Infinity 第三部 Waiting All Night68

小説 Waiting All Night

 間羽芭が忠誠を誓っているのは、地方から出てきて野垂れ死ぬ手前に都で仕えることができたこの邸の主ではないない。間羽芭が心酔しているのは、春日王子である。春日王子のためなら、命を賭けられる。
 逐一岩城家の来客を確認していたが、門の前が慌ただしくなり一人の老爺が皆に付き添われて入ってきた。どこの誰かもはっきりしないが、その老爺が持って来たものを奪うのが自分の仕事である。そして、奪い取った今、どのような方法であれこの箱を邸の外にいる味方に渡さなければならない。
 人の目に付かない邸の裏手にある門が手薄だろうと走ってきが、門という門はすでに見張られていると思った方がよい。
 この邸は樹々の多いが、塀の近くにはわざと低い樹々を植えているから、容易に樹から塀に渡ることはできない。しかし、間羽芭は軽々と飛び上がってその腕力で塀の上へとよじのぼった。立派な築地塀の屋根は、大きな男が登って走ってもびくともしなかった。
 身を低くして道側の往来を窺った。人がいないのを確認すると、ひらりと道に舞い降りた。何事もなかったように、間羽芭は起き上がって歩いた。
 岩城実言の邸は広く、どこまでも続く築地塀の角を探した。やっと曲がり角が見えたと思ったら、その角から男が現れた。しかし、間羽芭は驚くことなく突き進んだ。それは、その男が、我が陣営の者であったからだ。春日王子の邸との連絡役で、外で待機していた男である。
 間羽芭はそこで落ち着いて男との距離を縮めて、お互いの顔の表情がよく見える距離になった。今日の使命の成功を確信しかけたときに、相手が突如顔を歪めて驚いた表情になった。間羽芭は自分の背後にあるその原因にゆっくりと振り返った。
 そこには突如現れた、間羽芭にとってはそう思えた、岩城の邸の者二人の姿があった。一人は大柄な男で、名前は…確か耳丸と呼ばれていた。間羽芭は全速力で前に走った。それを見るや、間羽芭の方へ歩いていた味方の男も翻って走り始めた。岩城の追手から逃げるかっこうである。
 間羽芭は足が速く、みるみる連絡役の男に追いついた。
「これを」
 手に持っていた細長い箱を渡すと、男を庇うように背後について二人が連なって走り始めた。
「私が足止めしますので、どうか、お邸まで持ち帰ってください」
 間羽芭はそう言うと、前を走る男は頷いて足を速めて間羽芭から離れて行き、そして塀の角を曲がったのを見ると、間羽芭は立ち止まって振り向いた。
 こうも早く追って来られては二人ともが逃げ切ることはできない。そうなれば、一人を生かすためにもう一人は犠牲にならなければなるまい。
 振り向いた間羽芭の目には、すぐそこまで追いついてきていた耳丸と岩城の従者の男の姿が映った。
 胸の中に隠し持っていた短剣を取り出そうとした時には、耳丸が目の前に迫っていた。耳丸が手に持っていた剣を鞘から抜いて、振りかぶるのが目に入った。この小さな短剣でどれだけ防げるかわからないが、やるしかなかった。振り下りてくる剣を短い剣で受けたが、押し込まれた。耳丸という男は大きくて力があり、なにしろ剣の腕があった。押し込まれるのを何とか保っているが、その力は歴然で力いっぱい跳ね除けた後の動作は耳丸の方が早かった。
 耳丸は振り下ろした剣を受けられたと思った次には、素早く腕を引いてすぐに突きを繰り出した。
 短剣では対処ができず、間羽芭は身を引いたが突き出された剣をよけきることはできなかった。
 串刺しになった現実を受け入れるのに、時間がかかった。
 口の中から血が出るのを抑えきれず、吐き出した。その血は、剣を突き出した耳丸の体を汚した。しかし、間羽芭が耳丸をみると、その顔は笑っていた。
 ああ、自分は死ぬのだと思ったが、その後はもう意識はなかった。
 腹に剣を突き立てたまま、後ろに倒れた間羽芭を耳丸は見下ろした。岩城の邸に忍び込んだ悪いネズミを退治したまでで、憐れみも悲しみもわいてはこない。
「邸の中に運ぼう。大きな男だから我々だけでは難しい。人を呼んできてくれ」
 男は頷いて急いで邸の中に行くため、長い塀に沿って走った。
 耳丸は間羽芭の顔を見ようと、横に向いている方に回り込んでその顔を見た。目は半開きで、光を失っている。そのまま立って見ていると、いきなり、投げ出されたままの間羽芭の手が動いて、耳丸の足首をつかんだ。耳丸は驚きとともに素早く動いて突きさした剣の柄を握って、右に反転させて再び深く体の奥に食い込ませた。低くうなって、耳丸の足首をつかんだ間羽芭の手から力は抜けた。

 礼は屋根のついた廊下を歩いて、湯屋へと入った。侍女の縫が一緒で、焚いた湯を単の上からかけて血と汗を落とした。
 死んでしまった萩の体を戸板に乗せる様子を、背中で感じながら礼は庭を歩いて普段自分が使用している居間のほうへと向かった。付き添ってくれる渡道に問いかけた。
「子供達は大丈夫かしら?他にも、邸の者で傷ついた者はいる?……何てことだろう。……ああ、萩を殺してしまった」
 礼は萩の傷口を押さえて血の付いた両手で顔を覆った。
「礼様、実津瀬様も蓮様もご無事ですよ。邸の者は、萩は可哀想なことをしましたが、他に客人の警護をした者が怪我をしただけです。皆、無事です」
 居間の前の階の下にたどり着くと、縫が待っていて渡道から縫へと礼は引き渡されるような格好になった。その時には縫が火を焚いて湯を沸かすように湯屋に伝えていた。
 湯を掛けた縫は礼の肩が小刻みに震えているのをみた。
「礼様、すぐに湯を沸かすように命じましたのに、まだ十分に温まっていませんでしたわね」
 縫は桶に入れた湯の中に自分の手を突っ込んだ。湯は冷たいわけではなく、むしろちょうどよく温まっていた。
「礼様」
 礼は肩を震わせて、泣いていた。
「……泣いていてはいけませんわ。あなた様はこれから、宴に行かなければなりませんのに」
 縫は礼の手を取って、前に伸ばすように促しそこへ桶から柄杓で湯を取って流した。血の色はとれても、隅々まで縫は指を滑らせて礼の腕、手の平、手の甲、指先とくまなく洗った。
「もう泣き止んで。そんなに泣いてしまっては目が腫れてしまいます。あなた様の溌溂とした表情を好まれている実言様も残念がられるでしょう」
 礼は何度も嗚咽を呑み込み、肩を上下させた。
「萩は可哀想なことをしましたが、あの子ためにも礼様は負けてはいけませんわ。どうか、あの子を救うためにも岩城のためにもうひと頑張りしませんと」
 縫の言葉に、礼は縫の体に抱き着いた。自分が濡れることもかまわず、縫は礼を抱き返した。何が起きているのか、縫ははっきりとわかっていないが、おおよその想像は着いていた。
「あの子の死を無駄にしてはいけません。どうか、この試練に立ち向かって、あの子の無念を晴らしてくださいまし」
 礼にそう問いかけると、礼は顔を上げた、縫には左目のない顔を晒すことを厭わない礼は、眼帯を取られて、ちょうどよい温かな湯で顔を洗われながら小さく頷いた。
「そうであるなら、もう泣いてはいられませんわ。どうか泣き止んで」
 縫は礼の手を膝の上で握り締めた。

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