Infinity 第三部 Waiting All Night4

小説 Waiting All Night

 実言が従五位の位を授かり、左兵衛府の次官に任ぜられたことで、仕事は絶え間無く続いて、忙しいのだろうと礼は思っていた。
 夜は遅くまで仕事をし、また宮中の宿直もあり、仕事の打ち合わせで上司の邸に行かなければならないこともある。だから、独り寝の続く夜を礼は納得していた。
 昼間は薬草を植えている庭に出て手入れをして、そのあとは子供たちと一緒に筆を持って書き物をしたりして過ごした。実言が気を利かせて、その日の帰りが遅くなると使いを寄越すと、礼は落胆してしまう。ぼんやりしていると、子供たちが近寄ってきて、礼の膝の上に小さな掌を置いて、聞いてくる。
「どうしたの?お母さま」
 我が夫にそっくりな子供二人が、首を傾げて母を心配している。
「どうもしないわ」
「お熱があるの?」
 つい最近、熱をだした蓮は、それを思い出して言ってくる。
「大丈夫よ」
 子供たちに慰められるようにして、礼は気を取り直して、夜は子供たちの部屋で一緒に眠ってしまうのだった。
 そんな日々が続いてくると、礼の耳にある噂が聞こえてきた。
 実言は仕事と称して、内大臣の位にある早良家を訪れ、その娘の部屋に泊まっているというのだ。早良家の娘は美しいと評判の女人である。
 有力な貴族に妻が一人というのは、稀有なことである。実言も位が上がり、個人の力も増し、自由に他の妻を娶れる。礼一人だけというのは、周りが許さないだろう。
 だから、実言が早良家の娘と会っていても、仕方ないことである。
 それでも、礼は動揺した。いつか実言が自分以外に妻を娶る時がおとずれると覚悟していたが、いざその時が来たら、こうも苦しいものなのか、と目がくらむ思いだ。
 実言は他に妻を娶っても、礼に対する愛情は変わらない。実言への信頼からそれはわかっている。だけど、自分の元にいない時、実言は他の女人に優しくしているかと思うと、気が気ではなかった。
 これは、嫉妬である。そうわかっているし、それは醜いものだと知っているのに、その思いに取り憑かれて苛まれる。
 澪たち身近な侍女たちは、実言と礼が二人でいる時の様子を知っているから、二人の愛情が揺るがないことはわかっている。下々の侍女、家人が言っている口さがない噂を言うのを真に受けることなく、わざわざ礼の耳に入れることはない。
 それでも、人の口を伝って真偽のほどはわからないその噂は聞礼の耳にこえてきた。
 礼も、それをそのまま信じることしないが、実言が帰ってこない夜の一人寝は耐えられず、子供に添い寝して、実言の愛にすがる思いなのだ。
 実言は宮廷に泊まり込むことになった時や、立ち寄るところがあって遅くなる時は、律儀に家に使いを送って知らせる。使いの者から話を聞いた夜は寂しくもあるが安心して眠れるけれども、そうでない時は、一人寝室でいつまでも実言を待っている。最後は待ちくたびれて眠ってしまう。礼が朝、目覚めると、実言が横で寝ていることがある。ひっそりと帰って来て、礼を起こすことなく横にいるのだ。その時、礼は駄々っ子のように頬を膨らませて、なぜ起こしてくれないのかと実言を責めた。実言は笑って、謝るばかりである。しかし、もっとやるせないのは、目覚めて、隣に目をやり、実言が帰って来た痕跡のない冷たい褥の上にそっと手を置く時だった。実言はどこぞ他所の褥で横になっているのではないかと思うと、そこに添い寝している女人のことが想像されて、気が狂わんばかりの妬みが襲うのだった。
 礼は、実言の深い情愛を受けている自負があるが、その溢れんばかりの愛をどこかの女人と分かちあうのは耐え難いのだ。
 相変わらず、下女や侍女たちは実言の相手について噂し合っている。礼は平静を装い、その話が耳に届いていない振りをする。
 そして礼は実言を待たなくなった。子供達の添い寝を口実に、そのまま子供部屋で一緒に寝てしまう。
 五条あたりに造っている新しい実言の邸には、その噂の女人が女主人として入る方がいいのかもしれない。家柄も良く、美しいと評判の女性が、実言のそばに仕える方が何かといいだろう。礼の実家である真皿尾家は、父親は病気がちで一線を退き、兄弟も思うように出世できていない。そして、容姿に関して言えば、左目がないことで、礼は実言には相応しくないと言う者もいた。そう思っている親戚もいるだろうから、もし実言が新しい妻を娶るのなら、自分が身を引くべきだろうと思う。新しい邸に行くこともできず、だからと言ってこの離れに留まることもできないから、その時は束蕗原にいる叔母の去を頼るしかない。子供達には、大好きなお父様と離れ離れにさせてしまうけれども、しばらくの間我慢してもらおう。特に、実津瀬は成長すれば、礼の手元に置いておくことはできない。実言の元で、しかるべき教育を受けなくてはいけない。礼はそれまでのしばしの間の我が子二人と生活を夢見、覚悟するのだった。
 実言が女人と会っているのではないかという噂をまことしやかに邸のものが言い始めて、三月が経った頃、礼はもう嫉妬心を殺して、我が子とともにいられることを喜びと感じて子供達とともに寝る日々だった。
 その日も、一日中外で薬草作りの作業をし、子供達の相手をして、添い寝がそのまま深い眠りに入ってしまった。どれくらい眠っていたか。軽く揺り動かされている気がしたが、傍で寝ている子供の寝返りかと思い、気にせず眠りに引き込まれていった。しばらくして、礼は自分の体がぐらりと大きく揺らされたのを感じて、深い眠りから目覚めそうになる。ふわふわと宙を浮いているような感覚があり、意識がはっきりとしてきた。礼が目を開けると、月明かりが目を刺すように入ってきた。そこで、自分は部屋の外にいるのだとわかった。驚いて急に手足を動かしたら、何かに強く引き寄せられた。
「礼、静かに」
 上を仰ぎ見ると、実言の顔が見えた。
 それで礼は実言に横抱きに抱かれて、子供達の部屋から簀子縁に出て自分たちの部屋に進んでいるところだとわかった。
 月の明るい夜で、松明は要らず、実言の後ろに従者が一人付き添っている。実言は礼を抱いて、そろそろと自分たちの部屋に入ると、従者は外からゆっくりと妻戸を閉めて去っていった。実言はそのまま部屋の奥の寝所へと進んで、褥の上に礼を下ろした。
「実言」
 礼は、驚いて、実言の名を呼んだ。
 子供達とともに寝ることが多く、最近では実言が深夜に帰ってきて、一人この部屋で寝ていることも度々あった。その度に、実言は一人寝を寂しがったが、翌日はいつものようにどこかに泊まって帰ってこなかった。それを恨めしく思って、礼は子供達の元で寝てしまうのだ。その様子を見ている邸の侍女たちはますます実言は、内大臣の早良家の娘の家に通っていると噂しあっている。早良家は岩城家にとっても重要で、政の打ち合わせで実言が訪れてもおかしくはない。また、当主の早良安万侶も美しいと評判の娘を岩城家に縁付かせたいという思いから、しきりに実言を招いている節がある。侍女たちは、実言とその娘はすでに契っていると言い合っていた。
「ほとほと一人寝はつまらない。今夜は我慢ならなくて、お前を抱えて来たよ。子供達のためにあの部屋で休むのもいいが、私のことも気にかけて欲しいものだね。礼」
 礼を褥に下ろすと、その向かいに実言は胡座をかいて座った。自然と向かい合って座り、お互い目が合った。礼は、慌てて目をそらし、左を向いた。
「最近はことに忙しくて、お前のそばにいられなかったね。しかし、こうまで私を一人にしてしまうのもどうかと思うがね」
 実言はそう恨み言を言った。
「……そうかしら……」
 礼は実言の言葉に承服できないという口吻でそういうと、あとは押し黙った。
「どうして、こうも、私を避けるように子供部屋で寝てしまって、ここで待っていてくれないの?確かに、お前を一人寝させてしまう夜が続いてしまったが、待っていると思って帰ってきたのに、お前がいない褥に寝る私の気持ちもわかっておくれ。寂しくて、辛いものだよ」
「……そう……しかし」
「しかし?」
 礼の言葉を聞き逃さず、言いよどんでいるのを許さず、実言ははっきり言うように促した。
「……あなたには、どこぞに女人がいらっしゃると聞こえてくるわ。……いつお戻りになるかわからないのに、それを、恨めしそうに、じっと待っているのも……」
「何?」
 実言は鋭く聞き返した。
「……澪たちは何も言わないけれども、下々の者はいろいろと噂し合っています。……あなたの気持ちは何一つ疑っていないけれど、私の心は嫉妬の醜い感情に支配されそうで、そんな姿を家の者に見せたくないわ。……どうか、許して」
 実言はクスリと、口の端をあげて笑ったが。
「礼、お前は幻と喧嘩しているようなものだよ。私も教えてもらいたいくらいだね、その私が会っている女人というのはどこの誰だというのだ!」
 と、次には気色ばんだ。そして、礼の袖を引いた。
「私がどこの女人と会っているというのだ?礼、教えておくれ。まさか、誰ともわからない人によって醜い感情に支配されたというのかい」
 引かれた袖に従うように、礼は実言の胸の中に倒れこんだ。
「……早良様……のところに美しい方がいると……。あなたは何度もそのお屋敷にお伺いしているはずよ」
「ああ!早良様の!……誰だ!私たちの中を壊そうとする者は」
 実言はそう声を荒げると、腕の中の礼の顔の顎に指をかけて、上向かせた。
「礼、天に誓って、私はその方とは何事もない。確かに、早良様のお邸に泊まることもあるが、仕事の話で、深夜まで話し込むばかりさ。これを証明しろと言われたら、どうしようもない。お前が信じてくれるしかない」
 実言がじっと礼の右目を見て話すのを、礼は受け止めるばかりだった。
「……あなたが何事もないといえば、それが真実よ。……私は信じるわ……」
「礼以上の思い女(ひと)がいるだろうか、礼よ。私はお前以上の女人を知らない。我が身を顧みず、どんな苦難も越えて私を救ってくれる女をね」
 実言は吐息のように、礼の耳元で囁き、礼とともに褥に横になった。
「……あなたは、そのことを気にしすぎよ。そのことで、あなたは本当の相手を逃したかもしれないのに」
 横になってから、礼は実言を見上げて言うと、実言は礼に覆いかぶさって、礼の頬に手を当て、礼の視線を逸らさないようにじっと見つめた。
「礼こそまだそんなことを言っている。私たちはあの方が作り出した深い縁(えにし)に導かれて一緒になったというのに。私にしてみれば、お前以外の相手はもう想像もできないことだよ」
 あの方とは、礼の兄である瀬矢のことである。瀬矢が実言を見込んで、我が妹を妻に送り込もうと画策していたが、二十一の若さで病に倒れた。礼は左目を失い、そのことで瀬矢の思いは遂げられた。
「お前は、まるで私以外の男を求めているようだね」
 そう言われて、礼は実言の胴に腕を回して胸に顔をうずめた。子どもの頃、実言を誰よりも思っていたのは従姉妹の朔である。朔のその思いの強さに圧倒されて、礼は実言を見ることもしなかった。しかし、死した後でも兄に導かれるように実言の妻になった。この男とともに暮らす日々がどれほどかけがえのないものであり、この男の愛に満たされることがどれほど幸せであることか。
 実言は寝かせた礼の背中に腕を回して自分へ寄せた。
 礼はとてもきつく、息もできぬほどの力で実言に抱きすくめられた。このまま、締め殺されるのではないかと思うほどの強い力だ。
「み……実言、く……苦しいわ」
「許さないよ、礼。一時でも私を疑うなんて。私の行動が誤解を与えたかもしれないが、私はお前以外の女人を考えたこともない。子どもだって、実津瀬と蓮だけでは、あの子たちも寂しいだろう。私は兄弟を作ってやりたいと思っているのに」
 実言は囁くと、ゆっくりと礼の体に回した腕の力を緩めた。しかし、礼は逆に実言に回した腕の力を強めて、抱きついた。
「礼?」
「……あなたを責めることは何もないわ。ただ、私が心弱くて、一人で思い悩んでいただけよ。私は嬉しくて、あなたの気持ちにすがるだけよ」
「お前は、酷い人だね。……しかし、今は我々の気持ちに素直になってこの夜を過ごそう。私は我慢ができないよ。もう、何日お前に触れていないことか」
 実言は、礼の頤に親指を添えると上を向かせてその唇を塞ぎ、吸った。長い口づけは、しばらく触れあうことのなかった二人の時間を埋めるために、息継ぎをしながら飽くまで続き、そのうち纏った衣をどこかへやってしまって、二人は裸身で衾をかぶり思うままに性愛を尽くした。

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