Infinity 第三部 Waiting All Night36

桜 小説 Waiting All Night

 季節は梅の頃。
 昨年の秋ごろのご病気が嘘のように、大王は元の元気なお姿に戻られた。大王ご自身ももう健康の不安を感じることもなく、以前よりも精力的な気持ちに満ちている。そうなられた理由の一つに、新年が明けるとともにもたらされた姫君の誕生があった。臣下たちはその溌溂としたお姿を見るにつけて嬉しくも頼もしく思った。
 桃の花が盛りの頃に、大王は花の宴を行いたいとおっしゃられた。新しい年を迎えるとともに生まれた姫君の誕生を祝いたいとのことであった。
 大王の願いにいち早く答えたのは春日王子だった。春日王子の邸の庭は広く、また桜はもちろんのこと、この季節に合わせた花々が咲くように丹精されているのだ。春日王子の邸で花の宴を執り行うことを朝堂院の集まりで提案した。
 大王はいたくその提案を気に入られて、すぐさま準備に入るようにおっしゃった。
 桜の花の蕾がふくらみ始めると、春日王子の邸では、皆がそわそわしだした。
 今年の花の宴は、春日王子が花の一番美しい時期を見せたいから、いつ、と日にちを決めたくないと言った。大王はその遊びのような提案に賛成したため、三日前に開催日を知らせるということになった。
 春日王子の邸の者は毎日、桜の木の下に立ち、蕾を見つめた。
 また、宴の準備は進んでいる。大后を筆頭に妃たちは宴に必要な品物を続々と春日王子の邸に運び入れた。大王の催す宴に、何かしらの花を添えたいという気持ちの表れだった。碧妃も実家である岩城家当主の園栄と相談して、庭に張る幕を贈った。
 宴は王族中心に、臣下は位の高い者だけが出席することになった。
 花の蕾がほころび始めたら、それはそれで、春日王子の邸では花散らしの雨が降らないか心配して、雨が降らないことを祈った。
 岩城家では、碧妃の外戚として当主の園栄と長男の蔦高が出席することになっていた。実言は出席しないが、大王が王宮と春日王子の邸である佐保藁の往復の警備の任務にあたることになっていた。
 予告された花の宴当日。晴天続きで今日まで来た、
 王宮から春日王子の邸のある佐保藁に向かうため、先導役として装飾した馬にまたがり、美しい飾り衣装を身にまとった近衛兵六名が二列に並んで馬を進ませる。大通りを今から大王がお通りになると触れて回った。
 都に住む庶民は昨年の大王のご病気を気に掛けていたので、元気になったそのお姿を一目見たいと、通りの両脇に垣を作るように幾重にも連なって大王の行列を待った。大王は輿に乗って、宮殿の門をくぐると、道の両脇にはすでに人々の長い列ができていた。そして大王がそばを通られるときに、一斉に平伏して大王に敬意を払った。大王は自分が進む通りのずっと遠く先まで人々が連なっているのを見て満足した。皆が嬉しそうに表情をほころばせているのが、輿の上から見て取れる。これほどまでに人心がわが身に寄り添ってくれているかと思うと、大王の気分は高揚して、左右を見まわして手を挙げて皆に応えた。
 大王の後を、大后とその長子である香奈益王子が輿に乗って続いた。
 大王の乗った輿が佐保藁の邸の門をくぐり、庭に面した階の下に置かれた。階の下には、平伏した春日王子は待っており、輿から降りられた大王の前に進み出て、自分の邸に招くことができて光栄であることを述べた。
 輿を降りた大王は、感慨深げにあたりを見回した。春日王子の邸は、大王と春日王子の父君である先王がまだ大王に即位する前に住んでおられた邸である。先王は、この邸を春日王子に譲られたのだった。
「さっ、大王、こちらへ。父上が作った庭をご覧ください。今、一番の勢いのある花をご覧に入れたいのです」
 春日王子は先導して、庭に面する居間に向かう長い簀子縁を歩いた。広間や庭には妃やや重臣たちが贈った春の景色に合うように、鮮やかな色に透かし文様を入れた几帳や幕が揺らめいていて美しい。
「見事な桜だ」
「この桜は父上が植えられたものですよ」
「そうか、幼い頃にあの木の下を走り回ったものだった」
 大王は弟と顔を見合わせて、しばらく遠い子供時代の思い出に浸ったのだった。
 春日王子が大王に満開に咲き誇る桜を見せていると大后たちも到着した。春日王子の妻は大后とは従姉妹の関係で、邸に到着した大后を出迎えて久しぶりの再会を喜び合って庭に連れてきた。
 大王が宴の行われる広間の席に着くまでに、春日王子、大后、香奈益王子以外の出席者は既に席に着いており、その登場を待っていた。
 大王が大広間の庭に面する庇の間に登場すると、妃、王族、臣下が立ち上がり迎えた。
 大王はその美しい景色、壮観な光景に目を細めた。
 宴は大王の花を愛でる言葉から始まった。 
 列席者の目の前には、近隣の野山や、地方の海から取り寄せた食材を使った豪華な料理が膳に載っていた。杯は一口と口をつけた先からすぐに注ぎ足されて、なくなることがなかった。
 庭に設えられた舞台では宮廷楽団による演奏と舞が披露されいる。
 王族の末席に哀羅王子も着いていて、うまい酒に舌鼓を打ち、豪華な料理を味わった。
 周りでは、顔見知り同士で会話をしている。哀羅王子は都に戻ってきても春日王子以外に知っている王族はおらず、黙って酒を飲むしかなかった。疎外されているように感じて、より身を小さくして寡黙に、杯に口をつけた。
 もし、あの時都を去ることがなければ、今ここにいる自分は、どのようにしているだろうか。もっと、大王の近くにいて、重臣たちも一段かしづいていて、春日王子のように輪の中心にいただろうか。ともかく、こんな端の席で、無言で酒を飲むことはないだろう。
 向いの席の初老の男が先ほどから、ちらちらと視線を送ってくる。見られていることに気付いて、哀羅王子から視線を合わせた。はっとした表情の男は、意を決したようで、哀羅王子に声をかけた。
「あなたのお名前は?私は、大田輪というのだが。古鷹の大王の弟の子になる。もう、こんな歳で、毎日邸で静かに過ごしているのだが、このような宴に呼ばれれば参加させてもらっているのだ」
 古鷹大王は、先々代の大王である。
「私は哀羅と言います。父は渡利です」
「渡利……ああ、覚えているよ。早くに亡くなってしまった」
 哀羅王子の父親である渡利王は古鷹大王の第二王子である。この大田輪王は渡利王と従兄弟の間柄になる人である。
「はい」
「渡利は好奇心旺盛な男だった。異国の物にとても興味があって、よく勉強していたよ。子供の頃、渡利の部屋に行き、海を渡ってきた珍しいものを見せてもらった。美しい絵画、鏡、器、飾り剣。難しいことが書いてある書籍もたくさん持っていた。異国の言葉は私にはさっぱりわからなかったが、渡利はわかるのだろう、よく読んでいたよ。……そうそう、渡利の邸に行けば変わった食べ物をよく食べさせてもらった。古鷹大王も新しいものを取り入れるのが好きな方だったからだと思うが、渡利の邸には私の見たこともないものがあって、渡利の知識の深さに驚かされていたものだったよ」
 哀羅王子は父の死を誰かと話すことがほとんどなかった。こうして、父を知る人と話すことは不思議な感じである。しみじみとした悲しみと懐かしさが忍び寄ってきたように思った。
「私は父を亡くしてから、まだ子供の頃に都を離れることになってしまい、長く吉野の山の中で暮らしていました。昨年に都に戻ってきましたが、宮廷のしきたりには全く疎くて、苦労しています。今も、あなた様から声をかけていただくまで、どのようにふるまっていたらいいのかわからず、困っていたものです。この場に知った方もおりませんので」
「そうであったか。吉野とは、また遠くであるな」
 と大田輪は言って、杯を飲み干した。
「渡利は……早く亡くなってしまったが、自分の命が長くないと悟って、いろいろと考えていたな。王族は臣下と一定の距離をとっていたものだが、渡利は学堂で一緒に学んだ岩城園栄を頼りにしていたものだ。自分の死後を園栄によくよく頼んでいたはずだが。園栄も、野心家ではあるが渡利とは真の友情を育み、その気持ちに寄り添い、よいよの間際には、渡利の言葉を聞いていたように見ていたが。それは、息子のそなたの後見になることだと思っていたがそうではなかったのか」
「……岩城が裏切り、私は吉野へ行かざるを得なくなりました」
「園栄が裏切ったと。それは異なことに聞こえるが、誠か?園栄は確かに岩城一族のことを考えていたはずだが、それを考えるなら、王族との関わりは喉から手が出るほど欲しかったものだし、渡利と園栄は血の繋がりはないが、まるで兄弟のようにお互いを認め合って信頼しておった。それを簡単に裏切るとは思えないが、園栄はそのような男であったか。しかし、そのように王族を利用しようと考えるなら、子供のそなたならより利用しやすいだろうし、手放すとは思えないが…」
 大田輪は言って、近くを通った銚子を持った女官を呼び止めて、杯に酒をなみなみと注がせた。斜向かいで、杯に注がれる酒に注力している大田輪の様子を見ながら、哀羅王子は大田輪が言ったことを反芻した。
 岩城園栄は王族との繋がりを求めているのに、渡利王の遺言ともいうべき哀羅王子の後見を反故にすることはないのではないかという言葉に、哀羅王子は手元の杯に残る酒に映る自分を見つめながら考えるのだった。
 幼い自分を丸め込んで利用することは簡単なことだった。あの時の哀羅王子には岩城しかいなかったのだから。父親を亡くしてすぐに、母親も後を追うように病で亡くした。母親も王族の出身であるが、実家は後ろ盾になる力はない。そんな十幾つの子供は社会的に抹殺されてしまう。それを心配した渡利王は親友の岩城園栄に我が子を託したのだ。親友というだけで繋がっていたわけではないはずだ。園栄には哀羅王子の後見をすればそれだけの見返りがあると見ていただろうし、渡利王もその見返りを渡してでも我が子の将来の安寧を約束させたかったのだ。
 だから、岩城園栄が哀羅王子を簡単に手放したりはしない。裏切るにしても、こんなに早く裏切ることはないのだ。
 そのことを怪訝に思い、大田輪王は首を傾げている。
「あなたのような若い方が王族の中心で政に関わってくれていれば、心強い。しかし、渡利が望んだように少年の頃から岩城の後見を受けていれば、王族と臣下との間を取り持つ重要な役目を務められたかもしれない。それを渡利は狙っていたのだろう。確かに危うい地位ではあるが、どちらもがその力を利用したくて重宝がられたものだろう。それが、渡利が目指したことだったろうし、親友と我が子に託したことだっただろうよ」
 と言って、また杯を空にした。酒に強い質の大田輪王は新しく酒を注がせようと給仕の女官を探している。
「大王が体調を崩せば、権力の継承問題が浮上するのも時間の問題だ。否応なく我々王族も、その渦へと巻きこまれていくだろう。渡利の子であるそなたに、期待しているよ」
 そして、近くを通り過ぎようとする女官を呼び止めた。そこで、舞台上の大太鼓が打ち鳴らされて、宴の出席者たちの注目を集めた。前半の演目が終わって静かだった舞台上には新たに舞踊を披露するために麻奈見が上がって、位置についた。舞台端に並んだ楽器奏者たちが音を奏で始めて、舞の一振りが始まった。
 哀羅王子は舞台上の舞に視線を向けているが、頭の中は先ほどの大田輪王の言ったことを考えている。
 あの日……都を離れなければいけなくなった日、誰が何を言ったのだろうか?岩城園栄からは釈明もなにも聞くことはなく、邸を空けなくてはいけなかった。誰が、なんと自分に説明したのだったか。
十五年前の記憶をなぞる。
 いつものように、学堂に行き旻(みん)先生の講義を受けた。もちろん、岩城実言が一緒である。よいよ父上のその命の灯が消えると言うときに、引き合わされた弟のような存在。哀羅王子には兄弟はいなかったけれども、すぐに馴染んで友情が芽生え、それ以上に肉親と思うほどの情が生まれた仲であった。その実言と、一緒に邸まで帰り、そこからどうだっただろうか。いつもなら、実言を部屋に上げてその日の講義の話をする。その日も同じように実言と話をして、頃合いを見計らって実言が辞去した後だった。誰だったか、同じ王族……いや、王族に仕える顔見知りの舎人が使者としてきたのだっけ。そして、今すぐにもここを離れるべきだと説得されたのだった。裏の門を出るのに、邸を振り返る自分を追い立てて有無を言わせず連れ出した。
 一段と響き渡る大太鼓の音に、哀羅王子の十五年前の光景の回想は中断された。それと当時に、女官が銚子を傾けて手に持っていた杯に酒を注いだ。

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