
それは、後宮も例外ではなかった。
大王の第三妃である詠は、与えられた館の外国風に設えた陶器を敷き詰めた庭先で椅子に座って庭の花や緑を眺めているが、心は落ち着かない。急に立ち上がり右に進んだかと思えばくるりと向きを変えてまた歩くと切りもなくやっている。そして、また椅子へと戻って来た。
誰かが、詠妃は春日王子の一味ではないかと言い出さないだろうか。
そのことが先ほどから頭の中をめぐっているのだ。
そんなことを言われたら、大王の妃という地位を失い追放されてしまだろう。それは、絶対にあってはいけない。
詠は疑心暗鬼になり、春日王子が亡くなったと聞いたらすぐに自分の傍に仕えてくれた侍女を都から追い出した。女官には軽い毒を盛って苦しんでいるところを何かあればお前を含め家族が死ぬ羽目になるだろうと脅した。女官は怖くなり、そっと詠から離れて行った。
その結果、長い付き合いの気心の知れた者たちは皆いなくなり、気の利かない侍女や女官たちに囲まれて、詠は鬱々とした気持ちでいた。
身の回りを世話していた侍女や女官たち以外に春日王子と自分の繋がりを知る者がいるだろうか?春日王子との出会いから今に向かって記憶をたどって行った時、はっとある女人の顔が浮かんだ。
左目に眼帯をした女。春日王子に求められて橋渡しをした。あの女は、確か岩城の妻だった。もし、岩城が知るところとなれば、それを口実に自分の地位を奪おうとするのではないか。……そうはさせない。
自分の生まれ持ったものを最大限に使ってこの地位まで来たのだ。それをあっさりと誰が手離すだろうか。そんなことはあってはならない。
それは自分と同等、いや、それ以上に大切な者を守りたいからだ。
我が子、大王の第二王子、体の弱い第一王子に代わって大王になるべき少年、葛城王子を。
こんな時に、何かと頼りにし、不安を拭ってくれたのは春日王子だった。その王子はもうこの世にはいない。一人静かに春日王子を偲ぶ日々を送れたらいいが、今はそんな状況ではない。いや、こんなに不安にさせているのは春日王子の存在だ。亡霊となり、詠を悩ませている。
わが身と我が子を安全な高みへと置いておかなければならない。
詠は爪を噛みそうになるのを耐えて、考えを巡らせた。こんな時、春日王子はどんなふうに対処するだろうか。
あの女が何か言い出さないうちにどうにかしてその口を封じなければならない。
ああ、どうすればいいのだろうか。
詠は椅子から立ち上がり、庭の方へ数歩歩いて、青い空を見つめた。
礼は夜明けに眠りについたので、遅くに目を覚ました。隣に手を置くと、そこはひんやりとした空間があり、夫の姿はなかった。
礼が体を起こすと、御簾越しに縫の気配を感じた。
「実言は……」
「旦那様は宮廷に行かれました」
そう……。
口の中で呟いて、自分を起こさずに仕事に行ってしまった夫を水くさいように感じた。眠っている自分を起こすのが忍びなかったのだろうけど、そんなことは関係ない。
しかし、旅の疲れは体の奥深くまで浸透しているのか、それとも腹の中の小さな命が少しは休めと言っているのか、眠気が体を放さずいつまでも深く眠ってしまった。
礼は少しばかりの朝餉を食べた。その時は澪もやって来て、三人で冷やした果物を少しばかりつまみおしゃべりをして時間を過ごした。
「礼様、ご気分はいかがですの?」
「ええ、いいわ」
「実言様は、礼様がおやつれになっているのをひどく心配されていましたわ。旅の疲れと朔様を失われた悲しみから体に負担がかかっているのではないかとおっしゃられて、滋養のあるものをたんと食べさせるように言われました」
それを聞いて礼は実言の気持ちを嬉しく思った。
「礼様、実言様に早くお話ししなさいませ。どれほどお喜びかと思いますわ」
そうね……と礼は答えたが、もう少し体の様子をみたかった。実言も子供を欲しがっていたからとても喜んでくれることはわかっているが、自分の心と体を整えなければ、安心とは思えなかった。実言が喜んでくれることが分かっている分、自分でもう大丈夫と確信したかった。
朝餉が終わると礼は子供部屋に行き、乳母たちと遊んでいる実津瀬と蓮を眺めていた。部屋に入って行っても、「お母さま!」と駆け寄ってくることはなく、礼が見えないかのように二人は駆けまわり、また人形遊びをしている。
今日も元気な二人の姿をみられることが今の礼には嬉しくて顔がほころんできた。
怒っている態度を取り続ける子供達に申し訳ないと思う気持ちで、こみ上がる寂しくて悲しい思いを押し込める。
多くを望まない。二人の一日一日の成長を見ていられるだけでいいのだ。お腹の子もじっとして過ごしていれば安心してくれるだろうと思った。
二人が柔らかな毬を投げたり受け取ったりして遊んでいたが、その毬が反れて礼の方へと転がってきた。竹を編んで玉にしてそれを布で覆ったもので、布が勢いを止めるようにしてゆっくりと礼の手の届くところに来た。礼はそれに手を伸ばして取り上げると、子供達を見た。子供達も礼を見ていたが、視線を逸らしてすぐに部屋の奥へと引き返して行った。
今日も子供達の怒りは収まらないようだ。礼は毬を持ったまま二人の背中を見つめた。
庭に人影が入って来た。診療所の医者の助手をしている女が礼のいる階に向かって歩いて来る。診療所に何か起こったのか。急病人が来て手が足りないのか、薬を取りに来たのか。女に気づいた礼は毬を手に持ったまま立ち上がった。
礼が立ち上がったことで、こちらに向かってくる女にも礼の顔が見えて、表情を緩めて歩く速度を上げる。礼は庇の間からゆっくりと簀子縁に出て、女の用事を聞こうと階の方へ向かった。
その時である、目の前に小さな影が現れて、甲高い大きな声で言い放った。
「どこに行くの!」
後ろからは。
「行っちゃだめ!」
と声が上がった。
目の前に両手を命一杯広げた実津瀬が立っている。後ろを振り向くと、蓮が裳を掴んで引っ張っていた。
礼はとっさにしゃがみこんで、両手を広げると実津瀬と蓮は吸い込まれるようにその腕の中へと入ってきた。
「行かないで!」
「行っちゃだめ!」
二人は口々に言って、勢いよく泣き声を上げた。
「お母さま!行かないで!」
実津瀬も蓮も同じことを口々に言っていたのが、そのうち合わさって二人で一緒に泣き声を上げた。
礼は二人がぴったりと自分の胸に寄り添って大きな目に涙を溜めてはこぼすのを驚きと共に、母がいなくなることの不安を与えたことを申し訳なく思った。
「どこにも行かないわよ!」
礼は二人の目を交互に見つめて言った。
「もうあなたたちを置いてどこかに行ったりしないわ!ずっとここにいるわよ。寂しい思いをさせたわね。ごめんなさいね」
礼は二人の頭を撫でながら、庭にたたずむ女に目配せした。女もわかったようで、一旦その場から遠ざかっていく。
実津瀬も蓮も礼を無視しているようで実は子供心にその様子を気にしていたのだ。礼が急に立ち上がって外に行こうとするのを見て、またどこか遠くに行ってしまうのではないかと恐れて、たまらず飛び出してきた。
二人の必死な姿に、礼も涙を流して二人をなだめて謝った。自分は辛いと思っていたが、二人にはもっとずっと長い間辛く、悲しい思いにさせていたのだ。礼は改めて二人に寂しい思いをさせたと反省し、胸に抱きかかえて抱き締めた。
母子三人がわんわんと大きな泣き声を上げているのを、乳母や侍女達は安堵した顔をして見つめた。
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