Infinity 第三部 Waiting All Night50

桜 小説 Waiting All Night

 今年も月の宴は催される。
 大王の健康への不安は完全に取り除かれたわけではないが、短い時間ではあるが大極殿にお出ましになって外国の使節にお会いになり、また朝議にも出席される。群臣一同はそのお姿に安堵した。そして、宮殿の奥で休まれることが多い大王の気分転換になるとして、月の宴は例年通り行わることになった。まだ春だというのに王族や重臣たちがそれぞれに役割を担って準備が進められていた。
 実言も月の宴の準備があると言って、夜遅くまで帰って来ない日がある。
 今夜も礼は、夫が帰ってくるのを自分の机の前に座って、書き物をしながら待っていたが、やがて夜も更けたので、夫婦の寝所に一人で入った。一人寝の寂しさに実言を恨んだこともあったが、今では夫が寝所に入ってくるのを一人心待ちにしていられる。
 ゆっくりと褥の上に身を横たえて、高灯台の小さな灯りがゆらゆらと小さく揺れる中、眠りに落ちるまでに夫が帰ってきてくれたらいい、と思って目を瞑った。
 何度か寝返りを打った後にふわふわとした感覚に入って、もうすぐ眠りに落ちると思ったときに、礼の背中を優しい影が覆った。
「……んん、み、実言?」
 緩く礼の腰に回る力を感じた。
「礼、そのままで」
 実言はそう言って、横になって寝ている礼の体の左脇から腕を入れて、後ろから抱いた。
 夜の冷気を身にまとった実言の体が礼の背中にぴったりとくっついて、礼は身震いした。それで、今以上に実言が力を込めて礼を後ろから抱く。
「寒いかい?」
「いいえ、夜の冷たさとともにお戻りになったのね。着物が少し冷たいわ」
 礼は自分の体の前に回された実言の手の上に自分の手を重ねて言った。
「夜更けに小さな雨が降り始めてね。冷えた……温めておくれ」
 実言は、礼のたっぷりとした射干玉の髪の中に顔をうずめた。そうしながら、しっかりと礼の寝衣の腰帯に手をかけてた。
「素肌がいい。温かくて、柔らかい、礼の」
 と、髪にうずめた顔を上げて、礼の耳元に囁いた。そう言って、手は止まることなく礼の胸元をさぐって襟を広げて礼の胸を開いた。いつものように寝衣は衿から背中に引かれて、肩を超えて、その身から後ろに剥ぎ取られる。
 現れた素肌の背中に黒髪が振り落ちるのに、実言は白い肌を求めて礼の背中に頬を寄せた。右肩にある傷は、実言を庇って暗殺者が放った矢の前に礼が飛び出して射られてできた傷で、それを見ると実言は一層礼を愛おしく感じて、実言から遠ざかるように丸めた背中を引き寄せて、傷に口づけた。
 そうしながら実言は自身も上着も衣も脱いで、上半身を裸にした。
 礼の腰回りに纏わりつくようにたまっている寝衣を取り去って、実言は礼の背中に胸を押し付けて、また腰から足にかけてまだ袴を着けてる自分の足を絡めた。
 礼の肩に寄せた唇は、その上を這って礼の首元にたどり着く。
「……礼」
 眠りに落ちる寸前だった礼は、瞬く間にはっきりと目を覚まし、夫の切れ間のない言葉や動作にびっくりしたり、うっとりしたりした。
 今も、後ろから耳元に熱い吐息とともに自分の名を囁やかれ、かかる息がくすぐったいと思ったら、実言はもっと唇を寄せて、礼の耳たぶをそっと口に挟んで引っ張った。甘い愛撫に、礼は身を縮めて、顔だけ実言を振り返った。
 ゆっくりと顔を振り向けると、夫はすぐさま礼の頬に口づけた。優しい愛撫は続いて、礼は、実言の方に体も向けた。
 実言は褥の上でくるっとこちらを向いた礼と向かい合って顔を見合わせると、礼は恥ずかしそうに笑って目を伏せた。二人の寝所の中では礼は無い左目にいつもしている眼帯を自ら外している。二人だけなら、ありのままの自分を見せられるし、見せてくれるのだ。実言は右手を礼の顔に添えて、左頬を撫でた。
 礼は、実言の大きな手に包まれた顔をまっすぐ実言に向けて見つめた。高灯台の灯りは消えていたが、雲間からの月あかりが部屋の中まで差し込んでいる。実言の体を濡らした小糠雨が上がった後は雲が流れて月を露わにしてくれたようだ。そして、その光は実言の顔を白く映し出してくれる。礼は見つめたまま、不意に自ら首を伸ばして実言に近づき、顔を少し傾けて鼻がぶつからないようにして、自分の唇を押し付けた。
 実言の唇からは酒の味が伝わってくる。月の宴の準備のためにそれまで滞在していたどこかの邸、父親の園栄の邸か、それとも同僚の邸にでも行って話し込んでいたのか、そこで飲んだ酒の味がした。礼は唇を離すと、もう一度実言に近づき、そっと舌を出してぺろっと実言の唇を舐めた。先ほど以上に実言の唇が吸った酒の味を感じた。もう一度舐めようとしたところで、実言が唇を少し開いて、逆に礼の舌を口に入れて吸った。そっと礼の舌をゆっくりと味わうように向かい入れたが、そのうち強く、激しいものになった。やっと、実言が離すと、礼は息苦しさにうめいた。
「お前が悪いよ、礼」
 礼が深く息を吸ったり吐いたりしているところに、実言は礼の頤を持ち上げて、自分の方に向かせた。
「私を焚きつけるようなことをして。どうしてやろうか。ひと時も休むことなくお前を愛そうか。もういやだと言ってもやめてやらない」
 と実言は言って、礼を褥に仰向けに寝かせたら、自分の身に着けているものをすべて取りさった。礼の長い髪が邪魔にならないように、実言は礼の背中に腕を回して、体の下に引かれた礼の黒髪を掻き出すように持ち上げて褥の外へ出すと、再び礼を褥に下した。外にやった黒髪から舐めるように礼に目を戻すと白い体が月明かりに光って浮き上がり美しく、実言は気持ちが抑えられず礼の上に覆いかぶさった。
 実言の唇を舐めるなんて、自分も考えもしなかった出来心だったが、思いもよらず実言の感情を煽ってしまったようだ。しかし、礼はそれを後悔はしない。実言の激しい、力強い、しかし優しくてうっとりとするような性愛の動作を嫌がる理由はなかった。
 実言は礼の頭を何度も撫でてそのすべやかな髪の艶を楽しむと、次は礼の体にゆっくりと触れてその体の熱や柔らかさを感じる。以前より少しふくよかになった礼の体の弾力を感じながら、その温かな胸の中に顔を埋めて、月明かりに青白く照らされたふくらみに触れて可愛がった。再び礼の顔を見て、手を胸から腹、腰へと移していく。実言の手の移動とともに、実言の上腕に置いていた礼の手は肩へと移り、暫くすると首へと動き、そして首の後ろに腕を深く回して抱き着いた。
 実言は礼の腰から、尻へと両手を移動させてその柔らかな肌を掴んだ。そこから、左手を太腿に動かして礼の右足を持ち上げて、自分の体に沿わせて絡めさせる。
 冷たいと思っていた実言の体は熱をもって、逆に礼の体を温める。実言の力強い動きに吐息が漏れた。我を忘れてしまいそうで、しっかりと実言の首に回していた腕が解けそうになった。
「礼」
 実言の髪を一つに結っていた紐がほどけて胸まである髪が礼の顔にかかる。礼はそれを掌に載せて、自分の頬とで挟んで頬ずりした。それを見た実言は礼に覆いかぶさり胸を合わせて抱いた。
 礼は実言の脇の下から腕を回して、背中に手を置いた。右目を開くと、天井が見えた。月あかりが梁を白く映し出している。
 明るい月。
 礼は思った。明るい月のせいで今日はなりを潜めている無数の星のことを。月に隠れて今夜は見えない数多の星が黒い夜空に瞬いているのを想像した。白く光る星たちが夜空をめぐるように、礼の体にも実言につけられた愛の証がめぐる気がした。礼は実言の背中に置いた手に力が入って指先を食い込ませた。立てるようにつかまった指の力は実言に礼の体の内側に広がる恍惚がそうさせてると感じ取らせただろう。そして、ひと時の悦びの余韻に浸りながら、礼は月明かりから顔をそむけるように実言に抱きついた。
 実言は自分に抱きつく礼の体をゆっくりと褥に下したら、自分も礼の左側に横になった。実言は礼の首の下に腕を通して右肩を抱くと、礼は再び横を向いて実言の胸へと体を寄せた。 
 端によってしまった衾を引き寄せて礼を包んでやる。肩まですっぽりと包んでやると、礼は小さなくしゃみをして、より実言の胸へと顔を近づけた。
 愛の行為は、少しの疲労感を伴って、隣で横になっている者を労わりあったが、まだ性愛の続きに心残りがあった。
 実言は礼の右頬を撫でながら、横を向いた礼の顔を上に向かせた。月あかりに照らされるのを眩しく感じるのか、礼は目を閉じたままだ。
 上に向かせた礼の顔の左目は、これまた実言を庇って矢を受けたために無くしてしまった。
 実言はついと礼の左顔に唇を寄せて、目のない左瞼に口づけた。二度、音がたつほどに厚くしつこく接吻する。
 実言の唇が離れると、礼は右目を開けて実言を見上げて。
「醜い傷よ」
 と言った。実言は何も言わない。
「この傷に負い目を感じるから、あなたの未来は狂ったわ」
「狂ってはいないさ。私が望んだ通りだよ」 
 礼は実言をかばって暗殺者から放たれた矢の前に立ちはだかり、その左目に矢を受けて、生死を彷徨った。なんとか生き延びたが左目はくり抜くしかなかった。そして、左瞼の垂れ下がった目のない左顔になった。実言は、朔との婚約を破棄して、自分を庇って左目を失った礼を妻にした。
 実言の未来が狂ったとは、礼の左目に責任を感じて、礼を妻にしたこと。礼を妻にして味わった苦難を思ってだった。実言は北方の戦に行って、瀕死の傷を負い、死の淵を彷徨った。礼を妻にしていなければ、こんな命を危険にさらすこともなかったはずだ。
 思い出したように礼は、左目の傷を引き合いに出して、実言の運命を狂わせたことをわびる。何回も繰り返される会話だが、実言の答えはいつも同じでお決まりの会話だった。
「お眠り。お前が眠りに落ちるまで私が見守っている。私が眠るときは、お前を腕の中に入れて、守るよ」
 実言の言葉に、礼は小さく笑って、目を閉じると安心しきったあどけない表情で実言の胸に顔を寄せて眠りに落ちていく。
 礼の左目の傷は醜い。初めて見た者は、驚きが隠せないだろう。右顔は綺麗な丸い大きな目をしているのに、左顔を見ると目はなく、瞼は落ちくぼみ、矢を抜いたり目をくり抜いたりしたときに皮膚が裂けた傷跡は痛ましい。しかし、実言はその傷に怯むことはない。自分の心のよりどころになった女人は美醜云々を通り越して、その全てが美しく愛おしい。決して万人の美醜の基準に沿わないが、世がそう見るのであればこの価値ある女人を自分ひとりのものにできることは、なんと好都合かと思う。
 実言は、眠りに落ちた礼の顔を上向かせて、再び左瞼に唇を押し付けた。

 翌朝、実言は目を覚まし、妻を起こさないようにその体の下からゆっくりと腕を抜いて、上体を起こした。礼は左顔を下にして実言の方を向いて寝ている。
 早起きの侍女か家人が部屋の一部の格子を上げて、そこから差し込む朝日の薄日が寝所の中にも洩れ入って、柔らかく礼を照らしている。ゆっくりした寝息を確認すると、実言は立ち上がって昨夜脱ぎ捨てた上着を拾うと、袖を通して軽く帯を締め、隣の部屋に入って行った。
 実言の足音を聞きつけた舎人が几帳の陰から姿を現した。
「寝過ごしたかな?」
「……いいえ。まだ、出仕の時間には余裕があります」
「そうか。なら、少しゆっくりと過ごそうか。時間が来たら知らせておくれ」
 実言は、洗顔などの身支度をした後、ここ数日会っていない子供達のことを思って、庇の間から簀子縁に出て、子供達の部屋へと向かった。
 この頃は子供達も分別がついてきて、だめだと言われることは聞き分けるようになり、朝早くから両親の部屋に行ってはだめだと言われて、守るようになった。
 実言は簀子縁から庭に目をやると木の陰に人影が見えた。記憶をたどりその顔を思い出した。まだ若い女人は束蕗原の去のところから来た見習いの萩という者だった。恥ずかしそうに、はにかんでいるその向いに立っている男は誰だろう。これも若い男だ。萩が一方的に好きなのか、それとも相思なのかわからないが、若い男女が朝早くから木の陰で話している。実言は、家人の恋愛にいちいち目くじらを立てる気はない。しかし、男の顔がわからない。最近、人手不足で多くを雇い入れているが、その人選は執事の雅之に任せているから、いちいち家人皆の顔を覚えているわけではないが、一度は会うことにしている。
 実言は一度会えば、大体の人の顔を覚えているが、どうも今見ているその横顔に記憶がないことに不安を覚えた。
 実言が子供達の部屋に行くと、子供達の面倒を見ている侍女が寄ってきた。
「今日はまだお休みです」
 実言は頷いて、静かに二人が寝ている褥の上に横たわり、二人の寝顔を見つめた。実言のすぐそばに実津瀬がうつ伏せで実言の方に顔を向けて、実津瀬の向こう隣に蓮が仰向けに寝ている。無垢な寝顔は時間を忘れて見続けられた。腕を枕に、じっと見ていると、実津瀬がもそもそと動き出し、突然ぱっちりと目を開いた。実言は実津瀬と突然目が合って、ぎょっと驚いたが、実津瀬はすぐににっこりと笑って。
「おとうしゃま」
 と小さな声で呼んだ。寝起きの少し喉に引っかかった声だ。そして、ころころと二回ほど体を転がして来て、実言の胸の内へと飛び込んできた。実言は抱きとめると、そこで初めて父が自分の部屋にいるのかを不思議に思ったようで。
「どうしたの?さみしくなったの?」
 と訊いてきた。
 実言はその可愛らしい言い草に、微笑んで「実津瀬に会いたかったよ」と耳元で囁いた。実津瀬はお返しとばかりに、実言の耳に口を近づけて、「僕もとうさまに会いたかった」と言った。
 実言は起き上がると、実津瀬を抱き上げて、隣の部屋に行った。まだ眠っている蓮を起こさないようにして、庇の間で話をした。久しぶりに会ったから、実津瀬は嬉しくて、実言の腕の中でつたなく話をしていたが、いきなりそこから飛び出して簀子縁を走り回って、また実言の元へと戻ってきた。外で走り回るのが楽しいらしくて、木に登った話をしている。「そうなの」と実言が相槌を打つと、下から実言を見上げて嬉しそうに笑った。
 実津瀬とたわいのない話を続けていると、いきなり庇の間から叫び声が聞こえた。
「ああ、おとうさま!実津瀬!」
 蓮が起きてきて、二人が楽しそうにしているのに焼きもちを焼いたように頬を膨らませて走ってきた。実言は、蓮をすぐに腕の中に入れてやると、力いっぱい抱いてやった。「よく寝たかい?」と問うと、蓮も頷いて満面の笑みを実言に向けて。
「起きたら、おとうさまがいてうれしかった」
 と言う。寝起きの乱れた、しかし母親譲りの艶やかな黒髪を何度も撫で、そのふっくらとした柔らかな頬に頬ずりした。
 実津瀬と蓮を両手に抱いて、しばらく一緒に話をしても、最後に二人は「お母さまは?」と言って、母を恋しがった。
「では、お母様のところに行こうか?」
 と問いかけると、二人は自分に見せていた以上に嬉しそうな顔をして頷いたように思った。その顔をみると嫉妬だな、と実言は一人心の中で笑った。
 そのころ、礼は褥の上に起き上がり、けだるい余韻に浸りながら、隣に夫がいないことに慌てていた。

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