Infinity 第三部 Waiting All Night19

椿 小説 Waiting All Night

 刻は夕暮れ。簀子縁では篝火を吊るす用意が始められた。夕闇が急速に進み、客人も徐々に入れ替わっていく。岩城本家から来た女性や子供たちも楽しいひと時を過ごしたと満足そうに帰っていった。
 夜の客人は、宮廷の大臣や有力貴族、豪族たちである。ぞくぞくと真新しい門をくぐり、大広間は多くの人で埋った。
 今、部屋の中央では実言の父、園栄が立って話をしている。その時には、別室で同年代の男たちだけで集まって話していた実言たちも、大広間に戻ってきていた。
 夜の宴の料理や酒が新たに招待客の前に配られ、客人たちは豪華な料理に舌鼓を打ち、十分すぎる酒に喉を鳴らした。
 私邸での宴では驚くほどに贅を凝らしたこの会に皆、驚きそしてそのもてなしに満足する。
 礼は、手伝いに残っていた岩城本家から来た女性たちを見送り、実家の兄弟も送り出すと、一段落して、大広間の喧騒を対の簀子縁から眺めた。
 暗闇の中、その大広間だけは煌々として大きな笑い声が起こり、たいそうな盛り上がりを見せている。
 ちょうど、夜の趣向として準備していた舞が始まり、笛の音がゆっくりとその調べを紡ぎ始めた。
礼は眠ってしまった子供たちの様子を見ようと邸の奥へ行くのに、簀子縁から庭の方を見たとき、暗闇の中に足だけが篝火の灯りの届く場所に見えた。勘のようなものであるが、多分あの男だと思った。
「…………耳丸?」
 礼はしばらく待った。その足は、じっと動かなかったが、やがて一歩前に歩み出た。
「……はい」
 暗い庭から大きな体の腰あたりまで灯りで照らされた。上半身はまだ暗闇の中だが、薄い光がその顔の鼻や、眼窩の輪郭の陰影を浮き上がらせた。
「ああ、やはり耳丸。……久しぶりね……」
 礼は簀子縁から耳丸に声をかけた。
 耳丸は夫である実言の乳兄弟であり、従者として長く使えている男である。実言が北方の戦に行くときは、礼の傍に仕えさせるために置いていった男だった。そのおかげで、礼は耳丸と共に北方の戦場まで共に行って、怪我をして生死を彷徨う実言のもとに行くことができ、その一命を取り留めさせたのだった。礼は本懐を遂げて、耳丸と共に連れだって、礼の叔母の住まう束蕗原まで戻ってきた。戻ってきてからは、礼は残した我が子のことで頭がいっぱいで、命を懸けて旅したことはもう過去のことであり、ゆっくりと振り返る時間はなかった。そこから二人は互いの生活を送って、今日まで顔をわせることはなかった。
 礼は、近くの階を降りた。耳丸は近寄ってこない。
「あなたは今、どうしているの」
 実言の従者である耳丸のことは実言がすべてを決めている。礼は、耳丸がどのように仕えているか知らなかった。
「北の領地の佐田江にいる」
 そこは、実言を助けるための北方の旅の途中に立ち寄った岩城家の領地だった。
「そこで、都に荷を送る仕事をしている。向こうで妻を得て、もうすぐ子供も生まれる」
「まあ、そうなの。おめでとう。全く知らなかったわ」
 礼は階の下から耳丸の方へ数歩歩み寄ったが、その位置は決して篝火の灯りの届くところから出ようとはしていない。耳丸が立っているその暗闇の中には入って来ないのだ。
「この邸が完成して実言様から、再び身近に仕えよと言ってもらえた。まず、私だけがこの宴に合わせて帰ってきたのだ。警備の手伝いをしている」
「そう。それは実言も心強いわ。私も、あなたのような強い人がいてくれて安心よ」
 礼は右目を細めて笑顔になった。
 暗い庭に顔を向けていても、耳丸にはその顔の様子が分かった。脳裏に刻んでいる礼の顔と、何一つ変わっていないことを嬉しく思った。
 耳丸は、一歩二歩と後ろに下がった。
「耳丸?」
 礼は、耳丸がなぜ後ろに下がるのかわからなかった。しかし、耳丸はもう一歩下がって立ち止まると、傍にある木に巻き付いた葛の花を手折って、礼の前に差し出した。
 葛は、薬に使えるし多くの用途のある植物のため、礼は邪魔にならない程度に植えて活用しようと考えていた。その花を手折って差し出した耳丸の行動を礼は不思議には思ったが、深くは考えなかった。礼に差し出してくれた花を受け取ろうと耳丸と同じだけ庭の奥の暗闇に進んだ。
 それは罠である。耳丸の心の奥にしまっていた思いが吹き出し、その渇望に堪えきれず仕掛けたのだ。願った通りに、その人は耳丸の傍に歩みより、耳丸の手に、その手を伸ばした。
 礼は、手渡された葛の花にどのような意味があるのか、問おうとしたとき、耳丸の素早い動作は、花を握る礼の手首をつかみ引き寄せて、瞬く間に自分の腕の中に入れた。
 礼は耳丸に抱きしめられた。大きな体ゆえに、その男の腹に顔を押し付けられて、耳丸は上から多いかぶさるようなかっこうだ。
 耳丸は、その体をこの腕の中に入れたことに、喜びと、そして恐れを感じた。礼は我が主人の妻である。
 主人である実言を助けるために、礼とともに北方に旅をした。
 往復一年の旅。
 その時、耳丸は礼を我が主人の妻と認めていなかった。左目に矢を受けて、その顔の半分を失った女人だ。我が主人の一点の曇りもない輝かしいその未来の伴侶としては、役不足としか言いようがなかった。その思いが煮詰まって、礼を憎むほどだった。
 実言が耳丸を北方の戦には連れて行かず、自分の代わりに傍で礼を守ることを命じると、耳丸は苦しくてしばらくの間放心した。昔は実言とともに南方へ戦に行き、その野蛮な民たちと戦って連戦連勝。戦況が悪くなっても、耳丸の作戦が取り入れられて、戦い勝利を手にした。耳丸は実言との戦場が楽しくてしかたなかった。それが、北方の戦には帯同を許されず、憎い相手を守れというのだ。
 耳丸の姉家族は借金で、一家で首をつって死ぬと耳丸に脅しをかけて、金を無心してきたのを礼に知れてしまった。礼はその借金を肩代わりすることを申し出で、その代わりに、怪我をして死に瀕しているから夫を助けに行くために、耳丸に供をしろというのだった。苦渋の決断で、耳丸はその旅に出た。そして、その道中で耳丸にとって礼は、その心を熱くも冷たくもさせる唯一の女人になった。左目を失い、その醜い傷を持った女人を隣に置くことは、その人物の価値を落とすと思っていた。しかし、それは周りの人間が勝手に思っていることで、当の本人たちはお互いを思いやりその心の奥底で触れ合うことは美醜など関係なくただ傍にいられたらいいのだと知った。
 それは、旅の道中でお互いの命を思いやり助け合って、自分の命を投げ出しても相手を守りたいと思った経験の結果だった。
 耳丸は礼を守るために野盗に切られ死の淵を彷徨った。礼は耳丸を守るために身を削って看護した。そして、耳丸にとって礼は愛しい女になったが、主人の妻には変わりなかった。
 身も心も自分のものにしたい。見つめあって体の内側に広がる喜びや安心を感じ、その柔らかな体をこの腕の中に入れて守り、またしっとりとした艶な肌に顔をうずめて、性愛の悦びを分かち合う。それは、夢でしか叶うことはない。
 どんなに思っても、礼は旅をともにする従者としか耳丸を見ていない。
 だが、耳丸は夢の夢想を実現した。しかしそれは、甘美とはほど遠いものだ。
 主人の妻である礼を襲い、凌辱した。
 力で礼を抱きすくめ、その唇を奪った。腰の帯を解き、その単を剝いで肌を舐め、その体を無理やり開かせて一つになった。 
 礼は決して凌辱されたとは言わないだろう。だからと言って、意思のある行為ではない。耳丸は一時でも、お互いの思いは通じたと信じたかったが、冷静になれば自分を憐れんでくれた礼の優しさだったと思えた。
 旅が終わって、実言が帰還するのを待った。帰ってきた実言は、礼を守ったことを労った。そして、もっといい仕事を与えるといって、佐田江の領地に行くことを命じた。
 それは悪い仕事ではないが、乳兄弟として実言の傍に仕えると思っていたのに、そのそばを離れさせられたことはもう一人の舎人として生きて行けということなのかと思った。そして、その地で妻を迎えて、生活の基盤を作っても、耳丸はあの一年におよぶ旅に支配されたのだった。
「礼……私は、あの長い旅を忘れられない……」
 耳丸は苦しくて吐息の中で切れ切れに言った。
 礼は、耳丸の腕の中で身じろぎした。そして、そっと耳丸の背に手をまわした。
「……私も、あの旅のすべて覚えている。全てを…」
 礼の緩い手の感触に身震いしそうになる。佐田江にいっても、時折思い出すあの夜。許されない甘い思い出だ。
 耳丸は、今以上に礼をきつく抱きしめた。礼は耳丸の腹に頬を押し付けられながら言った。
「……すべては実言のためよ。……私たちは、すべて実言を救うためだった」
 耳丸の袍に押し付けられた礼の声はくぐもったが、耳丸にははっきりと聞こえた。
 新しい邸ができたのを機に都に戻るように言われて、戻ってきたとき毎夜夢の中で会った女のその姿を少しでも垣間見えたらと思っていた。それが、相手から声をかけられ、罠にかけるように暗闇の中でその体を捕まえた。しかし、女はいうのだ。あの旅は愛する男のためだと。その男のためであれば、おまえとの一夜などなんともないと言っているようだった。
 体からありったけの声量で叫びそうになるのを抑えるのに、耳丸は体が震えた。そして、耳丸は腕の力が抜けていった。
 邸の中から礼を呼ぶ声が聞こえた。礼は顔を起こし、邸を振り向いた。
 侍女が控えめな声で礼を呼んでいた。
 耳丸はゆっくりと庭の奥へと入り、闇の中に消えた。

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