Infinity 第三部 Waiting All Night3

奈良 小説 Waiting All Night

「礼!」
 いち早くしずしずと歩み寄ってくる礼を見咎めて、碧妃が声を上げた。
「碧様」
 礼は破顔して碧妃の前まで行き、設えられた場所に座った。
「お久しぶりでございます」
「本当に!早く会いたかった」
 供の淑は礼の後ろにぴったりとついて座って、皆が落ち着くと、奥から乳母に抱かれた幼子が現れた。齢三つの若君は知らない顔がいる中に連れてこられて、少し戸惑った顔をしているが、真っすぐに皆の方に顔を向けて様子をうかがっている。
「まあ、王子様」
 碧に指示されて、乳母が礼の隣に座り、間近に王子の様子を見ることができた。
「有馬というのよ」
 白く光り輝く玉のように美しい御子である。
「お美しい…」
 礼は思わず吐息を漏らすように、呟いた。
 王子の手が礼に伸びて礼も手を伸ばすと、物怖じしない王子は礼の指を握って笑い、礼も微笑み返した。
 乳母は立ち上がり、碧の元へ行くと、碧は我が子の頬を撫でたり、手を握ったりして少し相手をしたが、すぐに下がらせた。
「懐妊したことがわかったのは、実言兄様が北方の戦に出発されて一年たった頃だったかしら。すぐに岩城本家に使いを出して、礼をよこしてほしいとお願いしたけど、礼は出産後も都の外の領地で過ごしていると返事が来て、とてもさみしかった。少し前に出産を経験した者としていろいろと教えて欲しかったのに」
「申し訳ございません」
 いきなり恨み節を話し始めた碧に、礼はただただ頭を垂れて謝るばかりだった。
「ここは目には見えぬが、女たちの戦いが繰り広げられている。有馬を生んでそれを実感しました。仲の良かった詠様も、少し隔てを置かれているように感じるわ。自分自身がその立場になってみないとわからないものね。私が有馬を生んだことで、みなが様々な考えを持っていることがわかったわ」
 大王の後継者に碧が生んだ有馬王子が加わったことで、後宮内の力の均衡は変化しているのだ。
「私はやっと自分の立場の恐ろしさを感じました。その心細さを、わかってもらいたくて礼を呼んだのよ。もっと早く来て欲しかったわ」
「申し訳ございません。しかし、ご出産後の碧様のお姿を今日こうして拝見いたしまして、お変わりなく、いえ、前にも増してお美しいので、安心いたしました」
「そうかえ?しかし、出産は大変であった。あの時も礼に傍にいて欲しかった。周りはみな宮廷の者ばかり。岩城からの侍女も遠ざけられていて心細かった」
 人払いした碧は、次から次へと恨み言が口をついで出てくる。三年も経ったが出産の時の苦しみが癒えていないようだ。
 それから礼は碧と、岩城の家のこと、有馬王子の成長と思うままに語った。
 陽もだいぶ傾いて来たところで、礼の後ろに控えていた淑が、ここが潮時というように、後ろから礼の袖を引いた。
「碧様、時間を忘れて随分とお話をしてしまいました。今日はこの辺りで、おいとまさせていただきます」
 まだまだ話したそうな碧は、残念そうな顔をしたが、碧の後ろに控えている侍女たちもそろそろ終わりにという顔をしているのをみて。
「そうね。礼とは久しぶりだから、随分と話をしてしまいました。これから、また前のように訪ねて来てちょうだい。色々と相談にのってほしいこともあるのよ。有馬のことや……。そうそう、実言兄様は、礼がここに来るのをたいそう渋られたとか。前ほど頻繁には来させられないと釘を刺されたわ」
 不満そうな口をして、碧が言った。礼はどう答えたものかと一瞬躊躇した。春日王子とのことが思い出されたからだ。
「恐れながら申し上げます。実言様は戦から戻られて、政にたいそう忙しくされております。そこに礼様が頻繁に外出なさると、夫婦二人が共に家を空けるのはどうかとおっしゃっておいででしたわ。お子たちは今がとても可愛い盛りで、礼様が邸を空けてしまうと寂しい思いをさせてしまうと、実言様は気に掛けておいでです」
 礼が何を言おうか、と迷っているとすぐに淑が恭しく言葉を発した。
「そうか」
「実言様は、昇進なされて、新しい邸も建てられている最中ですので、邸の者も忙しく、私のような古参の者が重宝されてこうして付き従っております。実言様のお気持ちをお汲み取りくださいませ」
「そなたは、見知った顔であるな。お父様と一緒にここへ来たことがある者であろう。まあ、私のわがままばかりを言っていられないであろうが、しかし、私は礼をとても頼りにしているのだ。前ほどとは言わないでも、こうして会って取り留めのないことを話したいのだ」
「ええ、それは礼様もお望みでございます」
「もちろんですわ。私も碧様にお会いしたいと思っています」
 淑の言葉に、礼も続けて言った。
「実言兄様の気持ちもあるだろうから、私もわがままを言わないようにするが、そんなに隔てを置かないでおくれ」
 碧と礼、少し控えめに淑が微笑みあって、礼はその場を辞することになった。
 碧妃の館の渡り廊下を渡りきって、長い廊下をしばらく進んでから、礼は淑に首だけ振り向けた。
「ありがとう、淑。助け舟を出してくれて。私はとっさに返事が出来なかった」
「いいえ。実言様もおっしゃっていらっしゃいましたわ。礼様はお優しい方だから、期待に応えたいと色々と気持ちを尽くされるので、誰かがお止めしないといけないと。それが私の役目ですわ。これからも、実言様や、お子達を第一に考えなくてはいけませんわ。実言様はそれをお望みです」
 礼は頷いて、先を急いだ。全くもって、実言の思う通り。自分は碧に懇願されれば、どうにか碧の期待に応えたいと考えを巡らせていただろう。それがどんな結果を生むのか。四年前のことを思うと、予想もできない最悪の道を辿りかねないことを肝に銘じなくてはいけなかった。
 礼は、自分の不甲斐なさに腹が立ちながら、長い廊下を歩いていると、その西側に広がる大きな庭に夏の盛りから終わりにかけて咲く花がその美しさを競うように咲き誇っているのが見えた。ここは、大王の妃達の館が建ち並んでいるところで、館と館の間に広い庭があり、樹や花を植えられている。丁寧に手入れされた庭に心を奪われていると。
「まあ、美しい花ね。お姉さまにも、お見せしたいわ」
 花々の間からその声が聞こえた。礼は一瞬立ち止まりそうになったが、後ろから付いてくる淑と、ぶつかりそうになって、立ち止まれないで、そのまま歩き続けた。
 あの声は……。
 どれくらいぶりに聞く声だろうか。幼いころから姉として慕っていた従姉妹の朔の声のような気がしたのだ。
 廊下を渡り、車に乗り込むための部屋の手前まで来て、礼は淑に聞いた。
「先ほど、碧様のお屋敷の西側に広がる庭がとても美しくて、気になったが、あれは碧様の庭であっただろうか」
「ああ、あそこはお隣の館の庭でございますわ。椎葉家から嫁がれています、第四妃の庭でございます」
「椎葉……。庭から、花を愛でる声が聞こえたけど、それは妃であっただろうか」
「いいえ、お妃様は産後の体調がおもわしくなく、寝たり起きたりの日々とお聞きしています。ですから、椎葉家から度々使いの方がいらしているとか。もしかしたら、椎葉家の方かもしれませんわね」
「……そう」
 礼は、淑の話を聞きながら、車を待つ部屋の前まで来た。
 椎葉家から来た人であれば、あの声は朔であったかもしれない。絶縁状態と言わざるを得ない仲ではあるが、礼は朔への思慕が消えきっていない。再びその仲を回復できたらどんなに素晴らしいことだろうか。しかし、二人の間には、実言という男の存在に冷え切った仲を温めることは出来なかった。礼は、これ以上考えても詮無いことと思い、この場の気持ちを断ち切った。
「礼!」
 部屋に入るなり、名を呼ばれた。
「実言!」
 そこには、実言が座って待っていた。
「どうしたの?」
「ちょうど仕事が終わったところだ。今日はお前が碧様のところにお伺いする日だから、時間が合えばと思って、こちらへ訪ねてきたところさ。会えてよかった」
「本当に」
 礼は嬉しくて微笑んだ。
「碧様とはどうだった?」
「はい、お元気そうでした。有馬皇子を間近に拝見いたしましたわ。玉のように光る美しい御子でいらっしゃいました」
「将来が楽しみな王子であられるであろう」
 と実言が返事をした。
 しばらくすると、車の用意ができたと淑がやってきた。
「淑、ご苦労だね。父上の家の者なのに、私の家のこともたのんでしまって。だが、あなたのように経験のある人はそういないから、どうか私や礼のためにも、手伝って欲しいのだ。よろしくお願いするよ」
「もちろんでございます。私の力の及びます限り」
 実言と礼が車に乗って邸に帰ると、離れで留守番をしていた子供たちは両親がともに帰ってきたことに喜びは倍になって、小さく跳ね回るは走り回るはして、大騒ぎである。例によって二人は父親にまとわりついて遊んでとせがむ。実言も子供たちがもういい、というまで相手をしてやるので、最後は子供たちが父親の周りで倒れて眠るのが常だ。
「もう、声をかけてくれたらいいのに!」
 奥の部屋から現れた礼は、実津瀬は父親の右手に抱かれて、蓮は父親の左腿に頭に乗せて、ぐっすりと眠っている姿を見て、実言を睨んだ。
 当の実言は愛おしそうに二人の寝顔を見ていた。
「こんなにも慕ってくれる我が子を放っておけるものでもないよ。こんなに可愛らしいものを」
 実言は右腕に抱いている実津瀬を見ながら笑っている。
「あなたはお忙しい身なのだから、ほどほどにしていいものを」
「それだからさ。忙しくして、なかなか我が子に会えない。久し振りに会うと前の顔とは全く違った顔つきをしている。子供の成長とはこういったものかと思って驚くよ。だから邸にいるときは、出来るだけ一緒にいてやりたいのさ」
「それはそうだけれども」
「こんなに私を慕ってくれるのは、この子たちと、お前くらいなものだよ」
 と言って実言は笑っている。
 礼は乳母を呼んで、子供たちを子供部屋で寝かせるように言った。
 二人だけになると自然と奥の部屋へ入って、実言は礼に向かい合った。
「お前は何をしていたの?」
「部屋で薬草の整理などしていたわ」
「そう。皆がお前の医術の知識をとても頼りにしている。父上の邸の者にまで感謝されているよ。お前がここまで素晴らしい女人になるなんて、私も嬉しい限りさ。我が妻は、添えられた小花ではなく、見惚れてしまうほどの大輪の花よと自慢したい思いだ」
「まあ、そんなこと……」
 礼は袖を口に当てて、夫の言葉に恥ずかしがった。
「しかし、私の腕の中だけで咲いていてもらいたいものだ。決して、他の誰の元でもなく」
 実言がそんなことを言い出したら、礼への情愛の表れは止めようがなく、礼の腕を捕まえて我が胸に引き入れてしまう。礼は抗うことなく、実言の胸に顔を埋めて抱きついた。
 そうなると二人は自分たちだけの世界に浸ってしまって、おいそれと抜け出せるものではなかった。

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