Infinity 第三部 Waiting All Night63

紫陽花 小説 Waiting All Night

 そして、佐保藁の春日王子の邸にも、間者が翔丘殿での予行の後の酒席での出来事を報告しに戻った。
 春日王子は女人と横になっていたところを、舎人の慌てた声に起こされた。不機嫌に返事をして起き上がると、乱れた寝衣の上から上着を引っ掛けた。女が寝返りを打って見上げたのをそのままでいいと囁いて、用意された部屋へと向かった。
 春日王子が部屋に入ると、平伏した間者とともに、息を切らせた衣(い)良(ら)若狭(わかさ)が座っている。月の宴の準備の後の酒席では上座の輪の中に座り、件の騒動を見ていた春日王子の陣営の一人である。翔丘殿から馬を飛ばして佐保藁の春日王子邸へと走ってきたのだった。
「何事だ?こんな夜更けに」
 そう言ったが、春日王子はただならぬことが起こったのだと察知した。だから、心の底から夜中に起こされたことに腹を立てているわけではなかった。
「……石川久留麻呂が……」
 衣良若狭が口を開いたが息があって、久留麻呂の名を言うだけでその先の言葉を継ぐことはできなかった。その後を引き取ったのは、間者である。冷静に自分が見たこと聞いたことを話した。春日王子に問われて衣良がより近くで見聞きしたことを補足した。
 聞き終わった後、春日王子はしばらくの間、右手を額にやってその重さを支えた。
 現大王の次代を争う人物といったら、二人しかいない。
 大王の弟である春日王子と、長子である香奈益王子である。
 石川久留麻呂がどちらを支持しているのか、検非違使の探索を受ければすぐにわかることだろう。そうなると、春日王子に謀反の意思ありとみなされて、芋づる式に春日王子に忠誠を誓った者たちが明らかにされて、一斉に討伐される可能性がある。
 どうしたものだろうか?
 春日王子は沈黙した。そして、右手で支えていた顔を上げると。
「哀羅を呼べ。誰にも知られぬように注意してここに連れてまいれ」
 と、舎人に命じた。はっ、と短く返事をして、奥の者に指示をするのに一旦下がった。
「久留麻呂は何を思って、そのようなことを口走ったのだ?まだ道半ばの大事な時に、軽率な……」
 春日王子は親指の爪を噛むような仕草で苛立ちを露わにした。
「若狭、久留麻呂を葬るしかないだろうか。あの者一人の命だけで済むのならやむを得まい」
 ぎらっと光る眼を衣良若狭に向けて、右の口端を少し上げて笑ったような表情で言う春日王子に、衣良は身をすくめて、「はい」とも返事ができなかった。

 激しく門を叩く音に目覚めて、深夜の客人に哀羅王子の邸の従者は眠い目を擦りながら、門を開けた。春日王子の遣いだという男は遠慮なく中へと進み、早く哀羅王子に取り次ぎしろと目で命じた。従者は急いで、邸の中へと入って行った。
 御簾の外から小さな声で呼ばれるのに、仰向けに寝ていた哀羅王子はゆっくりと目をあけた。そして、御簾の方へ呼びかけた。
「なんだ?どうした?」
「春日王子様の遣いが参っております」
「春日王子の?」
 哀羅王子は上半身を起こして、あたりを見回した。御簾の向こうで従者が持っている小さな灯りが見えるだけで、あたりは真っ暗である。
「夜が明けてからでは遅いのか?」
「はい、そうお願い申し上げましたが、今すぐにと仰せで」
 急な用事と言っても、夜が明けるのを待てないとはどういったことだろう。こんなに焦って呼びつけるのは、大王に関することしかない。
「……わかった。すぐに用意するから、待つように伝えてくれ」
 はい、と小さな返事が返ってきて、御簾から離れて行く衣擦れの音がした。哀羅王子は寝所から出ると、半分眠ったような顔の侍女が待っていた。春日王子の邸に赴かなくてはいけないと知った家人が急いで侍女を起こしたのだ。そうは言っても、年老いた侍女は寝ぼけたまま、哀羅王子に袍の袖を通させて、やっと帯を腰に回した。
 服装が整い、玄関に行くとその手前の小部屋に控えていた使者が出てきて。
「急なご足労をおかけして申し訳ありません」
 と殊勝なことを言った。
 今は雲が出て、月を隠しているのに、使者は手に何も持たず、そのまま哀羅王子を導いていこうとするので。
「灯は無くていいのか?」
 と哀羅王子は問いかけた。
「はい。誰にも気づかれないように、お連れしろと言われております。私は夜目がききますので、どうか私から離れないようについてきてください」
 春日王子の使者は言って、哀羅王子の邸の門からゆっくりとその体を滑り出させた。無言のまま、速足で靴音をさせないその歩みを真似て、哀羅王子は息が弾むのを抑えつつ、後を追った。
 佐保藁の春日王子邸へ着くと、すぐさま門が開いた。狭く開けられた門の隙間に、使者は哀羅王子を押し込めるように入れて、自分は振り返って門を背にして立ち、敵の目がないかじっと闇に目を凝らして、背中から門の中に入って行った。
 先に中に入れられた哀羅王子は、門の中で待っていた従者に引っ立てられるようにして、部屋の中へと通された。
 春日王子がいつも使っている部屋の手前まで来ると、哀羅王子を連れていた従者は歩く速度を落とした。哀羅王子は自分の間を取ることができ、息を整えて春日王子と対面する心づもりをした。
 部屋に近づくと春日王子の声とともに、別の声が聞こえる。
 哀羅王子は、これは何か大変なことが起こったのだと、改めて悟った。真夜中に春日王子に味方する者が数人緊急に集まって話し合っているのだ。
 簀子縁の軋む音に部屋の中にいる者たちは敏感に反応した。話し声はぴたっと止み、簀子縁のほうを窺っている。そこへ哀羅王子は少し緊張した面持ちで、部屋の手前の庇の間へと入った。
「急なお呼び出しでしたので時間を取ってしまいました。お待たせして申し訳ありません」
 緊張はしているが、おかしな表情にならないように気を付けて几帳の奥へと進んだ。
 見ると、真ん中に春日王子がいて、円になるように衣良若狭と高市夕人、そして知らない顔だが、格好からして間者のような男がいた。
「ああ、哀羅、待っていたぞ。ここへ座れ」
 春日王子は哀羅王子に自分の右隣りの空いている席へ座るように言った。輪になって座っている男たちの後ろをゆっくりと歩いて、哀羅王子は用意されている円座に座った。
 座ってその顔を見回してみると、皆は神妙な面持ちである。春日王子は苛立った表情で、皆を睨みつけた。
「どうなさったのです。夜明けが待てぬほどの御用とは?」
 哀羅王子の問いかけに、皆は一様に下を向く。
「……石川久留麻呂が」
 口を開いたのは春日王子だった。それに、慄いたのか衣良若狭がすぐに被せるように口を開けて、続きを言った。
「久留麻呂が、月の宴の準備が終わっての宴席で、酔った勢いであらぬことを口走り逆心ありとの嫌疑をかけられたのです」
「逆心の嫌疑?……久留麻呂は何を言ったのですか?」
 衣良は、その時のことを思い出すのに少し時間が要って、黙ったがしばらくして口を開いた。
「位によって三つほどの輪になり、好きに飲み食いしていました。久留麻呂は同じ位の者たちの輪に加わっていました。その中で、大王の健康の快復を喜ぶ声が上がって、次々に大王のこれまでの功績を称えていたら、戦争の犠牲者の話にもなり、そんなときに久留麻呂が次代の大王のことを話し始めまして」
「次の大王はどなたかと言ったのか?」
「いいえ、そこで注意する者がいて、久留麻呂も自分が何を言おうとしているのか気づいたようです」
「では、どなた、と明言はしていないのですね」
 哀羅王子は、もう一度衣良に確認した。
「そうだ。言わなかったそうだが、検非違使を派遣させようという者がいたらしい。久留麻呂なら探索されたら、誰を念頭に置いて言ったのかすぐに吐いてしまいそうだ」
 黙っていた春日王子が口を開いて言った。
「……夜が明ける前に久留麻呂の口を塞いでしまおうか。このことが今後我々にどんな災禍を招くか予測ができぬ」
 春日王子は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、歯をぎりぎりと鳴らした。
 哀羅王子は腕を組んで、今ここで話されたことを考えた。
 久留麻呂とは、数度この邸で会った。位からしたらいつも下座っており、話すこともなかった。しかし、春日王子を信奉している様子はよくわかった。いつも大きく頷いて声高に春日王子を称えていた。その男が、酔って自分の命にも代えて守りたい人の命を窮地に落としいれてしまうとは滑稽だ。そう思っても、今、顔には出してはいけない。 
 哀羅王子は組んだ腕を解いて右手で顎をつまんで、この状況を神妙な顔をして受け止めるよう努めた。
 春日王子は衣良若狭に、夜明けとともに仲間の臣下に指示することを命じている。その声をぼんやりと聞きながら、夜が明けたら誰がどう動くだろうかと考えた。宴席には、岩城をはじめとした大王の忠誠者がいたのだから、この騒動をどのように扱って来るかは考えなくていけない。
「……哀羅……哀羅?」
「……はっ、はい」
 先ほどから何度か春日王子に名前を呼ばれていたのに、ぼんやりと考え事をして、すぐには声に反応できなかった。
 哀羅王子は左に顔を向けた。春日王子が覗き込むように顔を近づけて来たところだった。
「何を考えている」
「……宴席での顔ぶれを思うと、このことをどのように扱って来るか悩ましいことと思いまして。やはり、久留麻呂の位を考えるとその後ろに誰か他に位の高い者がいると考えて、久留麻呂を捕まえて糾弾し、その名を吐かせようとするでしょう」
「そうだな。……久留麻呂は私を心服してくれたが、口が軽い。今回のことがそのいい例だ。検非違使の拷問まがいの追及や言葉の騙しにあってすぐに名を言ってしまいそうだ」
 春日王子は、そう言って頭を抱えた。
 春日王子は現大王の政治に不満を持つ地方の豪族たちの支持を集めている途中だった。都を中心に遠くへとその支持者を伸ばそうとしているが、まだその力は弱く、事を起こすのにはまだ早い。久留麻呂の件を受けて、いっそのこと決起しようと考えるのは尚早である。
 哀羅王子は、春日王子の心の内を窺った。春日王子のこれから判断で、哀羅王子は自分の行動を決めなくてはいけない。
 春日王子からは造反と言われるのだろうが、哀羅王子から見れば自分の正当な道に帰ることであり、決して裏切りとは思わなかった。
 間者は席を立って、ほうぼうに放っているほかの間者たちと連絡を取るためか姿を消した。衣良若狭が高市夕人と話し込んでいる姿をまっすぐ見つめていると、再び春日王子から名を呼ばれた。
「哀羅」
 すぐさま哀羅王子は春日王子に顔を向けた。
「あれは、どのようにしている?」
 伏し目がちに声を落として春日王子は言った。哀羅王子はすぐに、春日王子が言うあれが何を指しているか悟ったが、あえて問い返した。
「……あれとは」
「……お前に預けているあれだ。皆が書いた……」
 どこまでも言葉を濁す春日王子の言葉に、今度は合点がいったような顔をして頷いた。哀羅王子に託した、春日王子に忠誠を誓う者が名前を書いた連判状のことを言っているのだ。
「ああ、あれは然るべきところに厳重に保管しております」
「このような事態になっては、私が持っていた方がいいのではないだろうか……」
「……それは、今のまま私が保管するのは信用がならないということでしょうか?」
 哀羅王子はそう言い返した。
「いや、そのようなことは言っていない。しかし、今後のことを考えると私が持っているほうがいいように思う」
「あれを私が持っているのを知っているのは我々だけ。夜が明ければ、久留麻呂の所業を知った者たちがいろいろと考えを巡らせますでしょう。あれについて、探りを入れてくる者もいるでしょう。手を出してきた者は裏切りものです。その者には制裁をせねばなりません。私たちの命が危うくなる。そういった者が簡単に手を出させないためにも、このまま私が持っていたほうがいいのではないですか?」
 落ち着いた声で哀羅王子は答えた。
「……」
 春日王子は言葉を発せず、次に何を言えばよいか言いあぐねていた。
「今は私が持っていたほうがいいのではないですか?そんなに私を信用できませんか?今も私はあなたにすがるしかない身です。忠誠を誓ったままであるのに」
 それまで囁くように話されていた二人の会話であったが、その言葉は語気を強めてその部屋にいる衣良や高市にも聞こえるほどの大きさになった。驚いた二人は、とっさに王子たちの方へ顔を向けた。
 自分たちの立場が危うくなるかもしれないと集まっているのに、信用するしないといった言葉が飛び交い二人は不安げに見ている。こんな時に、王子たちが険悪な様子で仲たがいしていては、ついてくる者もついてこなくなる。
 お互いの信頼関係はもう破綻している。しかし、お互いの欲望を遂げんがために、春日王子と哀羅王子はこの場を穏便に済ませるために、馴れ合うようにお互いの言葉を信じた振りをするしかなかった。
 春日王子は特に分が悪いのは自分の方であるとわかっていた。事を荒立てて哀羅王子の機嫌を損ねたり、それこそ春日王子から離れて行き寝返られては困るし、二人の仲が悪いと察知した臣下たちが、春日王子を見限ってしまえば自身の勢力は崩壊してしまう。
 春日王子は喉を鳴らして言葉を飲み込み。
「わかった。今はまだお前に預けておく方がいいだろう」
 と言った。低く小さな声は、哀羅王子にしか聞こえない。それを聞いた哀羅王子は、深くお辞儀をした。
「少し、休む。解散しよう」
 言って、春日王子は立ち上がると暫く哀羅王子を見下ろし、自分の寝所へと戻って行った。残されたものは一瞬顔を見合わせたが、言葉を発することはなく顔をもとに戻すと、そそくさと立ち上がって春日王子邸から立ち去った。
 最後に残ったのは、哀羅王子だ。灯していた火の油が無くなって、四方に立てていた灯台のうち二台は火が落ちている。仄暗い部屋の中で、哀羅王子は静かに息を吐いた。
 あの連判状は自分にとっての生命線である。あれを手放してしまったら、命はなくなったも同然だ。いつ、刺客に殺されてもおかしくない。
 この場では自分の命を繋ぎとめた。
 哀羅王子は自分の正しい道に戻ることに賭けていた。道半ばの今に命を落とすのはごめんだ。
 白々と夜が明けるのと同時に残っていた二台の灯台の火がじじっと音を立てて消えた。
 夜が明ければ、多くの人間の思惑が蠢きそれに従って人が動く。本番はこれからだ。己の命を賭けるのはこれからなのだ。春日王子との本当の対決までは死ねない。
 哀羅王子は立ち上がった。隣の部屋で窺っていた春日王子の舎人が簀子縁に出てきた。自分をここまで連れて来た男だった。
「一人で帰れる」
 そう言って哀羅王子は玄関へと歩いて行った。

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