Infinity 第三部 Waiting All Night69

小説 Waiting All Night

 日良居は案内された部屋で寛いでいたが、心は穏やかではなかった。腰に巻いた、正真正銘の渡すべき物を渡したその達成感はあったが、そのままこの邸に滞在していいものかと迷いがあった。それは、哀羅王子の邸にいる長年連れ添った妻が具合を悪そうにしていたその様子を思い出して、心配になっていたからだ。一日二日離れていてもいいが、それが長くなるようであれば、妻が不安がるのではないかと思った。
 人の影が差して日良居は顔を上げた。岩城の舎人と侍女の二人が入ってきた。侍女の手には膳があった。
「お疲れになったでしょう。我が主人にもあなた様が無事に哀羅王子様からの御届け物を届けていただいたことを伝えました。喜び、とても感謝していました。どうぞ、暫くの間はこの邸に滞在し、お寛ぎください。食事を持ってきましたので、どうぞ」
 そう言った舎人は後ろに顔を向けて、侍女を促した。侍女は前に進み出て、日良居の前に膳を置いた。舎人が部屋から下がると、侍女は徳利を持って杯を持つように促した。日良居はおずおずと杯を持ち上げると、侍女はそこに少し濁った液体を注いだ。「どうぞ」と中年の侍女は笑いかける。杯に口をつけると酒だった。若い侍女がもう一つ膳を持ってきて、二つの膳が並んだ。十の皿の上に、魚、貝、芋や青菜など、様々な料理が並んでいる。杯に二回ほど注いでもらうと、侍女たちに下がってもらった。
 豪華な料理、うまい酒。権勢を誇る岩城一族の家であれば、当たり前のことであるが、自分が仕える哀羅王子の邸では考えられないことだった。皆が肩を寄せ合って清貧を忍び、この受難に耐えている。自分ひとりがこの贅沢を享受するのははばかられた。もし、享受するなら妻と一緒が良かった。
 日良居は全ての食事を食べることはできず、半分は残してしまった。食べ終わると手持無沙汰で座っていた。
 この邸にどれくらい滞在しておく必要はあるのだろうか。このような老爺が何も知らず、ただ物を運んできたのだ。それが終わった後は、もう何も役に立たない者である。
 日良居は哀羅王子の邸に帰りたいと思った。王子に、自分が役目を全うしたことを告げて、病妻の傍でこまごまと世話を焼いてやりたかった。
 陽は真上から西へと少し下りて来たところだ。これ以上陽が落ちてしまっては帰りが遅くなる。暗い中では来た道をたどる自信がなかったし、道を尋ねるにも往来の人がいなくなってしまう。
 日良居は立ち上がった。誰かいれば、「私は主人の邸に戻ります」と一言言いたかったが、誰もいない。そのまま、部屋の前の階を下りて、近くの門に向かった。日良居は、門の内に立つ番人に近寄った。
「私は哀羅王子様の邸の者で、日良居と言います。渡道様にお伝えください。私は、邸に戻りますと」
 番人は急に知らない老爺が話しかけて来たので、話がよく呑み込めなかった。もう一人の番人と目を見合わせたが、もう一人も首を振ってわからないと言っている。戸惑っている番人を置いて、日良居は門の外に出た。
 哀羅王子から託されたものは、岩城に渡した。日良居は軽やかな足取りで来た道を帰った。来るときに岩城の護衛とともに歩いた道は、ついて行くのに精一杯だったが意外に覚えていた。大田輪王の邸に寄る必要もないので、大路に出てしばらく行くと四条へと入った。
 日良居は日が落ちる前に邸に戻れたことを喜んだ。もう少しで、我が主人の、我が妻の住まう邸へと帰られる。見慣れた邸の門が見えた時に後ろから声をかけられた。
「もし……もし……」
 日良居はその弱弱しい声に、自分も弱い立場の老人であるのに心配になって振り向いた。振り向いたら日良居の前には背の高い影が立った。あんな弱弱しい声を出す者には見えなかった。それでも、何か用か、と顔を上げた。
「許せよ」
 しゃがれた声が日良居の耳元でそう言った。それと同時に日良居は動けなくなった。
 日良居の前に立った男が、日良居の脇腹に短剣を突き立てたからだ。
「…あっ……」
 日良居は言葉にならない声を発して、ずるずると脱力した。
 
 哀羅王子の邸の門の前に一人の老人が打ち捨てられるように置かれた。門に何かがぶつかる音と低いうめき声に、門の近くにいた従者は何事かと外に出て、日良居を見つけた。
「どうした!」
 従者は老爺を抱き上げた。上向きにした老爺の顔は真っ白で、腹の周りは真っ赤に濡れていて、もう虫の息である。従者は門の内に向かって大声で呼びかけて、気づいたもう一人と両脇と足を抱えて邸の中に運んだ。
「王子!王子!」
 庭からけたたましい声で呼ばれた。
 哀羅王子は月の宴に向かう時刻で宴の衣装の着替えをするところだった。
 ゆっくりと簀子縁に出て、庭を見た。舎人が走り寄ってくる。その後ろには、何かを抱えた二人の男がついてくる。
「なんだ?」
「日良居が……」
「!」
 哀羅王子は階を急いで下りた。
「日良居!……なぜ?」
 哀羅王子は前にいる腹を真っ赤に染めて、絶命する寸前の日良居に、愕然とした。階の下に横たえさせた日良居の傍らに跪いた。
「託したものはどうした?岩城に渡せたのか?」
 日良居は哀羅王子の問いかけに、目を見開いて大きく頷いた。
「では、なぜ戻ってきた?何ゆえに、戻ってきたのだ……岩城に匿ってもらうはずだぞ」
 哀羅王子は血濡れた日良居の手を握って問いかけた。しかし、日良居にその問いに答えるまでの力は残っていなかった。
「日良居!」
 哀羅王子が見つめる中、日良居のその命は終わった。
 暫く哀羅王子は日良居の手を握ったまま、じっと座っている。
 岩城に例の物を渡せたのは、よかった。しかし、岩城の邸にたどり着いた日良居がどのような理由かわからないが戻って来て、途中でこうして殺されてしまうのは、春日王子陣営が全てを知ったことによる報復だろう。自分が仕掛けたことではあるが、このように身内に死人を出してしまった。もう、水面下での争いの火ぶたは切られたのだ。
 哀羅王子は静かに言った。
「丁重に弔ってくれ。私のために命を落とした者だ」
 頬に一筋の涙が流れた。ゆっくりと日良居の遺体は運ばれた。
「お手が汚れてしまいました。洗い流さなければ。衣装も着替えませんと」
 哀羅王子は頷いたが、黙って跪いたままだ。もう遠くに行ってしまった日良居のことを思いながら哀羅王子は、月の宴のことを考えた。
 反旗を翻した哀羅王子は、改めて覚悟を決めた。
 長年、この邸に仕えてくれた者の命を犠牲にしてまでこの家を再び建て直すのだ。
「着替えを手伝ってくれ。急がなければ」
 月の宴に行けば、岩城と通じたという哀羅王子の裏切りを知った春日王子に報復されるかもしれない。心を決めて臨まなくては。
 哀羅王子は立ち上がって階を上がった。

 礼は湯屋から自分の居間に戻ると、そこには義母の毬がいた。
「お母さま……」
 毬はわざわざ立ち上がって礼を迎えた。
「実津瀬や蓮のところに行ってみたら、二人ともよく眠っていた。心配ないわ」
 礼は頷いて、義母に手を取られながら部屋の中央に進んだ。
「これから、宴だろう。最高に美しい姿にならなければいけない。実言も、お前の美しい姿を楽しみにしているだろうから、私が手伝うわ。腕によりをかけてね」
 毬に言われて、礼は少し微笑んだ。
 部屋の真ん中に立つと、毬が選んだ衣装が箱の中に入っていて、澪と二人で礼に着付けてくれた。一番内側に淡い黄緑色の単を着てその上に濃い緑の上着を着た。背子は、薄い黄色にした。肩から胸へ、背中へと細かな文様の刺繍が入った豪華なものだった。裳は群青の生地に朱色の横糸を入れて、濃い青の中に朱がちらと見える美しいものだった。最後に、朱と黄色で文様を浮かび上がらせた帯を締めた。
 礼の左目を隠す眼帯を毬は外すと、衣装箱の中から新しい眼帯を出した。
「お前のその眼帯は、お前の顔の一部だから。お前を美しく見せるために、私もいろいろと考えたわよ」
 毬は礼の顔に裳と同じ群青の眼帯を付けて、手早く化粧を始めた。右目を濃い黒色で縁取りその大きな目を強調した。扇情するような赤い色を目元に引いて、伏し目からぱっと上目遣いに目を見開くと黒と朱が映えて礼の大きな瞳が向かい合った者の目に飛び込んでくる。
「美しいわ」
 毬は真っ赤な紅を礼の唇に乗せた後、呟くように言った。
 それから、小さな箱を開けて翡翠の首飾りや金の腕輪、瑪瑙の耳飾りを次々に礼に取り付けた。それは、夫の岩城園栄から毬への贈り物だった。
「実言もいつか、これ以上の美しい宝石をお前に贈るだろう。それまで私のお古で申し訳ないが、お前にはこの碧がよく似合うから」
 毬の言葉に、こまごまと世話をしている澪も毬の後ろに控えて大きく頷いた。
「負けられない。まだ負けてはだめよ。命を落とした者がお前に近しい者であるなら、なおさらお前はその者の命を無駄にしてはいけない。お前にできることを懸命にしなければ。私は、お前を支えるよ」
 礼はその言葉を聞いて、何度も頷いた後に。
「お母さま。私は萩の命を無駄にはしません。お母さまの気持ちが私に強い決意をくださいました」
 政争など遠い世界と思っていたが、岩城の妻になったらそうとは言えないのだ。
 萩のためにも、今、実言がなそうとしていることを遂げなくてはいけない。自分に何ができるかわからないが、まずは月の宴に行かなくては。そこに行けば自ずと政争の目の中に入って行くことになるかもしれないが、逃げるわけにはいかない。
「今のお前はいい顔してるよ、礼。負けるでないよ」
 毬の言葉に礼は頷いた。さらに礼を奮い立たるように毬に手を握られた。礼は毬の目を真っすぐに見つめた。別の侍女が簀子縁から庇の間に来て澪に耳打ちした。澪はよきところで、口を開いた。
「車の用意ができましたわ」
 毬は礼を見返して勇気づけるように肩をゆすった。礼は静かに立ち上がって車の用意がしてある部屋へと向かった。

 実言は、一度宮廷に行き、そこから月の宴の警備に着く者たちと一緒に宴の会場となる翔丘殿に向かった。翔丘殿に着いたところで、邸の従者である淡谷(あわや)が実言に近づいてきた。実言はその輪から離れて淡谷と共に庭の方へと歩いた。そこで、哀羅王子からの届け物を無事に受け取ったと知らされた。そして、間羽芭が春日王子の間者であったこと、萩を殺して逃げようとしたので殺したことも伝えれた。
「そう。他に誰が傷ついた者はいるの?」
「一人傷を負ったものがいますが、奥様、お子様は皆さまご無事でございます」
「そう。しかし……礼は傷ついているだろうな。宴に来ないと言っている?」
「いいえ、毬様が支度を手伝われるようで、いらっしゃるはずです」
「母上が?……まあ、こういうことには燃える人だから。しかし、ありがたいね。わかった、お前はここに待機しておくれ。今夜は何が起こるかわからないからね」
 実言は言うと淡谷から離れて翔丘殿の邸の中へと入って行った。

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