Infinity 第三部 Waiting All Night34

庭 小説 Waiting All Night

 哀羅王子は足早に陽明門をくぐり、そのままの勢いで我が邸に帰った。三条の西にある父親から受け継いだ邸である。十五年前のあの日までここに住んでいた。
 あの日、ここにいては命が危ないと言われて、半信半疑であったが、その男の言葉について都を出た。その後、吉野の山の中に十五年住んだ。その間、父親の代から仕えている家人数人が、細々とこの邸を守っていたのだ。
 邸に戻って、沓を抜いでいると、庭の手入れをしていた老人が飛んできた。
「お帰りなさいませ、王子」
 哀羅王子は頷いた。
「雨に降られませんでしたか?」
「ああ、雨の間は王宮の中にいたから濡れることはなかった」
「それでも、お着替えなされませ。温かいものをもって行かせますゆえ」
 もう一度哀羅王子は頷いて、自分の部屋へと向かった。
 部屋に入ると遅れて、これも年老いた侍女が入ってきた。
「お帰りなさいませ、王子様」
 哀羅王子は老女に腰に帯びた刀を渡し、上着を脱いで楽な格好になった。老女は受け取った刀を掛けて、脱いだ衣類を受け取ると、静かに出て行った。部屋の真ん中の円座の上に座り、傍のひじ掛けに寄り掛かって、一息つくと先ほどの老女が椀に入った薬湯を持ってきた。
「どうぞ、お飲みください」
 傍に椀を置くと、老女はそそくさと部屋を出て行った。庭にいた老人に言われて持ってきたのであろう。手を伸ばして取った椀は熱くて、哀羅王子は慌てて手を引いた。苛立つ心は、帰ってきた冷えた体を温めるために持って来てくれた薬湯の椀にさえ当たってしまいそうになった。王子は、椀を投げ飛ばしてしまいたい衝動を抑えるのにしばらく目を閉じた。やっと目を開けると、椀の淵をもって持ち上げて、口をすぼめて湯気を吹いた。
 暫く口をすぼめたままふぅふぅとやってからようやく薬湯が飲めた。今度は薬湯を飲んだら飲んだで、苦くて吹き出してしまいそうなった。それをぐっと我慢して飲み下した。鍋の中に薬草を放って煮詰まり過ぎた薬湯を飲む気は無くなって、持っていた椀を下に置いた。
 思い起こせば、子供の頃、まだこの邸に住んでいた時には、こんなまずいものを口にすることはなかった。貴族たちも早々に口にできない贅沢な食べ物がこの邸には置いてあって、この邸を訪ねてきた者に食べさせていた。
「ねえ、あれを出してよ」
 子供の頃の自分の声が脳裏に響いた。
「王宮でいただいものを。とても甘くて美味しかった。あれを、実言にも食べさせてやりたい」
 少年の姿の哀羅王子は、我が邸に仕える舎人に言った。傍の侍女にも言って、王宮からもらった異国の菓子を出すように言った。
「実言、とても珍しいものだよ。岩城の邸でも、こんな食べ物はでないと思う」
「どのようなものですか?」
 目を輝かせながら問いかける実言に、暫くして侍女が持って来た皿に載った二つの小さな塊を二人で上から眺めた。
「実言、食べてごらん」
「いえ、王子からどうぞ」
「私は王宮に行ったときに頂いたから、味は知っている。お前から食べろ。どんな顔をするか楽しみだ」
 実言は小さい塊を一つ親指と人差し指の先でつまんで、目の前に持ってきた。その未知の物を少しばかり眺めて、口の中に放り込んだ。
「……どうだ?味は」
 天を仰ぎ見るように上目になって、その味を見ている実言を哀羅王子はにやにやと笑いながら見ている。見られていると気付きながら、実言はその塊が口の中で溶けてなくなっても口を動かしている。ようやく口の動きが止まって、実言は哀羅王子の顔をちらりと見たりかわしたりして、口の中にはまだその塊がある振りをした。
「早く言えよ」
 哀羅王子は、実言を肘で小突いた。
「ふふふっ。……おいしゅうございます。初めて食べるものです。どうしてこんなに甘いのでしょう」
「岩城の邸で、このようなものを食べたことはあるか」
「いいえ、初めて食べるものでございます」
「異国から海を渡ってもたらされたものだ。この前王宮へ伺った時に、少しばかりいただいた」
「このような珍しくて美味しいものを食べさせていただき、ありがとうございます。王子」
「私も初めて食べて、とても美味しかったから実言にも味わわせたいと思ったのだ。もらって帰ってよかったよ」
 実言は哀羅王子のその言葉を聞いて、嬉しそうに目を細めて目尻を下げた。
血は繋がらぬが弟のように思っている実言のその嬉しそうな顔を見ると、哀羅王子も内側から滲むように喜びを感じるのだった。
 哀羅王子は肘掛に持たれて昔の思い出に耽ってしまうのを、顔を上げて逃れようとした。少年の時のこの邸での思い出などに浸ってはいけないのだ。岩城実言との思い出の中に入り込んで、懐かしんでいる場合ではない。今は、無力な自分を助けてくれる方にすがるしかない。
 しかし、自分を吉野の山の中から救い出してくれた、無力な自分に力を与えてくれる方に会いに行っても、最近ではぞんざいな扱いを受けて苛立ってくるのだった。
 先ほども、お願いしたいことがあって春日王子のお邸を訪ねると、昨夜から王宮内の館にいると言われて、慌てて王宮へと向かった。馬もなく、供をする従者もいない自分は、一人徒歩で父親が残してくれた三条の西の端にあるこの邸を出て、王宮近くの春日王子の邸に来たというのに、次は王宮へと向かわなければならないとは。
 哀羅王子は歩き疲れて、その足取りは途中で立ち止まってしまいそうになったところを、後ろから王宮に向かう役人にぶつかられた。
「あ、失礼」
 短い挨拶に、哀羅王子は腹が立ったが、誰も自分を王族の一人とは思っていない。着ている物はいいものだが、人からもらったもので寸法が合っておらず着せられている感があって、身分の高い者とは見ていないのであろう。
 やっとのことで王宮の陽明門までたどり着くと、今度は急な雨に降られて歩き疲れた体を休ませることなく、王宮内の庭を走る羽目になった。ようやく春日王子の館までたどり着き、部屋に案内されたが、そこには女人が一人ついていた。
 春日王子は几帳の陰から現れた哀羅王子に目を上げて一瞥すると、杯を飲み干して注げというように女に差し出した。
「失礼致します」
 春日王子の前に円座が置いてあるので、一応哀羅王子と話す気ではあるようだ。そこへ勝手に座った。しかし、春日王子から声がかかることはなく、哀羅王子もしばらく黙っていたが。
「……外はひどい雨が降っています」
と、言葉を発した。
「雨?……ん?そうか。部屋の中にいては気づかなかった」
「私も少し、降られました。ここに伺う前に、佐保藁のお邸をお訪ねしまして、王宮にいらっしゃるとお聞きしたものですから、こちらに参りました」
「そうか、それは足労をかけたな」
 たいして感情のこもっていない声で春日王子は答えて、隣の女を抱き寄せた。女も嬉しそうに、自慢げな表情を浮かべて春日王子の横顔をうっとりとみている。王族に手をつけられることが宮廷に仕える女人たちのその場の地位の決定に関係するらしく、手をつけられることに抵抗はないのだ。自分の出世の折に口添え、力添えをしてもらえると見込んでいるらしい。
 女は、見た感じから宮廷に勤める女官のようだ。取り繕うように着付けた衣装から、直前に何やら春日王子と戯れ始めたところか、最中か、その後なのかいずれかを察せられるが、想像するのも面倒くさく、哀羅王子は二人から発せられる淫靡な空気を黙殺した。
 女官らしき女が邪魔で、哀羅王子は春日王子に訴えたいことをすぐに口にするのを憚った。天気の話をして、道中の往来する人の様子などを話した。新年の大王のお元気な姿に都の民は喜んでいる様子を話題にした。春日王子は、興味もないのか反応は鈍く、杯の酒を飲んでいる。
 今日は、約束してくれていた我が邸の普請を進めてほしいと訴えに来たのだ。
 吉野の山の中の生活は苦しく侘しいものだった。少年時代の都での哀羅王子は、都の臣下の誰も見たことのないような異国からもたらさせた食べ物を食べて、見たこともない工芸品を見て、最先端の文化を味わっていたものが、どれほど逆行したのかと思うほどに、吉野では野原の雑草を食べて、獣の皮を何枚も重ねて身にまとい寒さをしのいだ。ひどい雨の日は雨漏りする部屋にじっと耐えて、雨が止むのを祈った。そんな生活から抜け出せただけでも、嬉しかったが、やはり都に戻ってきたのであれば、我が家の再興をしたかった。父の残したものを最低限守りたかった。
 都に戻ってきたときは、吉野と違うのはもちろんのこと、十五年前とも全く違う賑やかな都にただただ圧倒されるばかりだった。人の往来は比べものにならないほどに多く、皆が着ている物や市に並ぶ物量ともに多い。
 暫く春日王子の佐保藁の邸に居候させてもらっていた。その間に、都の様子を窺いながら父親が残してくれたこの邸を見に来た。
 哀羅王子が去ったあとの邸は、父親の代から仕えてくれている古参の家人が細々と暮らしながら邸を守っていた。邸を囲う築塀はもろく崩れている個所があり、庭の水をたたえていた池は干上がって雑草が我がもの顔で生えている。当時は職人の技が尽くされた意匠を凝らした道具類がところせましと並んでいた。哀羅王子の父親である渡利王子はそういった凝ったものを集めるのが好きで、書や絵画もよく収集していた。訪れた客人はそのすばらしい道具や書絵画を珍しがり、この邸の主人の趣味の良さを褒めた。それは哀羅王子にとっても自慢であった。この邸を去る時に特に思い出のある物は一緒に吉野へ持って行ったが、多くの物は置いていくしかなかった。時がたって、光り輝いていた物が手入れされず埃をかぶってくすんでいるのに心が痛んだ。そして、家人が生活するために、苦渋の決断で家にあった調度を売って生活費に充てたことを聞いた。
 それから、哀羅王子は春日王子に邸の修繕をお願いした。春日王子はすぐに請け負ってくれたが、哀羅王子が普段生活する部屋の傷んでいるところを直しただけで終わってしまった。部屋の中の調度も、几帳に下す帷は色あせてしまって、新しいものが欲しかったが、春日王子は良い返事をするものの何もしてくれなかった。
 春日王子のところにいつまでも居候しているのも肩身が狭く、また一日でも早く邸を元通りにしたかったので、ほどなくして哀羅王子はこの邸に入ったが、やはりいろいろなところが傷んでいるし、調度も相応の物を揃えたくて折を見て春日王子にお願いしている。
 今日も、家人たちの部屋から母屋の王子の部屋に向かう簀子縁の高欄の木材が腐っていて取れてしまった。幸い寄り掛かった家人は、すんでのところで身を引いて高欄の破片と一緒に下に落ちてしまうことはなかったが、そのように高欄が取れているところ、簀子縁に穴が空いているところがある。
 しかし、今日の春日王子は思った通り酒に酔い、女ばかりを気にして全く哀羅王子の話を聞く様子ではなかった。場合によっては大王の突然の病でとん挫していたが、大王に何かしらの階位をいただく口添えを再度お願いしたいとも思っていたのに、世迷言のように、自分ならこの国の行く末をどうするかを語り、なぜ哀羅王子がここに来たのかを慮ることはなかった。
 そして、何も成果の得られなかった帰り道、あの男を蹴倒してきた。腹が立って収まらない感情に任せてやったことだが、心は何も晴れなかった。後ろに倒れた男が自分に向けた表情が忘れられない。十五年というときの隔たりを超えて、信頼し合い思いやっていたあの時代に戻れるならどんなにいいことだろうか。
 しかし、それはできないことだ。この十五年の苦しみをもたらしたのは岩城一族なのだから。あの男を傷つけることでこの恨みは少しだけ晴れる。胸の内の傷口から流れる血が求めるのは、あの男を苦しめることだ。岩城実言を許さないということなのだ。
 ああ、あの男は妻について釘を刺していたな。
 あの男の妻を我が物にしようとしても、何の喜びも湧かなかった。女人を一人、傷つけただけだった。なおさら、実言との隔たりが深くなっただけだった。

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