Infinity 第三部 Waiting All Night44

牡丹 小説 Waiting All Night

 宮廷の門を出ると、荒益は真っすぐに邸に帰っていった。二条の西にある邸までの道のりは、先ほど実言に訊かれた朔のことを考えるのによい距離だった。
 宮廷で妻の朔は何をしていたのだろう。
 平静を装って、姉である幹妃の用事を手伝ったのだろうと言ったが、そのような嘘が実言に通用するとは思えなかった。
 朔が幹妃の使いで春日王子のところに行くなんて、考えられないことだ。朔が春日王子のところに行ったのであれば、幹妃とは関係なく、春日王子と朔の個別なつき合いと考えるべきだろう。
 春日王子の素行を考えれば、朔との関係は穏やかなものとは思えなかった。
 妻は……朔は、もう夫を忘れ去ってしまったのだろうか。もうその心は別の人のものになったということか。
 荒益は邸に着くと、真っ先に妻と息子の住む離れに向かった。
 離れに現れた荒益に、侍女達は慌てた。邸の主であるが、荒益が離れに現れるのは、稀である。すぐに朔や息子の孝弥に知らせに行った。
「そう慌てることもないだろう。ここは私の邸なんだから」
 と言って、荒益はゆっくりと簀子縁を進んだ。
 息子の孝弥が現れて挨拶した。まだ八歳の孝弥は久しぶりに父親に会えたことが嬉しくて、すぐに傍に寄ってきた。そして、自分が毎日どのような生活を送り、どれだけの勉学や武術の稽古に励みどれだけ成長したかを自分から話した。
 長子である伊緒理は、引っ込み思案なところがあって、自分のことを話したがらない。荒益にはそれが今の兄弟の明暗を示しているように思った。
 荒益は、孝弥の話を聞いて、相槌を打ち、その頑張りを褒めて励ました。息子は嬉しそうに笑顔を見せた。
 そうしているときに、侍女が部屋に入ってきて荒益に伝える。
「奥様は、庭にいらっしゃいます」
 朔は庭で花を摘んでいるらしい。
「そう。では、私も庭に行こうか。孝弥、また話を聞かせておくれ。お前が励んでいる様子を聞くことはとても嬉しよ」
 荒益が息子の頭を撫でると、孝弥はとびきり嬉しそうな顔をした。荒益もその屈託のない笑顔に和んだ。
 別の侍女は荒益が庭に降りられるように沓を用意して、階の一番下に揃えておいた。
「朔はどこだい?」
 荒益の問いかけに、侍女の一人がうやうやしく荒益の前を歩いて、離れの庭を先導した。少しばかり進むと。
「……白い花は目を引くわね。……綺麗」
 と近くから声が聞こえた。侍女が荒益を振り向き、荒益は侍女に後ろに下がるように手で合図した。
「多くを摘んでしまうのはよくないことね。このくらいで良しとしようかしら」
 朔の言葉に、付き添っている侍女は「はい」と聞き取れないほどの小さな声で答えた。 
 人の姿を隠してしまうほどに育った芙蓉の樹の陰に荒益は隠れて、向こうから回って歩いてきた朔の前に突然姿を現した。
「朔」
「……あなた」
 夫は笑顔で、芙蓉の花の後ろから現れた妻を迎えた。
「今、宮廷から帰ってきたのだ。先ほどまで孝弥と話していた。お前が、庭にいるというので、下りて来たんだ。……ああ、花を摘んでいたの?お前は花が好きだからね」
 朔に付き添っていた侍女はそっと朔の傍を離れた。
「ええ、庭に花が咲き乱れているものだから。少し、摘み取って部屋に飾ろうかと思って」
 摘み取った多くの枝は先ほどまで傍にいた侍女に持たせて、朔はさっき自分で手折った大きく開いた芙蓉の花を一輪、手に持っていた。
「……今日はどうされましたの?」
 朔は突然現れた夫に驚いていたが、それは隠して言った。
「どうもないさ。会いたいから来たまでだよ」
 用もないのに、何をしに来たのだと、発した言葉は無下に言っているように聞こえる。朔は言ってしまった後に、自分の言葉に後悔した。
「もう、庭の散策は飽きたかい?」
 荒益は、優しい笑顔のままで朔に問いかけた。朔は、なんと答えたらいいものか、内心躊躇していると。
「今日はよい日和だから、私に付き合って一緒に庭を散策しないか」
 荒益は空を見上げた。雲がところどころかかっているが、麗らかな晴天の気持ち良い空である。朔が躊躇して何も言わないことをいいことに、荒益はもう二三歩、庭の奥に向かって歩き出してる。
 朔は、諾と言わないまま夫の後ろに従った。
「お前がこの邸に来る前は、この庭もそれなりに手入れされていたが、まだまだ雑なものだった。お前が来てからは、よく手入れされてどの季節も美しい花が咲くようになった。見違えたものだ」
 荒益は、後ろを振り返らないが、朔が着いてくる気配を感じながら、独り言のように庭の花の美しさを褒めた。
「……私一人が作ったものではないわ。あなたも、一緒に花を観て回って、手入れされたでしょう。あなたが、私に付き合ってくださったと言った方がいいわね」
 朔は荒益にそう答えた。
 後ろを歩いていることはわかっていたが、思いの外朔がしっかりと返事をくれたので、荒益は思わず振り返った。
 朔はすぐ後ろにいたので、その急な動きに反応できず振り返った夫の体にぶつかりそうになった。何とか踏ん張って立ち止まり、顔を上げた。すると夫の顔がすぐ上にあり、朔を見下ろしている。そして、じっと、朔の目の奥を覗き込むように見つめてきた。 
「……荒益……」
「そうだな……よく一緒にこの庭を歩いたね。……懐かしい」
 荒益は前を向いて、朔と並んで歩き始めた。
「先ほど孝弥が、日々の出来事をいろいろと話してくれたよ。毎日、勉学に武術にと精を出しているようだね」
 その言葉に朔は頷いた。
「伊緒理もね、あの子は自分の体のためにいろいろと薬を飲んでいるからか、薬草に興味を持ったらしく、子供ながらに勉強しているんだよ。なんというか、将来は医者になりたいと思っているようでね。そういった目標があると、身体もしっかりするものなのか、最近は熱を出して寝込むことも少なくなったらしい。一度、この邸に連れて帰ろうかと思っているよ。……あの子一人が離れて暮らしているのは、後々によくない。また、あの子もまだ幼い子供だから、母親に甘えたいときもあるだろう」
 長子の伊緒理は体が弱く、長くは生きられないと言われてきた。熱を出して何日も苦しんだこともしばしばで、朔もほんとにこの子は長くは生きられないと思った。伊緒理の後に生まれてきた孝弥はとても元気で、健康の心配のいらない子であった。そのためか、荒益の父や祖父は孝弥の無事な成長を気に掛けて、いつ命を落とすかもしれない伊緒理を蔑ろにした。物心ついた伊緒理はいたたまれない気持ちだっただろうが、一族が孝弥のことばかり気にするので、朔も伊緒理より孝弥に気持ちが向き、あからさまに孝弥を大切に扱ったこともあった。きっと、それは幼い伊緒理の心を傷つけただろう。その負い目があるから、すぐに伊緒理に会うことを喜べない気持ちがあった。
「……そうね。あの子はどれほど大きくなったかしら。もう一年近くも会えていないから……」
 やっと朔はそう返事した。
「近いうちに伊緒理のところに行って、話をしてくるよ。あの子も、お前に会いたいはずだよ」
 橘の樹には、小さな白い花が咲いている様子を、荒益は指さして美しいと言った。しばし立ち止まり、眺めて、もう手折ったのかと聞いたりした。離れの庭には、母屋の庭にある池から水を引いて小さな小川を造り、中ほどに石を置いて小川を渡る橋を作った。百合や杜若(かきつばた)を眺めながら、先に荒益が置き石の橋を渡った。最後の一歩を渡り切るところで振り向いて、後ろの朔に手を差し出した。朔は、出された手に素直につかまり、ゆっくりと最初の石の上に右足を置いた。荒益に手を引かれて反対岸へと渡った。渡り切ったところで、荒益と朔の繋がれた手は自然と離れた。
 二人が並んで歩き始めたところで、朔が地中から頭を出している石に足をつんのめらせて、前に体が飛び出した。とっさに荒益は両手を差し出し、朔の体を受け止めると、そのまま自分の方に引き寄せて、朔が転ぶのを阻止した。
「すみませぬ」
 朔は住んでのところで助けられて安堵した。朔は詫びる言葉とともに、その腕を放してもらおうと体を起こしたが、夫は離さない。
荒益は朔の背中から腕を交差させて抱き、力を込めた。
「……荒益」
 朔は驚いて、荒益の胸に手を置いて力弱く押し返した。
「朔……嫌かい?他の妻を抱いている私の腕の中など。しかし、私にとってお前は、一番の妻だよ。そして、かけがえのない子供達の母親だ。お前に何かあろうものなら、私は命を懸けて守る」
 そう言って、朔をなお強く抱き締めた。
 いつもの夫なら、軽い拒否のしぐさにすぐに反応して、身を引くのに、今日はそんな斟酌もなく思いのままに強引だ。
「お前を失いたくない。お前がこの邸にいてくれるのは、お前も私を全く嫌いになったわけではないのだろう。今もお前の心は一分でも私を愛してくれていると思いたい」
 荒益は苦しそうに声を絞り出して言った。
 荒益は朔と二人きりになるまで、頭の中で、朔にどう言って、どう説明させるかを考えていた。しかし、その姿を前にして、可憐な妻は他の男と通じているのだと、まざまざと思い知らされて、嫉妬の感情が吹き荒れるのを押さえるのに苦心した。
 朔に、お前は後宮に行って何をしているのだ、と問い詰めればいいのだ。
 あの方と密会してるのだろう。会って、そして、お前はいったい何をした!と言えばいいのだ。
 しかし、荒益は言わない。意気地のない男だと思うが、言えなかった。
 朔を問い詰めて、もしも朔の心があの方へより傾き、二人の秘密の逢瀬が秘密でなくなったら。宮廷にあの方と我が妻との情事が広まり、人々の口から口へと噂が広がったら。身分の高い貴族が王族に妻を寝取られるなど、宮廷の競争相手達からは格好の笑い者になるだろう。
 父は右大臣の位まで登り詰めて、岩城家と権力の双璧をなせるほどになり、これから岩城家の権勢に食い込んでいこうというところで、その醜聞があだになって、勢いを削いでしまったら申し訳ない。
 荒益自身のことを考えると、妻を寝取られるなどコケにされて情けないことだ。取りすまして宮廷に上がる荒益の後ろ姿を見て、同僚たちは陰でほくそ笑み、そしる姿が目に浮かぶ。これも耐え難いことである。または、うがった見方をすれば、美しい妻を王子に献上して、あの王子に取り入ろうとしているとみられる可能性もある。妻を差し出して、権力のためなら何でもする男と思われるだろう。
 いや、一番に自分の心を支配したのは、朔が王子の元へと走ったときに、耐えられるかということだった。
 妻は一人、お前しかない。
 朔はそれを望んでいた。しかし、春日王子と通じるのは、どういうことだろうか。王子は、多くの妻を持ち、それ以上に多くの愛人を持っている。これは貴族や宮廷の官吏の多くが知っている公然の秘密である。朔もわかっていることでありながら、王子の元に行くのは、それは、男として耐えがたいことである。何においても、朔を愛してきた。その女が自らの意思であの方のところに行くということは、あの方の方が男としての魅力が上というのか。男としての価値を天秤にかけた上で、王子を選択したと言われたに等しいことだ。自分の自尊心を打ち砕けれるような思いであった。
 妻が一時の迷いではなく自分以外の男に心を移したと思うと、猛烈な嫉妬の感情に狂わんばかりた。どんな仕打ちで懲らしめようかという気持ちがむくむくと首をもたげてきた。
 しかし、芙蓉の花の影から現れた妻を見た時、朔を失うのが怖いと思ったのだった。
 今は心に隔てを置かれているが、もう十年近くも長く愛し、信頼し、慣れ、暮らしてきた。それがもろく崩れ自分の元から去っていくと思うと、耐えられなかった。
 嘘偽りなく、今も、朔を愛している。
 罰を与えてやるなんて、感情はすぐに消え去った。
 荒益は、朔の頭に手を置くと引き寄せた。朔は、荒益に押し付けられるままに、肩にもたれかかる。朔の結い上げた髪が乱れるのもかまわず、荒益は朔の頭を捕まえて、その額に自分の顔を押しつけて頬ずりした。
 荒益はどうしたのだろう。どのような心変わりからこんなふうに自分を離さないのだろうか。長年の自分の拒否が、どれほど優しい荒益をも呆れさせ、半ば自分たちの愛は終わろうとしていたのに。 
 荒益……荒益…。
 朔は下にだらりと下げていた手を、ゆっくりと荒益の背に上げて、そっと手を置いた。
 ……愛してる……荒益……。
「旦那様!……奥様!」
 邸の方から、侍女の声が聞こえた。
 荒益は朔の額に置いた顔を上げた。
「……私たちの戻りが遅いものだから、心配したのかな」
 と呟いた。そして、朔の体にきつくまわしていた腕を解いた。
「戻ろうか」
 荒益は、静かに言って、朔は頷き、荒益の後ろに従って邸へと戻った。
 階の上には、息子の孝弥が待っていて、両親が階を上がると、荒益の前に来て孝弥が言った。
「お父様。今日はこちらで一緒にお食事していってくださるでしょう」
 荒益は、息子の言うことに、少し口の端を上げて微笑んだ顔を返したが、すぐには返事しない。もう長くこの離れで、一緒に食事することはなかった。朔が嫌がるだろうと思って、荒益も長居をせずに帰っていたのだ。今も、朔が何というか。
 朔は息子の後ろに立ちその肩に手を置いた。
「あなた、そうしていって。……孝弥はまだ、お父様にお話ししたいことがあるのでしょう。食事を用意はできるから」
 荒益は朔と孝弥に顔を向けると、頷いた。
「さあ、部屋の中へ」
 朔に促されて、荒益は部屋の中に入り、孝弥とともに親子でいろいろな話の続きをした。やがて、食事が運ばれた。膳がいくつも運び込まれて、一人ひとりの前に多くの皿が並んだ。孝弥が嬉しそうにしているのは、朔がいろいろと注文を付けて少し豪華な食材が載っているからだ。朔は荒益のとなりで、その手にある杯に酒を注いだ。荒益はゆっくりと杯に口をつけて、酒を口に含んだ。となりにいる朔からひと時も目を離さずに。
 注いだあとの朔は、目を伏せて佇んでいたが、荒益が杯を下ろした動作を感じて、顔を上げた。そうしたら、荒益と目が合った。
「うまい酒だ」
 少し驚いたような表情をした朔に、荒益は言った。そして、もっと注いでくれと杯を差し出した。
「……よかったわ」
 そう返事して、朔は再び注いだ。その表情は心なしが、微笑んでいるようで、荒益は嬉しかった。
 食事が終わり、孝弥は自分の部屋に戻った。朔の侍女を交えて少し話をしたが、侍女も気を聞かせて退出し、荒益と朔は二人きりになった。外の虫の音を聴いたり、または子供達の話をして、刻が過ぎた。
 朔が膳の上に置かれたままの杯に酒を注ごうとすると、荒益はその上に手を置いて注ぐのをやめさせた。
「うまい酒だから、飲み過ぎたよ」
 朔は頷いて、銚子を下ろした。
「さて、私も部屋に帰ろう。長居をしてはお前も休めないだろう」
 荒益が言うと、朔はゆっくりと夫を見た。
 荒益は笑っている。
 このまま泊まっていくと荒益が言うのではないかと思っていた心を見透かされているようだった。
「お前の優しさが表れて、私は調子に乗ってしまいそうになる。でも、お前を離したくないから、ゆっくりと時間をかけてお前を取り戻すよ」
 荒益は立ち上がり、簀子縁へと出た。後ろをついてきた朔に、荒益は振り向く。
「今日は楽しかった。伊緒理がいれば、もっと良かった。……やはり、近いうちに一度あの子を邸に戻そう」
 月のない夜で、侍女が灯りを持ってきた。
「また、すぐに訪ねるよ。待っていておくれ」
 侍女の持つ灯籠に先導されて、荒益は母屋の自分の部屋に帰っていく。
 そして、荒益は一人寝をするのだ。
 このまま、ここに泊まると言われたら、自分はどんな態度をしていただろう。今日なら、素直に部屋に並んで寝ただろうか。庭での荒益の力強い抱擁の感覚が体によみがえって来る。
 朔も一人寝を寂しく感じ、荒益のぬくもりが欲しいと思ってることに気付いた。

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