Infinity 第三部 Waiting All Night120

小説 Waiting All Night

 詠妃は自分の身ばかりを案じていたが、そこで初めて自分の行動が最愛の息子である葛城のその身を危険にさらしたのだとわかった。
 ここに来て岩城一族の最大の狙いは次の次の大王を誰にするかに移ったのだ。春日王子が亡き後、大王の位は、文句なく大王の息子へと継承されていく。どの王子が継ぐのか、それは長子から順と考えられるが、大后との間の香奈益王子は体が弱く、大王としての職務を全うできるか不安視されている。そうなれば次の継承者は詠と間に生まれた葛城王子になる。岩城一族の娘が生んだ御子、有馬を大王にするためには、その葛城を排除する必要があった。その機会を得たと、岩城実言がここでありもしない嫌疑を作り上げようとしているのだ。
 しかし、葛城王子は紛れもなく大王の子である。誰が何と言おうとも大王の子であるのだ。
「なんということを言うのか……お前には情けは無いのか」
 詠妃は悲痛な心の叫びをかすれた声で絞り出した。
 実言には詠妃の言葉に引っかかるところがあったが、そのようなこと気にしている場合ではなかった。今は我が一族の将来を決めてしまうほどの岐路に立っているのだ。
「川原殿、詠妃様をお連れしてください」
 川原は詠妃に近寄り、その腕に手を置いた。
 詠妃はその手を嫌がって体をよじってはねのけた。
「後宮の女官を呼んでください。それまでは私が付き添いしますわ」
 礼はそう言って詠妃と川原の間に入った。
 礼は詠妃の姿を見ていると、男たちに囲まれてひっ捕らえられていくのが不憫でならなかった。
 詠妃はそれまで礼の手を放さなかったが、今度は礼が詠妃の手を握って放さない。行きましょうと促す気持ちで礼は詠妃を見た。その顔は疲れ、悲しみに暮れた表情だった。
 ここでどれだけ抗っても、何もできないことを悟った詠妃は、後宮側の出入り口に向かって歩き出した。
 前を実言と一人の衛士が歩き、詠妃と礼が並び、その後ろを川原がついて行く。
 礼は隣の詠妃が気になるのはもちろんだが、それよりも前を歩く夫のことが気になった。
 その身を脅かす何かを感じるのだった。
 礼は須和家の血を引く娘である。その血を受け継いだ者は不思議な力を持っている。礼はこれまでに様々な危険を察知し、実言の身を襲うそれを身を挺して回避してきた。今も、自分たちが歩いて行くこの回廊の先に不安が広がっている。
 礼は、詠妃と手を繋いでいる反対の手を自分のお腹へと置いた。
 自分の腹の中に宿った命。晴れてこの世に誕生させて、実言、実津瀬、蓮に抱かせてやりたかったが、それはできないかもしれない。
 すまないと、礼は心で詫びた。目の前の夫の背中を見ていたら、その人を庇わないではいられない。もしもの時は、この子と共に黄泉の国へと逝こう。二人なら、寂しくない。その時、お腹の中で苦労を掛けた我が子の顔が見られるのかと思うと、嬉しくさえある。 
 礼は詠妃の手を放した、その代わりに夫の肩に手を置いて、その身を夫の前へと投げ出した。礼は実言に抱き着くようにして、その前を塞いだ。
「礼……だめだ、三度目はないよ」
 しかし、実言はそう言うと、礼を左手に庇い、右手で短剣を抜き取ると振り上げた。
 ほんの短い、一瞬と言っていいほどの時間で起こったことに、その場の一同は怒声や悲鳴を上げた。
「勇矢!」
 詠妃も声を上げた。
 柱の陰に隠れていた男が飛び出し、剣を振りかざしたのだ。礼はその悪意を感じ取って実言の身代わりに切られる覚悟であったが、実言も人の気配を察知して、自分の前に飛び出した礼を庇い、振り上げた短剣で飛び出してきた男の剣を受けた。力強く振り下ろされた剣を受けるには短剣は非力で、結果的には剣を己の肩で受けることになった。
 礼は目の前で夫の右肩に剣の先が食い込むのを見て、悲鳴を上げた。
 それと共に、詠妃は剣を振り上げた男に近づいた。男は詠妃に向かって。
「姉様!」
 と言った。
 実言の隣にいた衛士は素早く動いて、剣を持つ男を捕まえにかかった。
「姉様!逃げて!」
 男はそう言ったが、詠妃は真っ青な顔をして男を見つめていた。
「勇矢……」
 必死な男に対し対照的に冷めた目で見つめるのは詠妃である。
男はその場で衛士に取り押さえられてしまった。
 礼は夫の肩から流れる鮮血に、自分の領巾を取ると丸めてその肩に当てた。実言は崩れ落ちるようにその場にしゃがみこむ。礼は怪我をしていない方の肩に自分の肩を入れて支え、ゆっくりと夫をその場に横にならせた。
 実言たちが入ってきた使用人が使う庭の入り口が開き、大勢の男が入ってきた。それは実言が万が一のために準備していた岩城家の従者や味方の衛士たちだった。弾正台少弼の川原は今度は躊躇なく詠妃の腕を掴み、その周りを押し入ってきた男たちが囲んだ。
 潜んでいた男は、両手を封じられても上半身をよじって、詠妃に悲しみにくれた視線を送った。
「勇矢……」
 詠妃は、その男の目を見つめた。それは憐れみをたたえている。
「……岩城……満足か……」
 詠妃は横たわる実言を見下ろし、小さな声で言った。
 実言は詠妃の顔を見ていたが、自分を見つめる妻の顔が割って入ってきた。左目のないかわいらしい女人が今にも泣きそうな顔で話しかけてくる。
「……実言……」
 口を動かしているが、言葉にならずやっと聞こえたのは消え入りそうな声で自分の名を呼ぶ声だった。
 後宮側の入口からも警備の兵士や女官が走ってきた。
 大勢の男たちが集まって輪を作っている。後宮側から入ってきた者たちは、その光景に目を瞠った。
 弾正台の役人、川原は詠妃の腕を軽く後ろにやって、そのまま歩くのを促した。
 詠妃は大王の狩りに同行するときに見た、車の窓から見えた道端に行き倒れている真っ黒い平民の半死の姿を見るように、実言を見下ろした。汚い、一顧だに値しないものを見る目だった。
「……この男こそ、逆賊だ。……葛城は……葛城王子は大王の御子である。誰が何と言おうともな。大王はわかってくださる……あの聡明な少年が誰の血を引いているか……お前の浅はかな奸計など、見通していらっしゃるわ」
 それは腹の底から出てくる呪詛の言葉のようであった。
「……こうなっては私はどうなっても構わない。しかし、この恨みはお前に纏わりつき、お前が大切に思っているものを呪ってやる。お前を不幸へと落とし込んでやるからな。楽しみにしておれよ」
 言い終わったあとに高笑いをして、詠妃は川原に従い、回廊を上って後宮側の出入り口へと歩いて行った。
 詠妃から勇矢と呼ばれた男も、肩からがっしりと抑え込まれて何の抵抗もできず、目から落ちる涙を拭うこともできずに詠妃を見送るのだった。 
「……ねえさ……詠様……」
 小さな声で無念そうに詠妃の名を呟いた。
 詠妃を助けるこの男は誰なのか。その名を知る者はここには誰もいなかった。
 礼は夫の肩から溢れる赤い血を止めようと押さえる。実言が体を起こそうとするので、礼は悲鳴のような声で止めた。
「だめよ。横になっていて、血を止めなくては」
「……いいや……耳丸……耳丸はいるか!」
 実言は礼の言葉など聞かずに、耳丸を呼んだ。その乳兄弟であるひと際大きな男は人をかき分けて最前列まで来た。後から入って来た一団の中にいたのだった。
「肩を貸して私を起こしてくれ。今のことを大王や弾正台にお伝えしなければ」
 耳丸は礼の反対に回って実言の体の下に手を入れて起こそうとした。
「そのようなことは、手当てをしてからでも遅くはないでしょう」
 礼は黙々と実言の言うことに従う耳丸を右目で睨んだが、すぐに夫に視線を戻した。
「いいや、早い方がいい。今、ここで起こったことをすぐに大王や弾正台にお伝えするのだ。礼、縛ってくれ。完全に止まらなくても仕方ない。耳丸、支えてくれ、頼む。皆は、ここで見たことを弾正台の探索の者に話してくれ」
 実言は耳丸や取り囲む衛士たちに向かっても話をする。
 礼は、夫が今からしようとしていることは承服できないが、それでも血を止めるために、押さえていた領巾をぐるぐると肩に巻き付けて固く結んだ。血に染まった布が肩を覆って派手なことになった。
「私も付き添いさせてください。すぐに手当てができるように」
 耳丸の手を借りて起き上がった実言に礼は詰め寄るように言ったが、実言はふっと笑って。
「いいや、礼、お前は邸に帰って待っていておくれ。今度こそ、子供達と共にね。私は必ず帰るから。その時には、お前の手で手当てをしておくれ、ね」
 優しい声音で礼に念を押すように言った。しかし、耳丸の肩につかまると唇を噛んで肩の痛みに耐えるのだった。その時に漏れる吐息は礼の心を締め付けるのだった。
「実言!」
 礼は周りの目を憚ることなく、夫の名を呼んだ。実言は耳丸の手を借りて立ち上がり、周りに兵士を従えて、後宮側の出入り口へと向かうのに、傷を負っていない左手を上げて、礼に答えた。
 礼は自分の前を埋め尽くす兵士たちの列に取り残されてしまい、夫の血で染まった両手を見つめた。夫の言葉を……実言の言葉を信じる。……信じると何度も自分に言い聞かせて。

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