Infinity 第三部 Waiting All Night25

小説 Waiting All Night

 碧妃が出産のために岩城本家に戻って一月が経つころ、大王は突然に体調を崩された。発熱して、床に寝付いてしまわれたのである。王族も臣下も皆が心配した。宮廷にいる医者が交代でその様子を見守り、それとは別に、大后が神殿で祈祷をして、大王の健康の回復を祈った。
 しかし、それからもう一月経っても、大王は床から起き上がることができずにおられた。
 大后をはじめとするお妃たちも毎日のように大王がやすまれている御帳台の隣の部屋に入って、御簾越しに大王の回復を祈った。実家に帰ってしまった碧妃は大王の傍には行けないため、岩城本家で大王の住まわれる宮殿を向いて、隣に座る有馬皇子と共に一日も早い回復を祈った。
 従五位以上の臣下たちは朝堂院に集まってから祈祷所に移り、一斉に大王の回復を祈った。
 しかし、皆の祈りや願いもむなしく、大王の病状は芳しくない。
 折しも、国内の情勢は実言も行った北方の夷討伐が成功して安定している時期であったため、王族、臣下ともに大王の健康のことが一番の気がかりであった。集まれば、皆が大王の健康状態について話をしている。
 気づけば、大王が臥せっているのは呪いのせいだとの噂が広がった。宮廷に勤める医者がどのように手を尽くしても大王が回復されないのは、誰かが大王を呪っているからだと言うのだった。
 その噂は、都の身分の低い者たちが冗談交じりに言ったものだったはずなのに、それが身分高い邸に勤める者や下級役人たちの間でも噂し合った。それが、まことしやかに広がり、都を覆って、朝堂院に集まる高級官僚、貴族の口にまで上るようになった。
 では、誰が大王を呪っているのか。大王を亡き者にすれば得をするのは誰なのか?
 遠い異国の為政者が、わが国の大王の崩御の混乱の隙をついて支配しようと画策するのか、それとも、国内で大王の座を狙うものがいるのか。
 国内で大王の座を狙う者は誰なのか?
 大王が臥せて代わりを務められているのは、大王の弟宮である春日王子である。位は正一位の最高の位で、太政大臣の職につかれている。
 今、春日王子は朝堂院の中で居並ぶ王族、臣下たちの面前に対峙するように座り、それぞれが口々に話す言葉に睨みを利かせながら見守った。前後左右で、大王の芳しくない体調について心配する声が発せられている。あらかた話し終えたところで、一人の臣下が立ち上がった。
「恐れながら申し上げます。噂ではありますが、三条あたりで聞き慣れぬ呪詛のような声が聞こえてくるとか。五条あたりは、何やら火を焚いて呪いを唱えているようで、青い煙が上がっているとの話でございます」
 言い終わって着席すると、朝堂院内はざわめきで耳がおかしくなるほどだった。隣や向いの者たちが口々にその噂の真偽について話し合っている。
 そのざわめきを面して受ける春日王子は、臣下が口々に話す様子を眺めていた。春日王子の脇に座る左大臣の岩城園栄は表情を変えることなく黙ってそのざわめきが静まるのを待っている。
 誰も言葉にしないが、三条あたりというのは岩城本家がある通りであり、五条は岩城実言が新しく邸を構えた通りである。まるで、岩城家が大王の権力を奪うと画策しているとでも言いたげな口吻である。
 誰も言葉にはしないが、まるで岩城家が大王を呪っていると言っているようなものだった。
 一通り臣下の者がしゃべり終わるのを待って、春日王子は口を開いた。
「今、報告があったようなことは、たとえ噂であっても調べるべきであろう。私が然るべき対応をしよう。どうかな、左大臣殿」
 春日王子は隣に座る岩城園栄を見て言った。
「そうされるのがよろしかろうと思います」
 岩城園栄は低頭してそう返事した。
 その場には、園栄の長男の蔦高と三男の実言がいた。
 散開になって、簀子縁で父と兄が立ち話しているところに実言は近寄って行った。実言が来るのに気付いた二人は、頷き合って別れた。実言の兄、蔦高はこちらに向かってくる弟に目くばせをして、軽く会釈するとそのまま通り過ぎた。
「父上」
「ああ、実言」
 兄とすれ違った実言は簀子縁の途中で立ち止まって父に言った。
「これはどういうことでしょう?」
「聞いた通り、見た通りだろうよ」
「兄上とはどのような?」
「相手の策略には乗らないようにすることだと、言った。下手な動きを見せたら、思うつぼだろう。何もせず普段通りにと話した。妻や子を都の外に出すようなことをしてはならぬとね。そうそう、お前こそ、妻と子を一時都の外に出そうなんて思わぬようにな。すぐに束蕗原にやってしまおうなんて思ってはならない。あらぬ嫌疑をかけられるやもしれぬ。私も、碧をいいように使われないよう気を付けるだけだ。有馬様に何かすることはないであろうが、お腹の子にもしものことがあってはならぬからな。お互い一族のために気を引き締めておくことだ」
 園栄は息子に言うべきことを言って、立ち去った。
 父親に釘を刺されて、実言は自分の心を見透かされているのだと苦笑した。
 朝堂院での、名こそ明かさないが岩城家を標的とした一方的な疑惑の糾弾に、実言も王族派が仕掛けてきた闘いだと分かった。通り名を言っているだけだが、それは岩城家を念頭に置いた話であり、その場にいた誰もが岩城一族が呪いの首謀者であると想像したに違いないのである。
 王族派にとっては、臣下派の大将は岩城家である。まずは、そこを叩いておこうということなのだろう。
 このような展開となれば、検非違使を使った一斉捜査が行われるだろう。予告もなく突然に検非違使の役人や兵士が邸に押しかけて、捜査をするのだ。実言は礼や幼い我が子がいかつい役人や兵士に恐怖してしまうのを避けたくて、明日にでも束蕗原にやってしまおうかと思っていたところに、父園栄の言葉である。自分の思いは封印して、邸に帰ってすぐにでも礼に話して、来るべきその日のために邸の者たちを落ち着かせなくてはならない。
 実言は、父と話した後、すぐに邸へと帰った。何一つやましいことはないが、もし邸に踏み込まれたときに、誤解のないように、家人の渡道とこまごまと打ち合わせをした。そして、夜には寝所で二人きりになった礼に話して聞かせた。はじめ礼は驚いていたが、恐れをなしてばかりでは相手に付け込まれるわねと、小さな笑みを見せた。さすが、我妻と思って、その日は礼への愛の行為が過ぎてしまった。
 しかし、相手の動きも早かった。
 その翌朝、夜が明けるとともに朝もやの中に三条と五条の通りには大勢の兵士が現れ、その邸を囲んだ。門を叩く音に、家人は慌てて門扉を開けた。険しい顔の役人が、紙を取り出してその面前に突き出した。そこには、大王を呪詛して殺害しようした嫌疑があるため捜査することを許すと書かれていた。許したのは、太政大臣、春日王子である。
 そのような疑いは甚だ心外であるが、何のやましいこともないので、見るならみてくださいと、二条も五条も門を開けると、役人と兵士が雪崩れ込んできた。
 五条の実言の邸では、主人の実言は起きていて、身支度を整えて、宮廷に出仕する用意の最中であった。妻の礼は夫の準備を手伝っているところだった。すぐに門番が家令の渡道に走り伝え、渡道が自ら主人の部屋の前に現れた。簀子縁に控えて声をかけたのを、礼がすぐに妻戸を開けて、中に招き入れた。
「そうか、こんなに早く」
 報告を受けて、実言は渡道に言った。相手も本気だな、と続けて呟いた。
「へんに抵抗などせずに応じておくれ。私も現場に立ち会うから」
 立ち去る渡道の後ろ姿を見送りながら、礼は不安そうな顔を実言に向けた。
「心配することはないよ、礼。しかし、子供たちが不安がるだろうからあの子たちについてやっていておくれ」
 そっと実言の指先は礼の甲に触れると、すぐに部屋を後にした。礼も、身なりを整えて、子供たちが眠っている部屋に向かった。二人の子供たちはまだ夢の中のようで、すやすやと眠っている。小さな机を持ってきて、束蕗原に住む叔母の去から借りた薬草の本を写していると、むくりと実津瀬が声もなく体を起こした。小さな動きに気付いて、礼は実津瀬の方を向くと、実津瀬も礼を見つけてすぐに立ち上がって母の方へと歩いてきた。
「お母さま、今日はここにいるの?」
「そうよ。二人が起きるのを待っていたの」
「蓮はまだ寝てるね」
 実津瀬は後ろを振り向いて、うつ伏せに丸まって寝ている妹を見た。妹が寝ているのを気遣ってか、実津瀬は始めから小さな囁き声で話している。
「そうね、起きるまで待っていましょう。まずは着替えましょうね」
 礼も実津瀬を真似て囁き声で言うと、実津瀬の寝衣を脱がせて、普段の衣装を着つけてやる。母親を独り占めできるのが嬉しいらしく、実津瀬は礼に抱き着いて、すぐに着替えをしない。礼はそんな実津瀬に付き合って、遊びながら服を着せようと格闘した。
 親子で声を潜めてじゃれ合っていると、うつ伏せに寝ていた蓮がその体を揺らして、ゆっくりと目覚めた。蓮は小さな声のする方を向くと、母と兄が仲良く遊んでいる姿を見つけて、飛び起きて駆け寄った。
「お母さま!実津瀬!ずるい!」
 頬を膨らませて走ってきた蓮を礼は抱き寄せて、「起きるのを待っていたのよ」と言った。少し目を潤ませる娘を膝に跨がせて抱いて話をした。
 二人の着替えを終えたところで、簀子縁が騒がしくなった。庭には兵士が点在して見張っていたが、とうとう子供部屋に面する簀子縁にも役人が来たようである。礼は二人の子の手を引いて、いち早く階を降りた。
「お母さま、どこに行くの」
 知らない男たちが自分の部屋に入って行くのを後ろを振り返って見ている実津瀬は母に手を引かれながら問いかけた。
「今日は一日、お母様と一緒に遊びましょ」
 それを聞いた蓮は母の手にぶら下がるようにつかまって、嬉しそうににんまりと笑った。礼は二人を台所近くの居間に連れて行って、朝餉の膳を取らせた。二人とも器用に箸を使って目の前の食べ物を平らげた。その後に礼が再び二人の手を引いて。
「一緒にお薬の庭に行きましょう。今日はお母さまのお手伝いをしてちょうだい」
と言うと、二人は目を輝かせて嬉しがった。

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