Infinity 第三部 Waiting All Night79

小説 Waiting All Night

 月の宴から三日目。荒益は、少し遅くに宮廷へと上がった。
 平和ないつも通りの日常だと、都に住まう大多数は思っている。しかし、一歩宮廷の中に入ると、そこここで役人たちはくっつきそうなほど顔を寄せ合ってひそひそと話している。その光景は一組ではなく、長い回廊の中でいくつかの柱の陰に見られる。回廊を歩く者が近づいてくると何事もないように二人は離れて行く。歩いてきた者は、怪訝な顔して通り過ぎるが、不穏な空気を感じ取った。
 荒益も、宮廷内のその空気を感じた。
 何をあの者たちは話しているのか。荒益は、顔にその気持ちを出さないように、中務省の扉を押して入った。
 すると、すぐに荒益に近づいてくる者がいた。橘定彬である。
「おやおや」
 険しい顔をして近づいてくる定彬に、荒益は軽いおどけたような声で挨拶をした。荒益は入ってきたばかりだというのに、定彬は無言のまま荒益の袖を引っ張って、扉の方へ歩いて行く。引っ張られた勢いで荒益の体は扉の方へ反転して、黙って定彬の後ろをついて棟を出た。
 定彬は渡り廊下を外れて、庭の樹の陰に入ろうとする。宮廷に入ってから見てきた二人組がひそひそと話して、人に見咎められると目を逸らして別れていくのとまるで同じようなことを今から定彬とすることになりそうだった。
「どうしたのだ。何の話が……」
「宮廷の門を入って、ここまで何も思わずに来たのか?」
「何も思わずって……」
「皆がひそひそと話している姿を見ただろう」
 荒益は頷いた。
 定彬は一度、渡り廊下の方を振り返り誰もいないのを確かめて。
「……皆が話しているのは春日王子のことだ。月の宴の準備の時の久留麻呂の話や、宴が終わってから翔丘殿を歩き回っておられた様子から、どうも謀反の企てがあるのではないかと、噂が広まっている」
 荒益は、全く予想していなかったわけではないが、はっきりと言葉にして聞くとそれは現実味を帯びたように感じた。
「誰がそんなことを言い出したのかわからないが、今では多くの者がそのことを話している。その内、都中にこの噂が流れるだろ。そうなればそのうち大王のお耳にも入ってしまうかもしれない」
 荒益は頷いて聞いている。
「……と父上が言っていた」
 とまるで当事者のような口ぶりだったが、父親の橘殿から聞いた話をもっともなように話しただけだった。
「今、父上も宮廷のどこかで話しているかもしれない。不穏なことは回避したいからな。どうにか戦にならないようにできないかと思案している」
「……春日王子は……」
「春日王子は、月の宴が終わってから佐保藁のお邸に籠られたままだというから、宮廷の様子を直接見聞きはされていないだろうが、すでに王子に近しい方がお耳に入れているはずだ」
 定彬は幹に背中を預けて、腕を組み考え込んだような顔をして話す。
「春日王子がこの噂のことを知れば、すぐに動かれるはずだ。あらぬ噂が真実にように語られては、王子も迷惑な話と笑ってもおられまい。早めに火消しに回られるだろうと思う」
 それでこの騒動が収まればいいと定彬は思った。
 荒益は、定彬の前に立って話を聞いているが、定彬とは違う思いだった。
 臣下の中でも、定彬の父親などは穏健派である。こんな謀反なんてことは起こってほしくないはずだ。あれやこれやと火消しを考えておられずはず。
 それには、春日王子が宮廷に現れて、自分の思ってもいないことが噂としてまことしやかに話されているのは遺憾であると表明し、大王の耳に入る前に火消しをすることが大切である。
 しかし、春日王子がそれをするだろうか。皆がそれを期待してるところで、春日王子は皆の期待に応えるだろうか。
 荒益には、春日王子が兄に従順な弟には見えなかった。
 そのそばに寄ろうものなら匂い立つ強烈な野心を隠さない王子。
 荒益は数度すれ違う機会があったが、その雄々しい姿からは、鼻につく野心を感じた。
 そして、穏健派の反対にいる春日王子の野心が鼻について仕方がない、春日王子を排除したい勢力には、この噂を利用したくて仕方がないはずだ。
 荒益は、意外にも噂を流しているのは岩城一族ではないかと思った。岩城が直接とまではいわないまでも、その勢力が人を使って言わせているのではないか。
 岩城は大后の後ろ盾を務めている。大王の御代の繁栄と速やかな我が子にその御位が継承されることを望まれている大后の意向に沿って、目障りな春日王子を葬るよい機会ととらえているはずだ。
 そうであるなら、春日王子も剣を持って立ち上がる機会と悟り、大王と春日王子の二つの勢力が激突することもあり得る。そうなれば誰もが、傍観者ではいられない。自らの立場を表明し、どちらかにつかなければならなくなる。
 椎葉荒益として誰を支持するのか、椎葉家として誰の陣営につくのか、決めなくてはいけない。
 荒益の脳裏に妻の顔が浮かんだ。美しい妻と心の隔たりができて数年。冷めきった仲と思っていたが、お互いの心が再び通い合ったことが嬉しかった。荒益としては、一時たりとも妻を思わないことはなかったが、他にも妻を持ったことが、その思いの濃さを幾分か薄めてしまったのかもしれない。しかし、ここにきてもう一度お互いを思いやる気持ちを確認できた。愛を取り戻しつつあるのだ。
 しかし、妻が荒益に隠れて行った不貞は、荒益が許しても、それだけで終わることができるだろうか。
 大王と春日王子の対立に椎葉家として何かしら影響を受けないだろうか。
 そして、妻を守りたい。
 荒益は、そんなことを考えていた。
「……もし、戦なんてことになったら、どうなるだろう。馬や兵士などどれだけ集められるか」
 定彬の言葉に荒益は返事をした。
「……大王には岩城殿がつくだろうから、岩城殿のお力で人馬を集めることになるのではないか。宮廷の兵力が二分することだって考えられる」
「戦など嫌だ。避けるべきことだろう」
 父親譲りの穏健派はそう言って悲しそうに笑った。
「お前は、もう帰るところかい?」
「荒益を待っていたのだ。こんなこと、誰かに話さずにおられないからな。ああ、すっきりした」
 定彬は言って、胸を撫で下ろした。荒益は独り言のように言った。
「皆は、春日王子の様子を窺っているのかな。噂を否定されることを」
「それを皆、待っているはずだ。誰も無用な戦などしたくはないからな」
「私も、穏便に事が済むことを望むよ。今は国が安定、充実している。他国との関係も良好だ。国内の争いで国力を落とすことはいいとは思わない。他国に隙を見せるのはよくないことだ」
 定彬は荒益に話したことで満足したのか、それ以上のことは言わず、二人は回廊へと戻って行った。
「何かあれば使いでも走らせよう」
 定彬は言って、宮廷を出る門へと歩いて行く。荒益は、今度こそは仕事をするために棟へと戻って行った。
 扉を押して部屋の中に入ると、皆が忙しそうに働いている。日常の風景であるが、心の中では宮廷に広がる噂に興味津々であったり、不安に思ったりしているだろう。
 先ほどの定彬の話しでは、月の宴以降、岩城園栄も宮廷には出仕していないという。そして、実言も宮廷には出仕していない。
 きっと岩城側も何か考えているから、表に出てこないのだろう。
 実言は自邸に引っ込んでいるのだろうか。そして今、実言は何を考えているだろうか。
 荒益は、自分の机の前を通り過ぎて歩いていることに気付き、何もなかったように後ろに下がって机についた。

 大后は一人で執務の間に座り、積まれた巻物を手に取った。その巻物は大王が決裁する書類の山である。大王の体調がすぐれないため、代わりに大后が見ているのだった。
 次々に書類に目を通していると、庇の間に人影が差した。
「誰?」
「多多謝(たたしゃ)でございます」
 と大后の従者が現れた。
「何の用?」
「柿田様がいらっしゃいました」
 柿田というのは、岩城園栄陣営の男である。園栄が表に出ない代わりに宮廷と岩城本家とのやり取りを取り仕切っている男であった。
「で、なんと」
「岩城様の方は準備を進めているそうです。どうか、大王にはいらぬお話しをお耳に入れぬようにとのことです」
「そう。わかった、と伝えておくれ」
「時は満ちつつあります」
「わかっている」
 大王はなぜか異母弟を愛していた。自分を補佐してくれると信じており、自分の地位を、命を奪おうと思っているとは夢にも思っていなかった。
 だから今都を席捲しつつある春日王子の謀反の噂を、王宮の女官たちが興味本位に口にしないように厳しく禁じた。大王の耳に入れば、弟を呼んで問いただし、嘘だと言わせてしまうだろう。
 果たしてそれはいいことだろうか。いつか、時が満ちれば、あの男はその刃を兄や甥に向けるだろう。今はまだその時でないから、どのような態度を取るべきか考えているのだ。軍事力を蓄えて、その時が来れば必ず仕掛けてくる。だから、早いうちに危険の芽を摘むべきなのだ。
 大后の目が厳しく光っているので、王宮の女官たちは口数少なく過ごしている。
「宮廷の方はどうなの?皆、あの噂をどのくらい信じているのだろうか?」
「宮廷は政争に鈍感な官僚から下の役人たちまでもがひそひそと怖いものを見るように話しております。この一日でだいぶ浸透したように思います」
「そう。このまま噂を絶やさないでおくれよ。時は満ちつつあるのだから」
「はい」
 大后の言葉に返事をし、多多謝は下がった。
 再び大后は巻物を手に取り、目を落としたが読む気にはならなかった。
 大后の心は決まっていた。春日王子にとっては今ではないだろうが、大后にとっては今が厄介な春日王子を葬る絶好の機会だった。この作り出したうねりに乗って、大王の、いや息子の香奈益王子のために最後までやり通すのだ。

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