Infinity 第三部 Waiting All Night42

紫陽花 小説 Waiting All Night

 宮廷の奥では、大王の健康について再び問題になっていた。
 朝餉を召し上がられた大王が突然気分を悪くされて、食べたものは全て吐き出されて横に転がり苦しまれた。息も絶え絶えの中で。
「春日を…呼べ」
 とおっしゃった後、褥の上に臥せられた。次に目を覚まされたときは、幾分すっきりとした表情をされていたがお顔は蒼白で痛々しい。
 大王が目覚められたので、すでに王宮で待機していた春日王子が呼ばれ、大王の枕頭に侍り、お加減を窺った。
「……春日、私はどうしたのであろう。完全に病魔を遠ざけたと思ったのに。……またこうして苦しめられている」
 大王は弱気になられて、声を震わされた。
「大王、お気を確かに。何度その病魔が襲ってこようとも、跳ね除けなくてはいけません。私はいつでも大王のお傍で大王とともに病魔と闘いますから」 
 と春日王子は、瞳の奥に燃える闘志を漲らせて言った。
「おお、春日。なんと心強い。……朕が弱気になっていてはいけないな。しかし、病気とは苦しいものだ。黄泉の国の入り口に立たされている気持ちがして、心細い……。ああ、また気弱なことを言ってしまった。こんな風な気持ちになると、何にも代えて心配なのは私ののちのことだ。……春日、前にも一度話をしたが、私ののちの大王」
「兄上!」
 と春日王子は少し大きな声を出した。そして、その後は対照的に声を潜めて。
「そのようなこと、軽々しくおっしゃってはいけません。どうか、お体を直すことだけを考えて。のちのことはそののちでもいいではありませんか」
 大王は自分の発する言葉が、弟に眉根を寄せて悲しそうな表情をさせていると思うと、逆に心が痛んで、病に負けてはいけないと思うのだった。
 気をしっかり持たなければと思ったその次に激しい咳が出て、大王は体を二つに折って苦しんだ。
「兄上!兄上、しっかりなさいませ」
 急に咳き込み始めて、苦しそうに胸を押さえている兄に、春日王子は寄り添い、その背中をさすった。
「医者は、医者はおらぬか!早く、来てくれ!大王がお苦しみだ」
 大王が弟と二人きりで話がしたいと言ったため、舎人、女官、医者までもが遠い部屋で待機させられていた。春日王子は大声を出して呼ぶと、数名の慌てた足音が鳴り響いて、医者を先頭に大王の寝室に入ってきた。大王の背中をさする手を離して、春日王子は自分が座っていた場所を医者に譲った。
 医者や舎人が大王を囲んで処置しているのを、少し後ろに下がったところに座って見ていた。
 医者が薬湯をもって来させ、大王の世話をしているいつもの女官が手伝いながら、咳がおさまったところで飲ませている。
 大王は飲み終わると、肩を大きく上下させて息をした。
「ああ、大丈夫、大丈夫だ。横になれば楽になる」
 そうおっしゃるので、医者と女官で大王を褥の上に横にして、皆は大王のご様子を窺った。大王は苦しそうな表情ではあるが、先ほどのように肩を上下させるようなことはない。しばらく皆で見守ると目を瞑ったままの大王は眠りに入られた。
「こう大勢が枕頭に侍っても、大王も安らげないであろう。しばらく私が大王についている。何かあればすぐによぶから、下がっていろ」
 大王の弟である春日王子の言うことであるし、皆が頷いて一旦寝室を出て行った。その時部屋に駆けつけた医者の視線に、春日王子も一瞬合わせた。
 わかっているよ。
 と、春日王子は目を細めて、微かに笑った。分かる者にしか判別できないような、薄っすらと浮かび上がった笑みだった。
 大王の命を操ろうとする者とその手足となって動く者。誰にも気づかれずにお互いの存在を感じる。
 春日王子は、大王の枕元に座って、静かにその寝顔を見つめた。
 兄上の気持ちは変わらない。やはり次代の大王を我が子に譲りたいつもりらしい。その息子の後見を弟の私にしてほしいなんて。私に王位への野心がないと、なぜ思うのか。
 兄上に、入れ知恵するのは大后の継だろう。同じ王族であるが、傍流の血筋である。その美貌を買われて、兄上の妻になった女。あの女は野心家だ。兄上がというより、あの女が、我が子を大王の位に据えたいのだろう。兄上は、御位に野心などない。順々に渡されてきたその御位を、兄上も順当に受け渡すことだけを考えていたはずだ。だから、成人したばかりの息子を御位につけたいなんてことを考えるわけがない。兄上をどう唆して、次の御代は息子の香奈益に譲ると言わせたのか。
 兄上は、穏やかな性格で、戦など好まなかった。北と南の夷狄成敗も、私が進言して実行したことだった。争いの嫌いな兄上が、なぜ争いを呼び起こすようなことをするのか。
 再び、春日王子は大王の寝顔に目を向けた。
兄上も齢四十一。
 春日王子はしみじみと思った。自分より七つ年上の兄。こうしてみると、とても歳を取られたように思えた。
 子供の頃から見ていた兄上は若々しい青年であり、若くして大王の位に着かれたから、その時の輝かしい姿から少しもお変わりがないと思っていたが、こうして病床に伏して、おやつれになった顔を見ると、その齢を思い知るのだ。
 父である先代の大王には大后のほかにも、多くの妃がいた。多くの御子が生まれたが、男子は生まれても皆、早世だった。兄弟姉妹では女子の多くは成長したが、男子といったら現大王と春日王子だけが成人できた。異母兄弟ではあったが、先代の大王は次々と男の御子が亡くなるので、息子を大事にした。
 先々代の大王は男兄弟が短命で、先々代の大王を残して皆二十代半ばで薨去された。兄弟を亡くして、寂しく思われていた大王は、我が子にはそんな思いをさせたくないと思われたのか、よくよく医者の言うことを聞いて、息子たちを育てた。
先代の大王は健康で、病気知らずであったが、ふとしたことから病を得られて四十を前にあっけなく崩御された。
 先代から現大王への御位の移譲は、円滑に行われた。先代の大王は次の御代を担う息子をよく教育していて、その資質に不安はなかった。そして、先代の大王の兄弟は皆が短命で、その息子に御位を譲ることに異論はなかった。穏やかな権力の移譲であった。
 兄上は御位の譲り渡しは、いつ何時もそのように行われると思っているのだろうか。
 兄上。皆が、その力を喉から手が出るほど欲しがっているというのに、習いに背いて年若い息子に譲れるはずがないではありませんか。
 何を血迷われたのか…。
 春日王子は冷めた視線を兄に送った。
「……んんっ」
 大王は、ゆっくりと目を開けた。
「兄上?」
「……私は……寝ていたか?」
「ええ、おやすみでした。今、医者を呼びましょう」
 春日王子は、隣の部屋に向かって声をかけ、控えている医者や舎人を呼んだ。
「兄上、また、伺います。どうか、ゆっくりとお休みください」
「春日…」
「兄上、何も心配はいりませんよ」
 春日王子は、襖から突き出された兄の手を取って握った。力を込めて握った手に、もう一方の手を重ねて、もう一度強く握る。そして、やってきた医者や舎人と入れ替わるように、春日王子は立ち上がった。舎人に「あとはよろしく頼む」と言って大王の寝所を後にした。
 目を覚ました大王は、何と言おうとしたのか。
 春日王子は長い簀子縁を進みながら考えた。
 正確にはわからないが、きっと後継者の話をしたかったのだろう。春日王子の受け答えに、大王はどのように思ったか。安心してもらえただろうか。
 春日王子は、大王の心境を思い図りながら、宮廷の自身の館には戻らず、佐保藁の邸に戻って行った。

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