Infinity 第三部 Waiting All Night46

紫陽花 小説 Waiting All Night

 今も、春日王子の邸で、酒の相手をしながら春日王子の言うことに耳を傾けていてた。
 再び体調を崩された大王は、今は持ち直し小康状態である。寝付かれることはなく、儀式も執り行い、春日王子が代役をすることもない。しかし、気分がすぐれないと大事を取って直ぐに横になられる。決して気の抜けない状況だ。
 大王がお隠れあそばされる……。
 都にいる者たちに、それは遠くない未来であることを、予感させていた。
 今も、春日王子はその脳裏にいつ大王はお隠れあそばされるだろうかと考えながら、その来たる次の御代のことを語っている。次の御代はまだ誰のものとも決まっていないのに。
 その話は酒をうまくさせるのか、春日王子は気持ちよく酔って、笑い声も高くなった。
「哀羅、私は新しい都を造りたいと思っている。今より大きな宮殿を造り、外国からくる使者たちが目を見張って、祖国に帰れば話さずにはいられないとっておきの土産話になるような壮大な都をな」
 酒はそれほどでもない哀羅王子は、少し口をつける程度で杯の中身は減らない。酔うほどに飲んでいないので、春日王子の夢物語を同じ熱気では聞けなかった。
しかし、そんな話には興味がないという素振りはしない。春日王子について権力の中枢に入ることができれば、傷んだ邸を直して内装を新しくし、庭を直して池にたっぷりと水を引き入れて昔の美しい庭を取り戻し、そして使用人たちの粗末な衣装を全て新調して、真新しい気持ちで自分の本来の生きる道を進むことができるはずだ。
 そう思うと、気持ちは昂り手に持っていた杯に口をつけて一気にあおり、目の前の膳に戻したとき、哀羅王子が座っている反対側の衝立障子の影から声がした。
「失礼します。……春日様」
 春日王子の舎人が報告に入ってきたのだ。控えめな声に気付いて春日王子は衝立の方を向いた。高灯台の小さな炎が揺れて、衝立障子の向こうに壮年の男の顔が見えた。
「加羅津」
 春日王子はその男の名を呼んだ。哀羅王子は初めて聞く名前だった。
「ここで話してくれてかまわない。この者は仲間だから」
 と、春日王子の右隣りに座る哀羅王子を見て言った。
「大王のご様子にお変わりはありません。一日中、寝所で横になっておられました。そして、今日も大后がお見えになっておられました。他にも王族の方々数名がお訪ねになって、大王とのお話が終わられたら別室に移られて、大后と続きでお話しされていました。そこへの侵入はとても難しく、何をお話しになったのかまでは探れませんでしたが、やはり王族の方々の総意をまとめるべく、大后が説得されているものと思われます」
「……あの女め」
 と春日王子は忌々しそうに言った。
「引き続き様子をみて、報告してくれ」
 すっと気配は消えて、加羅津と呼ばれた男はいなくなった。
「……あの女が、どのようなことを言って他の王族たちを自分の陣営に引き入れようとしてるか、明日になったらもっと人をやって探らせよう」
 春日王子は振り向いて哀羅王子に言ったが、哀羅王子は黙ったまま自分の思考の中に沈んだ。
 そう、先ほど加羅津が春日王子に王宮での諜報の成果を報告する声に、最初は何の気なしのその話を一緒に聴いていたが、次第にその声音に胸騒ぎがしてきた。そして、「王族の方々」というその言葉に深い記憶がよみがえってきた。それは十五年前に普段通りに岩城実言と別れて、父から受け継いだ我が邸で寛いでいたら、知らない男たちが一気に邸の中に入ってきて占拠し、ここにいては命が危ないと言って自分を吉野へ連れていった一団。それを率いた男が躊躇し、悩む哀羅王子を説得するのに、これは王族の方々の総意だと言った。その声音を思い出したのだ。
 十五年前に、我が邸から自分を吉野に連れて行った男は、あの男なのでは?
 当時の哀羅王子は、邸に来た十数人の男たちを王族に仕える者だと思ったが、どこの誰の配下の者なのかまでは考えが及ばなかった。しかし、大王に近い人々なのではないかと、勝手な思いを巡らせていた。
その男が、春日王子の傍になぜいるのだろうか?
春日王子が間者にしているということは、信頼している部下の一人なのだ。どのようないきさつで、自分を吉野へ向かわせた男を配下に置いたのだろうか。
「……哀羅?」
「……はい」
「どうしたのだ?」
 春日王子は怪訝そうな顔をして哀羅王子の横顔を見ている。哀羅王子は、ゆっくりと春日王子の方へ顔を向けた。
「少し考え事をしておりました。……ところで、先ほど春日様に報告にあがった者……加羅津と申した……初めてお見かけいたしました」
 哀羅王子は自ら膳の上に載っていた小ぶりな徳利を傾けて酒を注ぎ、その杯をもって口をつけた。
「そうか?……あれは間者だ。有能な男で、昔から私の手足として使っている。最近は地方に遣いにやっていたが、呼び戻して今は、宮廷に潜り込ませている」
「……それはそれは」
 と言って、哀羅王子は再び杯を口に運んだ。
 その後は、大后がどれほど油断ならない奸計好きな性悪女であるかを語り続ける春日王子の言葉に半分だけ耳を傾けるのだった。
 酒も手伝ってか、止まらない春日王子の話に哀羅王子は最後まで付き合うと深夜になった。そのまま泊まっていくことになって、哀羅王子は部屋へと案内された。都に戻ってきたばかりの時に世話になった邸だから、大体の勝手はわかっていた。中年の侍女と若い舎人の案内で、部屋に入ると几帳を巡らせた中に寝所が設えられていた。傍には灯台に火がともされて、ゆっくりと揺れている。案内してくれた二人は静かに部屋を下がって行った。二人の陰が灯台の灯りに揺れて部屋の中からいなくなるのを見届けると、褥の上で哀羅王子は胡坐をかいて、しばらくじっとしていた。心の中で泉の底からふつふつと小さな気泡が泡立つように思い浮かんでくるのは、加羅津という男のことだった。あの男の言葉に納得して、自分は岩城の庇護を離れる決意というべきか、邸を出ることに決めたのだった。その男が、春日王子の傍に仕えていることが、どうしても気になるのだった。
 深夜だというのに眠気を感じずに、簀哀羅王子は子縁へと出て行った。少ない燃料に灯台の灯りはすぐに消えてしまったが、月の明るい夜だったため灯りに困ることはなった。
 暫く近くの階の一番上に腰掛けて、物思いに耽っていると外を歩く足音が聞こえた。宿直の見回りだと思って黙って座っていると、歩いてきたのは加羅津だった。加羅津は哀羅王子には気づいておらず、ゆっくりと歩いている。
 哀羅王子は階の上で立ち上がると、動いた影に反応した加羅津はすぐに振り向いた。
「やあ、すまない。驚かせてしまった」
 哀羅王子は陽気な声で言った。
 加羅津は目を凝らして、階の上に立っている人物を見ている。
「先ほど、春日様のところで一緒に話を聞かせてもらった者だ」
 階の下に来た加羅津はいつでも剣が抜けるように構えていた態勢を緩めた。
「どうされました?もう夜も深いです。早くおやすみください」
 そう言って、階の下を離れようとするのを呼び止めるように哀羅王子は問いかけた。
「春日王子はそなたを腹心の部下といっておられた。いつから王子の従者となったのだ」
 加羅津はなぜそのような質問をされるのかと、怪訝そうな顔をしたが、素直に答えた。
「あの方が生まれた時から……というのは言い過ぎでしょうが、私の家は代々春日王子の母上様の家に仕えておりましたので、母上様が先の大王に嫁がれたときに私の父は一緒に王宮へ入って、そこで生まれてからずっと仕えてきたのです」
「それほどの長きであれば、王子が言う腹心の部下に間違いはないな」
 と言った。
「では、どれくらい前であっただろうか、おそらく十五、六年前だったと思うが、春日王子は一人の王族を都から脱出させる手立てをされたはずと思うが、どうであろうか。春日王子の下に長く仕えているそなたであれば、大昔の出来事も知っていまいかと思うて問うているのだが」
「なぜ、そのようなことをお知りになりたいのです」
「その時都を脱出した王族が、あの時どなたの手配であったかを気にしており、私は春日王子ではなかと思っているのだが、古い話であるし、はっきりしたことがわからない。春日王子の近くで知っている人はいないかと思っていたのだ」
「……確かに、昔、一人の王子をその邸からここへ連れてくる指示を受けましたが」
「そうか、春日王子の導きであったか。その時脱出した王族に、当て推量を話すわけにもいかず、何せ昔のことではあるし、万が一にも私の思い違いであったらと、春日王子にお尋ねするのもはばかられた。そなたの話を聞いて、思い違いでないことが分かり、安心して春日王子にお尋ねすることができる」
 加羅津は、怪訝そうな顔をしたまま、もう用が済んだと言わんばかりに部屋の方へ体を向ける階の上の貴人に、「では、失礼します」と言って庭を突っ切って行った。
 仄暗い灯りの元では、哀羅王子の顔をはっきりと見ることはできないからか、それとも、十五年前に連れ出した少年の顔を忘れたのか、加羅津は目の前にいた男が十五年前の少年の現在の姿とは気づかないらしい。
 哀羅王子はゆっくりと簀子縁を歩いて、寝所の庇の間に入る。
 十五年前に、自分は加羅津に説得されてあの邸を離れたのだ。
 今夜、突然はっきりとした真実を、噛みしめるように思い返した。
 私に岩城が命を狙っているから、一刻も早く邸から出て身を隠せと説得させ、吉野の山の中に隠れさせたのは春日王子なのだ。それが十五年後に、消息不明の哀羅王子を思い出し、ほうぼうを探させて奥深い山の中に埋もれていた王子を見つけ出したのは私だと言われた。打ち捨てられたと思っていたから、春日王子の言葉に感じ入って、感謝し、その恩に全霊を賭けて報いようと思った。しかし、それは十五年も前から全て春日王子によって仕組まれていたことだったのだ。
 なんと滑稽なことだろう。
 春日王子は、自分の思い描く物語の通りに動く自分に満足するとともに、あまりにも滑稽で袖で口を覆ってあざけ笑っていただろう。
 哀羅王子は、やっと寝所まで歩いてきて、褥の上に自分の身を横たえた。
 十五年前に自分を連れ去ったのも、そして都に連れ戻したのも、全て春日王子が仕組んだことであるなら、それは何のためだろうか。まだほんの子供である自分は、何もできない。政治的な脅威にはなりえないだろうに。
 哀羅王子は寝返りを打って、体を横に向けた。
 直接、春日王子に問いただすしかないのだ。
 こうして、悶々と考えても答えが導き出されるものではない。春日王子が仕組んだという疑念を解決するには、真実は何なのかはっきりさせるしかないのだ。
吉野の山で苦しい辛いと思った時に、いつも心を励ましてきた思い。都に戻ったら成し遂げると心に誓ってきたことを達成させるためにも、このことはあいまいなままにはしておけない。
 哀羅王子は、眠れる気がしなかった。
横にした体を再び仰向けに戻した。
それでも、目を閉じれば気が休まるかと思ったが、その目が閉じられない。天井を見つめて、我が身の寄る辺ない頼りなさを思い、そのまま、気を失うように眠ってしまった。

コメント