Infinity 第三部 Waiting All Night28

小説 Waiting All Night

 春日王子はくるりとその身を反転させて、御帳台の方へと体を向けると、朔に向けていた柔和なその表情は作り物の面をだったかと思うほどに、眉間を険しくして厳しい顔になった。
「大王のところに行くから、着るものを用意してくれ」
 春日王子が言うと、几帳の後ろから衣擦れの音をさせて、侍女が現れた。洗顔や整髪を終えて、真新しい衣装を着ると、舎人を一人連れて大王の寝所へと向かった。
 大王は回復したと言っても、まだ病後の体力が戻っておらず、寝室の御簾の前まで大臣たちを呼んで、その報告を聞いていた。
 今も、春日王子は躊躇なく大王の寝室へと向かった。いくつもの警備の関門として兵士が立っている。春日王子を見ると、皆がすぐに顔を下に向けて低頭する。春日王子は、立ち止まることなくその関門を誰もいないかのように素通りしていく。
 寝所の手前には、警備の兵士や舎人や侍女たちが詰めていて、これまでの関門を過ぎるのとは違ってた。
「大王に呼ばれてきたのだ。遅くなったが、大王にお目通りを願てくれ」
 舎人の一人が大平身低頭して王の部屋へと入って行った。
 春日王子は寝所の中に入る許可が下りるまで立ったまま待っていた。
 大王は……兄上はどのようなことを話すために呼んだのであろうか。
 宮廷内に与えられた館からここまで歩きながら、春日王子は考えた。十日ほど前にも大王に呼ばれた。その時、大王は、自分の後継者のことを初めて口にした。
「春日……、もしも私に何かあったら」
「兄上!何をおっしゃいます!不吉なことを口にされてはいけません」
 すぐさま春日王子は言った。
「しかし、このように病にかかっては、朕は不死身ぞとうそぶいてもおられぬ。安定して次に権力を受け渡すことを考えておかねばならぬ」
「兄上、なんと弱気なことを」
「朕も齢四十である。われらの父上、先代の大王は四十二歳で身罷られた。朕にもそう遠くはない歳である。いつその時が来てもおかしくはない」
 弱気な言葉を並べる大王に、春日王子は耳を覆わんばかりに手を挙げて首を振った。
「兄上!……兄上の御代はまだまだ続くのです。私たち王族も、臣下もそのことを望んで日夜祈っているのですよ」
「ありがたいことだな。しかし、来るべき日のその準備は必要であろう。朕も考え……る…」
 そこで、大王は咳き込んだ。それが激しくなるので、春日王子は慌てた。
「兄上!」
 春日王子は大王の傍に寄って、その背中をさすった。
「誰か!医者を呼べ!」
 大王の咳き込みは大きくなって、胸を上下させて苦しそうであった。
 簀子縁を踏み鳴らして慌てた様子の数人が駆け込んできた。医者やいつも傍についている舎人、女官達が、大王の周りを取り囲みその九の字に曲がった体をゆっくりと横たえさせた。春日王子は一旦後ろに下がって、その様子を見ていた。絶え間なく咳き込む大王は、そのまま息を詰まらせて身罷られてもおかしくないほどの苦しみようだった。遅れて冷ました薬湯の入った椀が持ち込まれた。
 春日王子は一歩一歩とその場から後ずさり、しばらく大王の寝所から離れて庇の間に座っていると、舎人の一人が恐れながら近寄ってきて、大王の容態は落ち着き、今眠りにつかれたと言った。そしてしばらくしたら大后がこちらに様子を見にいらっしゃると聞いて、静かにその場所を離れた。
 春日王子は兄の妻である大后が嫌いだった。
 予想したとおりに大王の体調は悪くなった。しかし、身罷れるまでには至らない。その体調を微妙に制御して様子を見ている。
 春日王子は大王の傍に仕える医師の一人をなんとも絶妙な芸当だと膝を打って褒めたかったが、それは心の中に留めた。
 大王の心はどのように動くだろうか。その御位を譲ると言い出すだろうか。
 春日王子は来た簀子縁を帰っていくのに、すれ違う侍女たちが大王の様子を心配する言葉を口にして歩き進んでいるところに笑みがこぼれそうになって、上がる口角を下に押し下げるのに苦労して、手で口元を覆いながら歩いた。
 そして、今である。
「どうぞ、お入りください」
 用意のできた大王の寝所の御簾をくぐると、大王は体を起こして、肩から上着を着せかけられているところだった。
「春日、よく来てくれた」
「兄上、遅くなり、申し訳ありません」
 上着を着せかけた女官とそれを見届けている舎人がそろって部屋を出て行った。改めて、春日王子はしつらえられた円座に座りなおした。
「兄上、お加減はいかがですか。つい先日お伺いしたときは、たいそう苦しまれました。こうしてお元気な姿を見れて嬉しく思います」
「あの時は、どうしたものか。それまでは、咳もやんでいたのに、急にあのように苦しくなって、昨日まで寝込んでしまった」
「病は完全に癒えておられないのでしょう。当分は安静にされて、まずは健康を取り戻さなければなりません」
「ああ、朕もこのように気弱になるとは思わなかった。こうなると朕ののちのことが気にかかるばかりだ。前にも話した通り今は安定してこの位を譲ることばかりを考えるのだ」
 大王の袖から見えるその手は痩せていて、お顔を覆う指の間から大王の表情は全て透けて見えてしまいそうな心もとない様子である。
「兄上、私がお傍についております」
 春日王子は殊勝に言って、頭を下げたが、両手に顔を伏せて考える大王の様子を盗み見た。
 暫く経って、大王は顔を上げるとその決心を兄弟二人だけの寝所の中で春日王子にだけ聞こえる声量で静かにしかしはっきりと伝えられた。
「春日よ……朕ののちの王位は、香奈益に譲りたい」
 春日王子は平伏した状態で、その言葉は耳朶を打った。しかし、横っ面を打たれたように感じた。
「そなたには子は一人もおらぬ。慣例に従えば弟に譲るものであるが、そうしたとしても然るべき時期がくれば香奈益が後を継ぐことになるであろう。そう考えると、香奈益が王位につき、そなたには香奈益を補佐してやってほしい。この国の繁栄のためにも、朕ののちは香奈益に継がせるのがいいと思うのだ」
 春日王子は、すぐには顔を上げることができなかった。
 万が一にも予想もしていなかった言葉というわけではない。自分はそれほど傲慢な男ではないと思っている。いや、兄上がそのような選択をするかもしれないと、少しは頭をよぎったが、慣例に背くことはないと、それはすぐに消え去った。
 浮かんでは、消えていく、最も遠い予想に、まさか兄上の思いが至るとは……。
 世の習いは、兄から弟に譲るものであるし、弟から兄の子供へと受け継がれて、その血統は途切れることなく続いてきたというのに。兄は、子のおらぬ自分には、その御位を譲ることは意味がないことのように言った。
 今のこの湧き上がる感情のままに言葉を発しないように、春日王子は下を向いたまま呼吸を整えた。そして、十分に心が落ち着いたところで顔を上げた。
「兄上。……甥の香奈益を助けて、この国を発展させることは私にとっては嬉しく、また誇らしいことでございます。しかし、世の習いを考えると、兄上の思いに臣下の皆が皆、賛成するとも考えられません。今しばらく、そのお気持ちは兄上と私の間だけに留めておかれる方がいいと思います。然るべき時が来たらお話になれば、皆も水を飲むようにすっと飲み込むことができることでしょう。私も水面下で力を尽くしますゆえに、しばしお待ちくださいますように」
「……そうか……。確かに、慣例を破ることであるから、良しと思わぬ者もいるだろう。すぐには公にはせず、しばらく様子を見るか。春日が力を貸してくれると言ってくれて、朕は嬉しい。そなたからどのような言葉が返ってくるか、例えわかっていても心配であった」
「兄上……。大王であられても、私にとっては血を分けた兄上であります。兄を助けるのが弟の役目でございます」
「おお……春日!」
 感じ入ったように大王は声を上げて、それから再び両手に顔を伏せて肩を震わせている。
「兄上、お体に障ります……横になられてください」
 大王は袖を握ると顔に押し当てて鼻をすすった。
「ああ、すまぬ」
 春日王子はゆっくりと大王が体を横たえるのに手を添えて手伝った。
「兄上が、まずは私に打ち明けてくださったことが嬉しいですよ」
 枕に頭を載せた大王を見て、春日王子は目じりにしわを寄せて微笑んだ。
「……おお」
 その言葉に大王は再び感激して、大王の胸まで衾の端を引き上げた春日王子の手を取って握った。春日王子は、大王を安堵させるようにゆっくりと我が手を握る大王の手を引き離して衾の中に入れた。
「大王はおやすみだ!誰かおらぬか!」
 大王の傍から立ち上がって、二歩ほど下がると、庇の間に向かって叫んだ。
 慌てたように舎人二人と女官一人が庇の間に小走りで入ってきた。
「大王を頼む」
 そう言って、春日王子は大王の寝所を後にした。大股に歩いて、王宮に与えられた自分の部屋へ向かう長い廊下の途中で、連れている舎人に噛みしめるように言った。
「今日は、このまま佐保藁の邸に帰る。馬の用意をしてくれ」
 舎人は顔を上げると、短く返事をした。その命令は、庭を伝って、厩に届き、春日王子が厩に一番近い階にたどり着いた時には、春日王子の前に馬が引いてこられた。

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