Infinity 第三部 Waiting All Night23

小説 Waiting All Night

 大王もその弱り切った様子に、もう宮廷に留めておくのもかわいそうだと思われて、やっと碧妃の願いを許してくださった。まだお腹の膨らみは目立つほどではないが、大王の前に座った碧妃は痩せて、一人で体を支えられないほどの衰弱ぶりだ。有馬王子も大王に呼ばれてその膝の上に座っていたが、さもすれば横に崩れ落ちそうな母君のことを心配されて、母君の前に走り寄った。
「碧、そんなに具合が悪かったのか。気づかなかった朕を許せ。……幼い有馬も心配顔じゃ、岩城に預ける故、体を大事にして我が子を産んでくれ」
 とありがたいお言葉をいただいた。
 碧は大王の前を辞すると体の力が抜けて行った。それから、すぐに実家から遣いが来て実家に帰る準備を始めた。大王の許しが出たからすぐに帰るというのも当てつけのように見えて、ゆっくりと準備をして本家に行くことになった。
 碧妃が本家に下がる日の前日。
 礼はいつものように碧妃の館に行き、その準備を手伝った。
 碧妃に直接危害を加えることはないが、碧妃が大王の宮に呼ばれた際に向かう渡殿に動物の死体を切断してまき散らされていたことがあった。碧妃はそれを見て青ざめてその場で卒倒した。そのような嫌がらせや、他の館の侍女達とのいじわるで、碧妃の館は暗く重苦しい雰囲気になった。館の主人である碧妃の弱った姿をいい気味と思って、後宮の他の館の侍女たちはほくそ笑んでいる。そこから、逃れられることは碧妃にとっては、体調の回復や気持ちの持ちようが変わってくるはずだ。
 それまでの青白く沈んだ顔をした碧妃は礼の顔を見ると、安堵の表情を見せた。声音もいくばくかは明るさがある。
「碧様、いかがです?ご気分は」
「本家に帰ることをお許しいただけて、ほっとしているのだ。いろいろと嫌がらせもあって、この館の者たち皆が疲れ切っていたから。私が本家に行けば、皆も少しゆっくりできるであろう」
「まあ、皆はあなた様のお体を一番心配しています。本家では栄養のあるものを食べていただこうと手配していますわ。明日からは心配なくお食べになって。そうすればお腹の御子も安心なさいます」
「そうね。お腹の子はよく耐えてくれています。気の弱い母を恨んでいるかもしれないわね。本当に申し訳ないわ。大王にも、この子にも」
「いいえ。碧様は皆を守るために奮闘なさいましたわ。これからは、お腹の御子のことだけ考えていただければいいのです」
「ええ、有馬も傍に置いて、相手をしてあげられるでしょう」
「本家では準備は整っております」
 碧妃は笑顔を向けて、礼もそれに応えた。
 碧妃を手助けするために遣わした侍女の淑がその時も、傍に座ってこの会話に耳を傾けている。
 実言が礼のために本家から呼び寄せた淑は、礼の元から碧妃付きの侍女として仕え、この度一緒に本家に行くことになった。臨時侍女のため、持ってきた荷物はすべて持って帰ろうと準備をしている。碧妃の前を辞して、礼は侍女たちの部屋が連なる棟へ移って、淑の部屋で明日の準備を手伝った。
「淑、申し訳ないわね。あなたをいいように使って。本家にいたのを、私のところに来てもらって、それから後宮に来てもらって、また碧様とともに本家に戻ってと」
「いいえ、私の身がお役に立つのであれば、本望ですわ」
 淑はさわやかに笑って、手伝わせている侍女たちに持って帰るものをどの箱に入れるか選別して指示している。
 礼は、手伝うつもりでいたが皆そんなことはさせられないといって手をつけさせず、慌ただしい部屋の片づけの邪魔をしないように、奥の部屋から隅へ隅へと移動していたら、とうとう簀子縁まで出てきた。
 もうそこにいる必要はないのだけれど、礼の傍でよく働いてくれた淑をいいようにこき使っているように思えて、引っ越しの様子を見ていたのだった。
「礼様、そろそろお邸に戻りませんと、実言様が心配なされます」
 奥から淑が箱を運び出してきて、礼に促した。
「あれ、里はどこへ行ったのかしら?」
 礼についてきた侍女を探した。先ほどまで傍にいたのに、今は見当たらない。
「厠へでも行ったのかしらね」
 礼も姿を探したが、すぐには見つからない。
「探してきますわ。礼様、しばらくお待ちくださいませ」
 淑は厠の方へと簀子縁を進んでいった。
 碧妃の館の侍女たちの住まう部屋は、第四妃の幹様の侍女たちの部屋と向かい合わせになっていて、目隠しのために山茶花の樹が植えられていた。
 その先を赤色に染めているつぼみが今にも咲きそうな山茶花を礼は簀子縁に立って眺めていた。
「おや、奇遇だ。こんなところで会うなんて」
 花を眺めるのに夢中だった礼は、人が近くに来たことに気づかなかった。不意の声に驚いて、顔を上げた。
 そこには、扇で口元を隠した哀羅王子が、礼の驚きようを面白げに眺めていた。
 礼はすぐに頭を垂れて挨拶した。
「お前は、礼、だったな。こうも会うとは何か不思議な縁があるものだな」
 礼は平伏したまま、なぜ侍女たちの住まう棟に哀羅王子がいるのだろうかと考えた。
 考えたところで、礼は宮廷内の見取り図などわかっていないため、答えを導き出すことはできなかった。
 哀羅王子は、吉野山から連れ出してくれた春日王子の庇護下にあり、宮廷内の春日王子が与えられている館に自由な出入りを許されていた。後宮と春日王子の館は隣り合っており、後宮の妃たちの館を結ぶ渡殿、簀子縁をどこからでも使って春日王子の館に通っていけるのだった。
「顔を上げよ」
 礼は命じられるままに顔を上げた。哀羅王子は礼の顔を見下ろして、じっと見ている。
「おいで」
 急に哀羅王子は礼の手首をつかんで引っ張り立ち上がらせた。礼は、その手に引かれるままに立ち上がり、王子は後宮の侍女たちの部屋が連なる簀子縁を進みながら、御簾が下りている庇の間に礼とともに上がり込んだ。
「岩城実言の妻と立ち話というのも具合が悪いであろう」
 他の館の者が見ていたら邪推されて、変な噂を立てられるかもしれない、というのだ。だからと言って、王子と閉鎖された部屋の中に二人きりでいるのも礼にとっては心苦しことだった。
「今日は何用で、またここに参ってるのかな」
「碧様がご実家に下がられるので、その準備に参っておりました」
「ほお、岩城家もいろいろと大変だな。岩城実言はどうしている」
「夫も、碧様が無事に御子をお産みになられることを願っております。そのために今日は私を後宮に遣わしたのです。碧様のためにはどのような労力も惜しまないと言っています。私も同じ気持ちで参っています」
 哀羅王子はそうだな、と感心するように頷いている。
 礼は穏やかな表情の哀羅王子をその右目でとらえて、また夫が哀羅王子とのことで悩む姿を思い浮かべると、哀羅王子に夫の気持ちを分かって欲しかった。
 それは余計なこととは何一つ疑うことなく礼は哀羅王子に言葉を投げかけていた。
「夫は、哀羅王子様をとてもお慕いしております。子供の頃の思い出を聞きました。いまでも心はその時のままです。長い年月離れていた時間を埋めて、また王子様にお仕えしたいと思っています」
「ほう。そんなに私に尽くしてくれると。ありがたいことだな。そこまで思ってくれるなら、私の望みを叶えてほしいものだ」
 御簾の下ろされた薄暗い庇の間に、向かい合って座っている哀羅王子は呟くように言った。そして、礼の右目に怪しい視線を据えて言葉を続けた。
「私はまだ独り身なのだよ。都から遠く離れた吉野山の中に、誰にも顧みられず暮らしていたから、世話してくれる侍女たちはいても、妻にできるものはいなかった。私は、そなたに興味がある。実言はそなたを私に渡してくれないかな」
「……何をおっしゃいます……」
「実言はそなたを宝玉のように大切にして、誰にどのように口説かれてもそなた以外を妻にしないそうではないか。都に来たばかりの私の耳にもそのような噂が聞こえるほどなのだから、本当なのだろう。娘を持つ貴族たちが悔しがっている証拠だ。十数年も前の私との縁を大切にしたいと言ってくれるなら、私の望みをきいてくれてもいいではないか。妻にくれないというなら、貸してくれないかな。私への思いが真実なら、そなたを共有することも許すはずだが」
 礼は右目を見開き、王子の言葉に驚いた。
「そのようなお戯れをおっしゃっては困りますわ」
 そういうのが精一杯で、礼はこの場をこの先どう切り抜けていけばいいのかわからず、不安に右手が襟元を握って、自分を落ち着かせようとした。
「私は嘘や冗談は嫌いでね。そなたをからかっているなんて思ってもらっては困る。実言に聞くまでもなく、今ここで二人で相談してもいい。そなたが私と実言の橋渡しになってくれたら、こんないいことはない」
 哀羅王子は礼の膝に触れるほど、自身の膝をにじり寄らせて、そして右手を礼の左頬に伸ばした。
 礼は恐れて顔を後ろに向けようとするところに王子の右手が受け皿のように入って、動かせず王子の顔を正面から見るしかなかった。
 小柄で少年のような容貌の王子は、しかしその力は男のそれで礼の頬をしっかりと押さえて、礼の自由を奪った。
「そなたは嫌か?私と夫の友情の橋渡しとなることは」
 みるみると王子の顔が近づいてくる。
「ああ、王子様……」
 とっさに体を反転させてようとしても、王子の右手は礼の顔を捕まえて、左手は礼の腰に回されていた。
「そなたは断れるのか?」
 礼は、然りか否かを答えられるわけもなかったが、王子も答える時間を与えることなく、素早く礼の唇に自分の唇を重ねた。
 柔らかな感触と冷たさが唇を通して伝わった。王子は口づけたまま歯の間から舌先を出して、礼の唇をなぞって刺激する。礼は驚き、閉じた唇を少し開く。堅くかためた堤がひとたびやぶれると施しようもなく崩れ落ちていくように、礼は王子に深く唇を吸われた。それは激しく、礼は自分の体を支えられずに後ろに倒れた。王子は馬乗りになって、なおも礼の唇を求めた。それは、辱め、穢したいのだと思った。
 ゆっくりと礼の唇をむさぼって放す。礼は放心した。
「実言宛に手紙を書こう。昔の友情を、妻を通じて復活させて温めあいたいと」
 礼は、言葉に我に返って起き上がろうとした。哀羅王子は、礼の左肩を押さえて、礼を寝かせたまま、空いた手で礼の腰帯を解いた。
「まだだ」
 哀羅王子は、礼の襟元を掴むと、脱がすために押し広げた。素肌が晒されて、白い胸が見えた。少年のように白く、しわや傷一つない顔が、再び礼の顔に近づき、囁いた。
「あの男は、そなたをどのように愛するのか、教えてもらえまいか」
 王子は礼の首筋に唇を這わせて、開いた襟から中へと手を入れて、帯で締められていた重ねた単を引っ張り出しにかかった。礼は力いっぱい王子の体を押し返して起き上がろうとしたが、それ以上に王子は礼を抑え込み自由を奪った。王子の手は礼の腰をまさぐって、唇は礼の胸の上を這って強く吸い、何か所かで印をつけて乳房の丘を登った。
「………っ……」
 礼は声を抑えた。驚きと痛みに王子の重みを押しのけるほどに背中が反りあがった。しかし、王子も反った礼の体を押し込んでやめない。
「……っあっ……」
 礼は我慢ができずに声が漏れた。
「礼様!」
「れーいーさまー」
 遠くの方から礼を呼ぶ声が聞こえてきた。慌てたように簀子縁を踏み鳴らす音。侍女の淑と里の声である。声は近づいてくる。
「礼様!」
 二人の切羽詰まった声音とともに、侍女達の部屋をかたっぱしから覗いているのがわかる。どたばたと御簾を上げたり、蔀を上げたりとせわしない音が聞こえる。礼がいなくなって、妃の部屋の方へ行き、いないことがわかると再び侍女たちの部屋の方に回ってきたのだ。
「どちらに、いらっしゃるのです!礼様!」
 淑の声は悲鳴のような悲壮感が漂っている。実言に後宮で礼を独りにしないように言い含められているのを守れなかったことの悔恨がにじみ出ている。
 この部屋もやがて覗かれることだろう。
 哀羅王子は礼の胸から顔を上げて、裳の中から手を引いた。
 礼の胸の上に目を当てて、少年の顔が妖しく嗤っている。
「残念だ。この続きは、またの機会に」
 王子は自分の身なりの乱れを整えると静かに礼の前から消えた。
 礼は王子がどのようにその場を立ち去られたのか見ることはできなかった。わが身の衣装の乱れを直すのに精一杯だったからだ。もう、ほとんど脱いだような恰好である。礼は上着の前を合わせるのに、そっと胸を見た。左乳房にいくつかの強く吸われた跡が続き、乳首の横に赤い痕がある。礼はすぐに前を合わせて、添帯を結んだ。
「ああ、礼様!」
 簀子の角を曲がって現れた礼を淑と里は見つけて、声を上げて駆け寄ってきた。
「どちらへ行っていらしたのです」
「私も里を探していたら、迷ってしまったのよ。心配させてしまったわね」
 淑も里も安堵の表情をした。
「さあ、車の用意はさせております。参りましょう」
 礼は急いで車に乗り込んだ。礼の衣装から、今までにない香がしているような気がしてならなかった。礼には先ほどまで一緒にいた男性の衣装から匂った香が鼻腔に抜けてめまいがした。里がこの移り香に気付いて、何か思うことがあるのではないかと礼は気に病んだ。

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