Infinity 第三部 Waiting All Night56

椿 小説 Waiting All Night

 宮廷内に与えられている自身の館の簀子縁に出て、高欄に体を預けて外を眺めていた春日王子は、朔が向こうから歩いてくる音にすぐには気づかなかった。
「王子?」
 何度かの呼びかけで、やっと春日王子は朔の方を振り向いた。
「ああ、すまない。考え事をしていたよ」
 腕を高欄の一番上に乗せて、じっと微動もせず庭を見つめている春日王子に、朔は恐れを感じていた。
 春日王子は立ち上がり、部屋へと入って行く。朔はそれに続いた。
「とても深い考え事のようにお見受けいたしましたわ。私は帰った方がいいのではありませんか。お邪魔になりますでしょう」
「いいや、そのようなことはない。これから月の宴の準備が本格化して、お前の顔もしばらく見ることができないだろうから」
 そう言って、春日王子は朔を隣に座らせた。
「妃に変わりはないか?」
 春日王子がまず、四番目の妃、幹のことを訊ねた。王女を産んでから寝たり起きたりの生活で、朔が定期的に後宮に通って、幹妃の心身を労わっている。今日もそのために王宮を訪れたのだ。
「ええ、今日は天気もよくて幹様も清々しい気持ちになられたようです。寝所から起き上がって、庇の間から庭を眺めたりして、過ごしました」
「そう。お元気におなりであればよいことだ」
 それから、朔はこの頃愛くるしさが増すばかりの王女の話をした。
 春日王子は、朔が話すことを聞いてはいるが、いつの間にか先ほど簀子縁で考えていたことが頭をよぎり始めた。
 春日王子は大王の医師を操って大王の体調を支配して、労せず次代の大王の座を弟に譲ると約束させようとしたが、うまくはいかなかった。兄からの信頼は得ていると自負していたが、大后が横やりを入れてきたのだろう。最後には、我が子がかわいくて、弟がいるのにそれを飛び越えて直接我が子にその御位を譲ることに決めたのだ。子がいない春日王子には全く理解できないことであった。
 甥が次期大王になるのを黙って指をくわえて見ていられるだろうか。ああ、一思いに兄を葬ってしまえばいいだろうか。兄を殺すなど、過去の歴史になかったわけではないが、そんなことをためらいもなくできるほど自分は冷徹で非情な人間になれるだろうか。
 自問は際限なく続いて、朔の呼びかけにすぐには気づかず、何度目かにはっと顔を上げた。
「すまぬ」
 素直に春日王子は詫びた。
「春日様はお疲れなのでしょう。私はこれで」
「いや、すまぬ。少し、お前の夫のことを考えていた」
「夫……?」
 朔は春日王子が言った同じ言葉をつぶやいて、表情を曇らせた。
 一度も夫のことを話題にしたことのない春日王子がこの期に及んでなぜ、話し始めたのかわからない。
「椎葉家は、岩城とは一線を引いているだろう。岩城に対抗できるのは椎葉家くらいかな。私が右大臣と手を組めば、そこそこの勢力になるだろうし、椎葉家も王族との関係がいくつかあれば、より勢力を拡大することもできる。お前の夫はどのように考えているのかと思ってな?」
 朔は俯いて暫く黙った。
「……夫は私には政の難しい話はしませんわ。残念なら、何もわかりません」
「そうか」
 朔はまた視線を落とした。なぜに、夫の荒益のことを話題にしたのか、朔にはしこりが残る会話であった。夫の元に戻りたがっている自分の心を見透かされたように思えて、咎められているように感じた。
「王子のお邪魔はしたくありません。今日はこれでお暇させていただきとうございます」
 朔が再び言うと、この時は、春日王子も止めなかった。
「ああ、わかった」
 そう言った後、じっと朔を見つめて。
「どうだろうか。少し、痩せたか?」
 春日王子は手を伸ばして、朔の頬に手を添えた。
「食事はとっているか?」
 続けて言葉を放った。
「ええ、しっかりと食べていますわ」
 春日王子の指が朔の頬に触れた。朔は慄くように顔を引いたが、春日王子の指が追いかけてきたので、留めて頬を撫でられるままにした。
「病気などしていないか、心配になる。お前がいなくなっては困るからな」
 切なげな表情を一瞬したが、春日王子は朔を見つめて微笑んだ。
「ありがたいお言葉。でも、私は至って健康ですわ」
 朔もお返しとばかりに笑い返した。春日王子にとっては、そのはかなげな表情が底のない不安を誘って、朔を引き寄せて抱き締めた。
「……春日様?」
「ああ、次はゆっくりと時間を取ってお前と話をしたい。月の宴が終われば、宮廷の行事も一段落するだろうからね」
 朔は言葉では返事をせずに、頷いて笑った。それを春日王子は、悦びや嬉しさの表現と感じた。実態を確かに感じるために、もう一度細い朔の体を力を込めて抱いた。
「王子、苦しいわ」
「これが私の今の思いの猛りのままさ。悪いか?」
 最後は傲慢に言い放って、力を緩めると朔の顔を覗き込んだ。
「酷いお方…」
 朔は誰にも聞こえない声で訴えた。
 春日王子はにやりと大きく口の両端を上げて、朔に笑って見せる。朔もつられるようにもう一度微笑み返した。
 楚々と簀子縁を帰っていく朔が角を曲がって姿が見えなくなると、春日王子は翻って部屋の中に突進する勢いで入った。朔の美しい立ち姿が瞼の裏に残像として残っていたが、部屋に戻って円座に座ると、朔との会話も上の空になった先ほどの考えに戻っていく。
 しかし、今ののらりくらりと延命させている現大王の御代が続くと、狡猾な大后は様々な手を使って息子の香奈益王子の味方を増やしていくと考えられる。そうなれば、次代の大王候補の競争において、春日王子が劣勢とみられて集めた見方が寝返ってしまう可能性がある。
 特に、誤算であるのが哀羅王子であった。あの男がこちらにいることで、好意を持つ王族もいた。哀羅王子が離れて行ったとわかれば、その好意も失われるだろう。自分の勢力が殺がれることは間違いない。
 それに。
 大事な仲間であるということを哀羅王子自身に示すためにあれを預けてしまった。いざとなった時、あれを持って寝返られたら、春日王子は申し開きができるだろうか。逃げ道を塞がれた手負いの鹿のようなもので、強大な力の前にただただひれ伏して命乞いをするか死しかない。
 春日王子はぎりぎりと歯を食いしばり、我が行く末を思った。

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