Infinity 第三部 Waiting All Night39

小説 Waiting All Night

 春日王子の邸である佐保藁邸に集められた人々は、隣同士で声を潜めて言葉少なに話しながらその人が現れるのを待った。
 その中には哀羅王子もいた。今日呼ばれた人々が上座の正面に向かって両脇を列になって座っているが、哀羅王子は左側の先頭に座って、一人黙っている。
 集められた五人の男たちは、几帳の陰からすっと現れた人の気配を感じて、それまでの雑談をやめて身を固くした。
「皆、よく来てくれた。少し待たせしてしまったかな」
 春日王子は正面の用意された席に座るとそう言って、全体を見回した。
「いいえ、いましがた全員が集まったところです」
 と春日王子の右側の列の先頭に座る人物が言って、皆が平伏したのだった。
「今日集まってもらったのは、ほかでもない、私の思いに賛同してくれる皆に、最終的な話をしておきたくてね。あの方が、これまでに習って物事を進めてくれればいいのだが、そうなる可能性は低い。いつ、自分の腹の内を言い出すかわからない。そうなってからでは遅いから、今から準備は進めておきたいのだ」
 集まった五人は、静かだが力のこもった春日王子の声音に聞き入った。
 次の御代を公に語ることは許されない。それは、今の御代の終わりを願っていることに他ならないからだ。そして、それは反逆罪とみなされて然るべき行為である。春日王子があの方と表現するその人を、皆は頭の中で思い描きながら、話を聞いている。間違っても、あの方とは?と問いかける者はいない。
 皆は余計なことは言わずに、王子の話すこれからのことにじっと耳を傾けた。春日王子は話し終えて。
「常道。例のものの首尾はどうかな?」
 春日王子の右隣りに座る金輪(かなわ)常道(つねみち)に尋ねた。
「はい。このように」
 と懐の中から上等な紙を折りたたんだものを取り出した。春日王子の前に謹んで差し出すと、王子は受け取って折りたたんだものを開いた。王子は谷折り山折りになったものを払うように広げると、そこには、幾人もの名前が連ねられていた。紙の端の最期まで、そこに書かれた名前を見終わると。
「これで全てかな?」
 と金輪常道に問うた。
「はい。春日王子に賛同する全ての者がここに誓いを立てております」
 ここに集まっている者はもちろん、ここにはいない者たちがこの書状に署名をしている。
「ありがたいことだ。ここにこうして誓った者たちの思いを無駄にはしたくない。私は全霊をかけてことを成し遂げるつもりだ」
 春日王子は静かにその決意を語った。
 ここまでの全ての首尾を終えてこの場に集まった者たちは、春日王子が用意した歓待の食事に興じながら、暫くの時間を過ごした。
 皆が帰った後、その場にいたただ一人の王族だった哀羅王子は、そのまま残って春日王子と差し向いで酒を飲んでいた。
「哀羅、これからだ。これからが、我々の正念場だ。全霊を賭けてことに当たるのだ」
 春日王子はこの日、我が味方の陣容を確認して満足したようで、上機嫌で哀羅王子の手にする杯に酒を注いだ。
 あまり好きではない酒を注がれ、強要されるようにあおった。
「これは、お前に預けておこうか。心変わりした者が名を消したいと言って来ないとも限らない。この邸にないほうがいいだろう」
 と言って、春日王子はあの書状を入れた箱に目をやった。漆が塗られた上に散りばめられた螺鈿の細工が施された美しい箱は緒を掛けて春日王子の傍らに置いてある。
我に味方する者たちが自ら名を書いた書状をその手にして春日王子は、酒が進んだ。哀羅王子は、飲み干された杯にすぐさま酒を満たした。
 我が味方の名を受け取った春日王子は上機嫌で、哀羅王子と二人きりなのも手伝ってか、声を潜めながらも自分の夢を語った。
 哀羅王子には、春日王子の語る天下国家も大事だが、明日の生活も心配な我が邸のことの方が気がかりだった。我が邸の者たちは満足な食事をとることもできず、着るものも皆が継ぎを当てている。窮状を訴えて何とかしてもらおうと思ったが、いつものように酒の入った春日王子には、何を言っても伝わらないだろうと、諦めた。
 先日の花の宴の舞台となった庭に目を転じて、散りゆく花を観ながら、ものの儚さを思った。都を離れてからの我が家の落ちぶれようを思うとその昔の繁栄も儚いものと思うが、もし、己が都を離れなければ、どうなっていただろうか、とも思う。岩城園栄が少年の哀羅王子の地位を守り支えてくれていたなら、今のように食べるもの着るものに心配することもなかっただろう。
 父親の渡利王と従兄弟だと言った大田輪王が数日前にこの庭で独り言のようにつぶやいた、なぜ、岩城園栄は王族の哀羅王子を手放したのか。
 十三だった自分は何の力もなく、園栄の言いなりだった。園栄なら、うまく利用して王族の中に自分が自由にできる力を確立させることもできたはずなのに、そうはしなかったということか。
 あの時、誰だったか。いきなり邸に現れて、ここにいたら命が危ないと言われたのだ。なぜかと問うたら、岩城が命を狙っていると。夜陰に紛れて、哀羅王子を殺しに来ると言ったのだ。 
「なぜだ?岩城と話をさせてくれ。なぜ、私を殺すのだ。み、実言に」
「あなたは自分を殺そうとする者のところに行くというのですか?生き延びれば、いつかこの仕返しもできるというものです。さ、早く支度をしてください」
「どこに行くというのだ!」
「しばらく、都の然るべきところに隠れるのです。そして、岩城の手の届かないところへ行き、時期を見るのです」
 当時の哀羅王子は納得したわけではなかったが、言われるままに準備をした。
「哀羅様!」
 急な展開に邸の者たちは驚いて、右往左往している。
「私もわからない。どうして……今日も普段と変わらず実言と過ごしていたのに。岩城が父上との約束を破るなんて」
「王子、早く!」
 邸に来た使者は、怒鳴るように言って哀羅王子を急き立てた。
「これは、王族の方々の総意です。あなたのためなのです。どうかお聞き入れください」
 哀羅王子は、王族の総意だと言われて、顔を上げた。
 両親ともに王族であるが早くに亡くし、有力臣下の岩城家を後ろ盾にして、自分の寄る辺ない将来は守られたと思ったが、それとは別に王族から離れてしまうと感じた。王族の一員として生まれたが、その地位は失われたように感じたものを、その言葉で王族の人々からこっちに来いと言われているように思った。自分は王族の出身であるという自負が、その時の迷いを断ち切らせて、使者の後ろに着いた。
「また、すぐに帰ってくるから。それまで、邸を守ってくれ」
 哀羅王子は心配そうにする家人にそう言って、側夕暮れ時に側近の舎人とともに使者の一団と邸を出たのであった。
 哀羅王子は、十五年前の記憶を再び閉じた。今は目の前のこの人が頼りなのだから。
 春日王子から、夜も更けたから泊っていけと言われて、侍女に部屋を案内された。春日王子に付き合って思ったより飲んだようで、哀羅王子は褥に横になったらすぐに前後不覚になった。自然に目を覚ますと陽は高く上がっていた。
「誰か!誰かおらぬか」
 哀羅王子は起き上がると、人を呼んだ。すぐさま侍女が飛んできて、身支度を手伝った。
「春日王子は?」
「先ほど、王宮へと向かわれました」
 時刻を教える鐘が鳴った。辰刻(午前八時)を知らせている。
 身支度を終えると、哀羅王子は佐保藁の邸を後にした。邸を発つときに、見送りに出た春日王子の腹心の舎人である飯白若衣良(いいしらのわかいら)が箱を差し出した。
「大事にお持ち帰りください」
 昨夜春日王子の傍にあった例の物が納められた箱である。哀羅王子は黙って受け取って、佐保藁の邸を後にした。
 供も付けられない自分は一人徒歩で我が邸に帰るしかない。
 もしかしたら誰かがこの箱を狙ってくるかもわからないのに、自分ひとりで守れるだろうか。自分の身の不甲斐なさに哀羅王子は情けなくなってくるのだった。

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