Infinity 第三部 Waiting All Night62

牡丹 小説 Waiting All Night

 月の宴を二日後に控えて、今日は会場となる翔丘殿で本番さながらの予行を行う日である。前日までに内装、装飾、舞台は整えられていて、番人が雨風の番をしている。
 朝から翔丘殿には続々と人が集まってきた。まずは、宮廷から楽団が大人数で列をなして翔丘殿の門をくぐった。それから、美しく着飾った少女が五人ほど、それぞれ大人に付き添われて現れた。皆、囁き声で言葉を交わし緊張して表情をこわばらせたまま静かに、門をくぐった。
 それからもせわしなく、老若男女が翔丘殿の門の内と外を行き来している。
 麻奈見は、朝いちばんに楽団の仲間たちと一緒に翔丘殿にやってきた。今日は、舞や管弦を中心に本番と同じように音に合わせて演じ、全体の進行を確認する。夜は準備に関わった貴族や役人たちが翔丘殿の隣の敷地で小さな酒宴をして、二日後の本番に備えるのだった。
「こちらに置いておくれ」
 麻奈見は、宮廷から持ってきた楽器を入れた箱を置く場所を少年たちに指示した。
 宮廷楽団には見習いの少年たちが多くいる。世襲の者もいるが、才能のある者は特別に入ることができた。
 麻奈見に言われて、少年たちは丁寧にゆっくりと箱を置いて、後から来た先輩が箱から楽器を出すのを手伝った。
 それから、翔丘殿の周りを往来する者たちの耳には、バラバラの音が聞こえて来て、不快に感じる者がいたが、音はだんだんに統合されて行き一つの曲になって立ち止まって聞き耳を立てる者が現れた頃、本格的な予行が始まった。
 少女たちは朝、緊張した面持ちでくぐった門を、少し晴れやかな顔をして出てくる。朝は小さな声だったものが、心なしかはしゃいだ大きな声になっている。時間を見つけては大王の前で披露する舞を練習してきたことの成果が見て取れて嬉しかったのだ。
 未刻(午後二時)を過ぎると宮廷の仕事を終えた上級貴族たちが入れ替わり現れた。
 今回の月の宴にも、麻奈見は内大臣の子息と二人舞を舞うことになっていた。その相手である内大臣の子息、柾高(まさたか)の姿が見えた。その隣には、岩城実言もいる。
「お待たせしたかな?」
 麻奈見が傍に寄って行くと、快活な柾高は歯切れのよい声で言った。
「その前の演目で、時間を取っていましてまだ時間があります。ゆっくりとご準備ください」
 柾高は安心して、楽団の見習いの少年が案内する部屋へと向かった。
「久しぶりだね」
 一緒に柾高を見送った実言が麻奈見に言った。
「本当に。こういった宴でしか会うことがないものね」
 周りに他に人がいないので、麻奈見は友人の口ぶりで話す。
「息子がね、麻奈見の舞を観てとても興味を持ったようなのだ。いずれ、師として教えてやってほしいよ」
「へえ、それは嬉しいね。私のようなものでいいのなら、どうぞいつでも申し付けてほしいな」
「そんなことを言って!当代一の舞手に指導を頼むなんて大変だよ。下手の横好きでは習わせられないよ」
 談笑している実言と麻奈見のところへ、舞の衣装に着替えた柾高が戻って来た。
 そこで、実言を残して柾高と麻奈見は舞台に歩いて行った。
 陽も落ちて灯籠に火が灯された。篝火も焚かれて、大きく爆ぜる音の中で熱心に本番さながらの予行が続き、月が真上に登った頃に終わると、酒宴が始まった。
 今日の予行に関わった者たちを労うのに、大臣たち上級貴族が酒と料理、人などの費用を出しあってもてなすのだ。
 各邸に仕える家人、侍女達が料理を並べた一人分の机を持って入ってきた。きれいに揃えられた机の前に、二日後の宴を成功させるために尽力している者たちが座った。参加は自由なので、用がある者は帰るし、これが楽しみという宮廷楽団の一部の者たちは、末席の方にかたまって座っている。
 誰の杯にも酒が注がれたところで、内大臣が現れて挨拶をした。それからは、皆が隣同士、三人、四人とまとまって話をしながら今日までの準備の苦労を話したり、二日後の本番に向けての話をした。
 実言は上座に座っている。麻奈見は楽団の仲間たちと一緒に末席の中に座っていた。宴会の途中で、数人が遅れて来た。その中に荒益もいた。
 夜も深くなると、内大臣は既に帰っており、他にも一人二人と席を立つ者がいた。明日の仕事のことを考えて帰宅するのだ。そうなると、空いた席を見つけて、親しい者同士がかたまって話をし始める。身分階級によっていくつかの塊ができた。
 上級貴族が上座の方にいる。実言の隣が空いて、荒益がそれを見つけて座った。実言の反対側に座っていた柾高が徳利に手を伸ばして、荒益が手にしている杯に酒を注いだ。荒益は礼を言って、前を向くとすぐさま実言が話しかけてきた。
「姿が見えないから、今日は来ないのかと思った」
「宮廷を出ようとしたところで、急遽対応しなくてはいけない仕事ができてね。遅れてしまった。まるで宴会目当てに来たように、遅い時間に現れて、恐縮しているところだよ」
「あはは。早く来たところで、何をするということもない。私も警備の準備状況を確認していたといっても、柾高と麻奈見の舞の練習に見入ったりして、遊んでいると言われてもしょうがない。ここにいるものはたいがい同じような者で、肩身が狭いなどと気にすることはないのさ」
 実言はぐるりと輪を見回して言った。上流貴族の子息が大半を占める面々を指して、笑って見せた。荒益も合わせるように笑って一口酒を飲んだ。
 麻奈見は楽団の仲間とともに下座に座って、月見酒をしており。上座に座る役人たちの会話や様子を見聞きしながら、時折仲間の会話に小声で答えた。
 実言や荒益が座る最上席と、麻奈見が座る末端席の間には階級の高くない貴族たちが集まっていた。上流の下で細やかな実務を担う彼らは、出世したいと奮闘する苦心惨憺の日々のその気持ちを吐露したり、憂さ晴らしに飲んでばかばかしいことを言ったりした。
 その中に、石川久留麻呂(いしかわくるまろ)がいた。齢四十を過ぎた男は好きな酒を注がれるままに飲んで、気の置けない仲間たちとの会話に口も綻んでくる。
 今も仲間の一人の仕事の失敗話に皆が、お前が悪い、上司が悪い、下で使っている下級役人が悪いと自分の考えを言い合った。
 そんな話が一段落したところで、一人が話を変えた。
「大王の御身体がもとに戻られて本当に良かった」
「本当に。大王の治世は異国との戦争もなく、飢饉も起こっていない。このことがこのまま末永く続いてほしものだ」
 何人かが頷いている。
「豊作続きなのがいい。無駄な戦がないから、治水事業などが進んでいるのが良い結果を生んでいるのだろう」
「戦と言ったら、南方の鰐輪や北の蝦夷との戦があった」
「いずれも勝利したであろう」
「しかし、蝦夷との戦いには年月がかかった。莫大な費用がかかったはずだ」
 皆が口々に思いを言い合った。
「亡くなった者が大勢いる。私の親類で寡婦になった者は毎日泣き暮らして、最後には自ら夫の元に行ってしまった」
 暗に死んだことを告げた。皆はしばらく押し黙ったが、その沈黙を破って石川久留麻呂はトンっと音を鳴らして杯を置いた。勢いのある音に皆が静かになって視線を向けた。
「戦を嫌がっていては国が富むことはない」
 そう言うと、酔いのまわった赤ら顔を上げて、輪になっている周りを見た。舐めまわすような視線が一周すると、すうっと息を吸って久留麻呂は次の言葉を放った。
「南の敵も、北の敵も撃退し、異国へもその力を及ぼすことこそ我が国を大きく、強くしていくのだ。その先には、富んだ豊かな暮らしができるというものだ。そのように導いてくださるのは、次の大王になる方であろう」
 饒舌に語る久留麻呂に、皆は耳を傾けていた。
「今より富み、豊かな暮らしができるようにしてくださるのはどなただと言うのだ」
 そこで、次の御代への問いを投げかける者がいた。
「それは、言わずともわかるであろう。あの方しかない」
「お前には確信があるのか?次代の大王の」
「それは」
「久留麻呂!」
 鋭い声が飛んだ。
「口が過ぎるぞ。慎め」
 輪の反対側から、久留麻呂の次の言葉を止める声が上がった。そこで久留麻呂は自分が何を言おうとしていたのか気づき、下を向いた。
「なぜ、言わせない」
「必要ないからだ」
 久留麻呂が俯いているところで、輪の中で次々と言葉が交わされた。久留麻呂の言うはずだった言葉は場合によっては、現大王に謀反を企んでいることを示唆した。
 言ってしまえば、汗と同じで引っ込むことはない。その言葉を利用して闘争を仕掛けようと思う者ものが言わせようとけしかけ、成り行きを見ようとする者が黙り、無用の争いをやめさせたいものがその言葉を止めようとした。
 このざわめきに、下座に座っていた宮廷楽団の一員たちは何事かと、視線を送ったり、背中を向けていたものは振り向いたりした。
 ちょうど久留麻呂たちの輪に背中を向けていた麻奈見は手に持っていた杯を口につけてその様子を窺っていた。仲間との会話に興じていたが、後ろから現大王の御代の話が聞こえてきて、その会話に眉を顰めた。
 大王の健康を祈り、その御代の安寧を願っているところに、次代の大王はより国を発展させるとの発言は、見逃せないものだった。その言質でどれだけの人間が社会的に、もっと悪くすればその生命をも葬られることか。久留麻呂はその入り口へと自ら足を踏み入れたのだ。
 久留麻呂の頭からは汗が湧き出て、こめかみから頬を伝って、顎でしばらく止まり、次の汗に押されるように滴り落ちた。なのに、顔は作り立ての白壁のように真っ白である。
 実言は隣に座った荒益や、その向こうに座る柾高との会話を楽しんでいたが、急に隣の輪の雰囲気が崩れて、怒声が聞こえてきたので、黙ってその方へ視線をやった。
 荒益は実言が上げた視線に誘われるように目を向けた。中流の官僚たちが集まる輪がそれまで笑い声やおどけた声が入り混じる雰囲気だったものが、一気に不穏な空気に包まれている。その輪の中で、一人血相を変えて下を向いているのは同じ弾正台に勤める石川久留麻呂だった。荒益は済んだ目を向けた。
 すると、実言や荒益のいる上級官僚の輪の中から声が上がった。
「どうした?何があったのだ?」
「石川久留麻呂が」
 輪の中からそう告発するような発言があった。
「おい!よせ」
 すぐにその発言を止める声が上がる。
「大王の次代について」
 別の者が、続きを言い進めようとするのを。
「やめろよ」
 また、別の者が止めに入る。
「私は聞こえたぞ。大王への反逆である。次により良い大王の御代が来るとは」
「いや、これは、久留麻呂の本意ではなく、酒に酔ってわけのわからぬことを口走り」
 久留麻呂に代わって言い訳を言う者がいる。
「すぐに検非違使を呼ぶべきだ。これは由々しきこと」
「お待ちください。久留麻呂は何も言ってはおりません」
「いや、新しい大王の御代の到来を予言しようとしていた」
 矢継ぎ早に発せられる言葉に、皆は心の臓をつかまれる思いでその成り行きを見ていた。
「久留麻呂は反逆の言葉など言っておりません」
 久留麻呂の隣に座る中年の男が中腰に腰を浮かせて、久留麻呂にも何か言わせようと振り向いた。久留麻呂は今では青白くなった顔を上げて、口をぱくぱくさせてやっと出た言葉は。
「……私は、何も……何も………」
「嘘をつけ!」
 厳しい言葉が飛んできて、久留麻呂は次の言葉を言うことができず、その場に塞ぎ込んだ。
 下座で後ろを振り向いて様子を窺っていた麻奈見は、後ろ姿の久留麻呂は気を失ったように見えた。
 上級官僚の輪の中から、実言や荒益より年上で自部省少輔の倉橋(くらはし)辰(たつ)美(み)が声を上げた。
「わかった。言った言わないの白黒をここでつけるのはもはや難しい。今日はこれで一旦切り上げよう。追って、詳細を調査し、はっきりとさせよう。今日のところはこれにて解散だ」
 その言葉に、その場の緊張は一気に緩んだ。急に持ち上がった謀反の嫌疑に関わらないように素早く立ち上がり、皆は帰り道を急いだ。その中で、久留麻呂を支えて立たせ、無事に家に帰らせようとする善意の者と、嫌疑のある久留麻呂を見張るために付けられた者が連れだって久留麻呂を部屋から連れ出した。久留麻呂の表情は気を失う寸前の朦朧とした状態だった。
 実言は黙って連れ出される久留麻呂を見た。と言っても、助ける者たち、見張る者たちの輪が幾重にもできていて、その表情をじっくりと見ることはできなかったが、人の頭の重なりから垣間見えた顔は蒼白の茫然自失である。
 誰かが、検非違使の別当の邸に人を走らせているかもしれない。明日には久留麻呂の邸は検非違使の役人たちに取り囲まれる可能性がある。
 荒益は実言と違って、連れ出される久留麻呂を追いかけるように連れ出す輪に近づいた。人が押し合いへし合いしている中に入ろうとしたが、やむなく押し出された。あの荒波のような人の輪の中に入って行って、自分は何をしようとしたのだろうか。押し出されて立ち止まったまま、遠ざかっていく人だかりを見送りながら、同僚である久留麻呂に何を言ってやれただろうか。お前は何を言ったのだ。一部が糾弾しているような大王に逆心の気持ちがあったのか。青ざめた顔をより青ざめさせることしか言えないかもしれない。
 麻奈見は、怒号が飛び交う輪の外でじっくりと眺めていた。宮廷楽団はいつもその時の大王のものである。謀反や騒乱や何が起ころうとも、どのように政権が変わろうとも、最後に政権を取った大王の元に勤めることに変わりはない。しかし、荒れる宮廷の予感に、楽団全員が体を固くし、口をつぐんで見守っていた。
 不用意に口にした本心か嘘か分からない言葉が大王の健康状態の不安定さがそのまま宮廷の権力の不安定さに現れて行くことを止められず、皆がその争いの嵐の中に進むことを余儀なくされそうであった。
 この騒ぎを今夜は酒の席の騒ぎのままに押しとどめようと倉橋辰美は思った。早まって反逆だ、謀反だと決めつけたら、国を二分するような大事になりかねない話であると勘が教えた。
 しかし、この話に周りはすぐに動いた。主人にこのことを伝えに夜陰に紛れて静かに外に走っていく者がいた。そして、誰も感知していなくても庭に潜んでいる間者がひっそりと塀を越えて主人の邸に向かったことは想像できた。

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