Infinity 第三部 Waiting All Night52

池 小説 Waiting All Night

 日良居は毎日夕餉の食材を買いに行くのに、隠している使命を意識して、曲がった背中も心なしかすっと立ってくる。
 決してこちらが岩城実言に会いたがっていることを知られてはならない、と哀羅王子は言う。だから、毎日ふらふらと決まった道、時に気の向いた道といろいろな道を通って市まで行っている。市も東と西の二つあるが、気分に任せて西に行ったり、東に行ったりした。
 五条の田原野というところは岩城実言の邸のある場所で、田原野の近くを通れと言われたときは、何の思いもなく、岩城実言の大きな邸の塀を伝いながら、なんと大きな邸だろうとのんきなことを思って歩いたものだが、これからは岩城実言と出会うことを考えながら歩かないといけない。
 偶然の出会いを求めるとは、気の長い話である。こんなことで、我が王子が思っていることが成し遂げられるのかと心配になるが、事を焦って、岩城実言と通じていることが分かっては元も子もないのだ、と教えられた。
 哀羅王子から、夕餉の遣いの本当の目的を聞いてから、十日。行きしなに帰りしなと、道を変えながら岩城実言に会う機会をうかがっていたが、岩城実言の陰すらもうかがえなかった。夕餉の買い物だから、岩城実言がちょうど宮廷を退出して自邸に戻ってくるときに出会う可能性が高い。一人で歩いていることはないから、一人ないしは二人くらいの供を連れているだろう。少年の頃の姿は目に焼き付いているが、現在の青年の姿は見たことなく、全く想像がつかなかった。
 日良居は、いつ来るかわからないその時に緊張しながら、目を凝らし、耳をそばだてて歩いている。
 毎日五条の田原野の前を歩いていたら、何か企みがあるのではないかと見えない敵に勘ぐられてはいけないと、その日、日良居は大路を歩いて東の市に向かっていた。
 大路は都に住む人達の往来に加えて、地方から来た人々と物資、それを積んでくる牛馬の列でごった返していた。いつものように日良居は、道端によって歩いていると、背後で大きな叫び声がした。男のもので、危ない、逃げろと言っている。
 日良居は驚いて声の方を振り返った。その先には、道の真ん中で馬が前足を高く上げていた。それにつられて周りの馬も列を乱し、牛も鳴きながら集団で走り始める。それを避けるために、往来の人々は横によけたり前に後ろに走り始めた。足がすくんで転び、人同士が押し合いして雪崩のように倒れこんでいる。
 これは大変なことだと、日良居は自分に何ができるわけでもないが、人々が倒れて、馬や牛が暴れている方へ近づいた。四方八方に逃げ出す人にぶつかりながら、日良居はその騒ぎの中心を見ようとした。
「下がれ!下がれ!」
 身なりからして上級官僚とその供の者たちと分かった。その男たちが往来の通行人を道の脇に誘導したり、転んで起き上がれないものを立ち上げさせたり、馬から落ちた荷を通行の邪魔にならないように移動させている。そして、中心には興奮して暴れる馬の手綱を取って、落ち着かせようとしている男がいた。
「実言様!私が!」
 馬に驚いて、尻もちをついた女を助け起こしていた男が、女を道端に連れていって戻ってくると、手綱を持って馬を鎮めようとする男に言った。
「頼む」
 手綱を家来に渡すと、主人である男は邪魔にならないように後ろに下がった。
家来は後ろ脚を蹴りだしたり、前足を上げようとする馬を受け取った手綱を引いたり緩めたりしながら苦心して落ち着かせた。
馬が鎮まると、その成り行きを見守っていた往来の通行人から自然と歓声が上がった。
馬の主が駆け寄って、何度も頭を下げている。手綱を持つ男は主人を振り返った。主人は、二人に歩み寄って何かしら話をしている。もう一度深く頭を下げた馬の主は手綱を受け取って、積んでいた荷を一緒に来た者たちに拾わせた。
日良居は一連の騒動の様子を見ながら、その中ではっきりと最初に手綱を持っていた男が「実言様」と呼ばれるのを聞いた。あの人が岩城実言なのだ。
それまで動きを止めてその成り行きを見ていた通行人たちは我に返ったように動き出した。日良居だけは動かずじっと岩城実言を目で追った。
「怪我をした者はいないか?もしいれば、手当てをさせるから、申し出よ」
 逃げる際に転んだ衝撃ですぐには立ち上がれない者、足をくじいた者、人と重なって下敷きになった者たちに、実言とその供についていた三人の舎人が声をかけている。
 日良居は、道端で立ち上がれないでいる通行人たちの列に混じって跪いた。
実言は「怪我はないかい」「すぐそこに診療所があるから、そこへ連いこう」と一人一人に声をかけている。そして、ついに日良居は実言から声をかけられた。
「怪我はなかったか?」
 安心させるように笑顔で問いかける岩城実言に日良居は、その手を袖に伸ばして握り、その場を素通りさせないようにした。驚いた実言はじっと、日良居を見る。その視線を迎え撃つように、見上げて。
「私は哀羅王子の邸の者です。王子があなた様と連絡を取りたいとおっしゃっています」
 と言った。見上げた顔は、十五年前の少年がそのまま大きくなったように見えた。
 実言はその老爺を見下ろしていたが。
「昔、昔にあなたの慈悲に救われたことを思い出しました。哀羅王子の行方について、教えてくれた人だ」
「王子はあなた様にお会いしたいとおっしゃっています。内密に……」
 それは、哀羅王子の思いであるが、日良居自身の思いでもあった。十五年前の姿を知っているだけに、二人は再びあの時の友情を結ぶべきだと思うのだった。
「……わかりました。これからどこへ?」
「東の市へ行きます」
 実言は無言で日良居の腰に下げた赤い勾玉を手に取った。
「これを持った者が市であなたに接触します。その者が言うことを哀羅王子に伝えください」
 日良居はただ頷くばかりだった。日良居の前を通り過ぎ、実言は同じように続く通行人にけがはないか問いかけて歩いた。腕が痛いや、膝を擦りむいたなど訴えるものを、診療所があるからそこへ行こうと言っている。
 日良居は、ゆっくりと立ち上がり東の市へと歩いて行った。

 東の市へ着いた日良居は、岩城実言が言ったように誰がいつ声をかけてくるだろうかと、緊張してゆっくりと食材を見ることができず、店先に並べられた野菜や魚にただ目をやるだけでぶらぶらと歩いた。
 実言が取った勾玉は、先代の渡利王から賜った物だった。下働きにまでこのような高価なものをくださるのかと感激した。それからお守りとして上着の下に肌身離さず持っていたものだった。
 市は、それぞれが品物を持ち寄って並べ、店先に来た客と交渉しながら、物々交換したり、流通しだした貨幣で買った。
 日良居は、邸の者たちは魚が好きだから、今日も魚を買って帰ろうと思った。魚を並べている店先をのぞいてはまた違う店へと歩いた。
「いかがです?新鮮ですよ」
 筵の上に並べられた魚を覗き込んでいた日良居の目に、色黒の大きな手の平が飛び込んできた。
「この魚はどうですか?」
 川魚が十匹ほど並んでいるのを掌の先で指しているが、日良居の目はその手の平に載っている赤い勾玉に釘付けになった。
「……はい。八匹ください」
「ありがとうございます」
 勾玉を持った男は、礼を言いながら隣の老爺を見た。
「はいはい。ありがとうございます」
 老爺は、大きな葉の上に筵の魚を載せる。その様子を日良居と勾玉を持った男は見守っていると、不意に勾玉を持った男が話し始めた。
「……私は岩城実言様に仕える、耳丸という者だ。実言様から、哀羅王子様にお伝えいただきたいことを申し上げるので、どうかお伝え願いたい。……哀羅王子様のお気持ちを受け取りました。必ずこちらから、近いうちに王子様と安全に会う段取りを取りますので、それまで今までと変わらない暮らしを送ってください、とのこと」
「……相わかりました。王子にお伝えいたします」
 魚を包むのが終わった老爺は日良居に笑顔を向けている。
「これでどうかな?」
 日良居は哀羅王子から預かった貨幣を三枚渡した、
「ありがとうございます」
 店の老爺が恭しく受け取った。
「釣りだよ」
 と隣にいる岩城実言の使いの耳丸という男が、手を指し出してきた。
 日良居は素直に手を出すと、その上には赤い勾玉が置かれた。日良居は包んだ魚を受け取るとはやる気持ちに突き動かされて、大路を北へとひた歩いた。
 三条にある邸に戻るとまずは台所を覗いて、買ってきた今日の夕餉のおかずを渡した。台所にいた侍女は魚と分かると喜んだ。それからすぐに、日良居は哀羅王子の部屋に向かった。庭を突っ切って、王子が居間にしている部屋の傍の階をめがけて走った。王子は庇の間に机を出してきて、何やら書き物をしていた。
庭で動く影に気付いて顔を上げた哀羅王子と日良居は目が合った。王子は立ち上がり簀子縁に出てきた。
 それは、いつもの日良居とは明らかに違ったのだ。密命に関して、何かあったに違いないと感じで、哀羅王子は階の上に立った。
「何か、あったか?」
「はい」
 日良居は弾む声で答えた。
「そうか、また後で聞くから、部屋で休んでいろ」
 すぐにでも、岩城実言からどのような言葉があったか聞きたいだろうに、と日良居は思った。どこで見ているかわからない見張りのことを気にしてすぐには聞かないのだ。哀羅王子がどれほど注意を払って、事を進めたいのかその気持ちの表れに思えた。
「はい」
 日良居が台所にいると、哀羅王子の身の回りの世話をしている男が現れて池に来いと言った。
 日良居はすぐさま広い庭へと向かい、池のたもとに立った。哀羅王子が待っているのかと思ったが、誰もいなかった。
 昔はなみなみと水を湛えていた池は、哀羅王子が都から去った後は手入れもままならず枯れてしまったままだ。落ち葉が溜まって、昨夜降った少しの雨が窪んだ所に水溜まりを作り蛙が浸かっていたりする。きれいとは言えない池のたもとで、伸びた草をむしっていると、後ろから足音が聞こえた。
「ああ、精が出るな」
 と哀羅王子の声がした。
 日良居は振り返ると、沈みかけている陽が哀羅王子を照らしている。
「王子」
「いつも手入れをしてくれて、感謝する」
 立ち上がった日良居は王子の言葉に頭を垂れた。
「ここであれば、誰かに聞かれることもなかろう」
 本当に日良居にしか聞こえない程の声で、哀羅王子は言った。この池の周りには大きな木や、身を隠せる繁みもないのでここに来るように言ったのだ。
「岩城様にお会いできました。大路で馬が暴れているのを鎮めたのが岩城様達でした。往来の通行人たちに怪我がないか聞いて歩いている中、運よく実言様から声をかけていただきました。実言様は事情を呑み込み、市に行く私に使いをやると言われて、市を歩いていると、岩城様の使いが私に話かけてきました」
 哀羅王子は、表情を変えずに聞いている。
「哀羅様のお気持ちは受け取りました。必ずこちらから、近いうちに哀羅様と安全に会う段取りを取るので、それまでお待ちくださいと言っていました」
 そこで、哀羅王子は、小さな吐息をついて。
「そうか」
 と言った。
「そうか」
 ともう一度言い。
「わかった。……しかし、急に夕餉の買い物をやめるのも怪しまれては困るから、渡した金が尽きるまで思うように使ってくれ」
 哀羅王子はそう言い終えたら、日良居の前から立ち去った。途中、庭に咲き始めた杜若をむしり取って、部屋の前の階へと歩いて行った。

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