Infinity 第三部 Waiting All Night81

小説 Waiting All Night

 春日王子は階の一番上に立って空を見上げた。
 西に陽が沈みかけ、東の空にはうっすらと月の姿が見えた。
 もう都の上空には春日王子が謀反を起こすという空気が渦巻いている。この空気を無力にするには、春日王子がその意思はないことを示すべきだ。しかし、今となっては、哀羅王子に預けていた連判状が春日王子を追い詰めていくのだった。
 あれの打ち消しをどうしたらできるだろう。いや、あれを大王の前に出されたら、もうどうにもできない。
 岩城はその連判状とともに哀羅を大王の前に連れ出して、謝らせるはずだ。それが、哀羅を救う方法だから。
そのためには、今いる岩城の別邸を出て王宮に行かなくてはいけない。
 その時を狙って哀羅を亡き者にしよう。そうすれば岩城の目的の一つは挫く。何もしないより、裏切りとはどのような代償を払うものかを思い知らせてやってから謀反人になっても遅くない。どんなことをしても哀羅を殺さなければ……。
 その後は、異母兄弟の兄を、自分より早く生まれただけで今の地位を享受している無能な兄を成敗しよう。
 筑紫や鈴鹿にある領地に人を集めて、そこにある馬、食料を活用して不利な戦であろうとも、自分の生まれ持った機知と才覚、これまでの経験を持って、勝機を手繰り寄せる。
 自分の描く美しい豊かな国を実現することが、人民の幸せになると信じる。
 春日王子は夕暮れ時の蜻蛉が飛ぶ庭を見つめながら自分の考えに耽った。
 ああ、この長年くすぶっていた思いが成就するのか、それとも失敗に終わるのか、それは死力を尽くしてみないとわからないが、その間自分の傍らにいて欲しいと浮かぶ女人は正式な妻ではなく、世を忍んで逢瀬を重ねた愛人の顔だった。
 あの女(ひと)は何をしているだろうか。
 都の人々は下級役人から邸に雇われている下働きやら子守り、市に立つ農民たちまでが小さな取っ掛かりでも何か起これば、都を覆う不穏な空気が震えて共鳴し、戦が起こるぞと見えない鐘を鳴らし始めると感じている。
 あの女も同じように感じているだろうか。政に関心はないだろうが、無関係ではいられない。後宮に入った義姉の世話を焼くためにたびたび後宮に来ているのだから。
 あの女の夫はどの勢力だったか。岩城とは一線を画していたから、大王べったりではないが、反大王でもない。現大王体制下での権力闘争を考えているだろう。現体制がひっくり返ることを望んでいる勢力ではない。こちらの陣営に引き入れておけばよかったか。しかし、自分の妻がその陣営の首領の愛人になっていると知ったら、夫としたら耐えられたものではないだろう。
 あの女とも、もう会えなのだろうか。あの女も、この空気を感じ取ってもう金輪際と思っているだろうか。思い返しても、何十、いや何百という女を相手に一夜を供にしてきたが、どれも顔も思い出せないほど記憶の中からは消えていく。その中で強烈に春日王子の脳裏に記憶されるのはあの女だ。
 ああ、この手に抱きたい。傍に置いておくだけで安心する女人だ。
 春日王子は机に向かって、一枚の手紙を書いた。
「おい!誰か!誰かおらぬか!」
 舎人が一人静かに庇の間に現れた。
「この手紙を届けてくれ。内密にだ」
 上質なその紙を丸めてその上から赤い紐で括って渡した。
「朔という女人だ。確実に渡してくれ」
 

 荒益は一人、部屋の中で宮廷に行く用意をしていた。
 都を覆う噂が宮廷内ではより真実味を帯びてきた。岩城に今夜動きがあるらしいというのだ。それによって、春日王子も黙っていないだろうという。
 今朝、橘定彬と話したことは、昼間には急展開の新情報が入って来たのだった。定彬が父親の情報と言って、人を荒益の邸に走らせて教えてくれた。
 今夜にも何かが起こるのではないかと内大臣などは考えて、宮廷に人手を増やしたがった。荒益が行く必要はないが、願って宿直にいくことにした。
 荒益は宮廷に行く前に舎人に邸のことをよくよく頼んだ。門は固く閉ざして、決して開けないように。一晩中誰かが起きて番をし、外の様子に注意しろと言いつけた。
 そして、荒益は朔の住む離れに続く渡り廊下を渡った。
「朔様」
 いつも世話をする侍女が衝立の中にいる朔に声をかけた時には、荒益はすでに妻戸から庇の間に入っていた。
 肘掛けに持たれかかっただらしのない姿で、時折膝に置いた縫物に針を通していた朔は、体を起こした。
「朔、いるのかい?」
 夫の声に、朔は小さな声で「はい」と返事をした。
「今から、宮廷に行ってくるよ」
 衝立の上から顔をのぞかせるようにして朔に声をかけた。
 朔は慌てて立ち上がろうとしたところを、荒益が衝立を越えて朔の領域へと入ってきた。
「……気分はどうだい?」
 夫の優しい言葉に朔は恐縮した。
「ええ、落ち着いているわ」
 荒益は円座を用意する間もなく、敷き物の上に胡坐をかいて朔の前に座った。
「顔色も少しは良くなったかな?」
 夕暮れ時の暗くなった部屋の中では、正確に妻の顔色を知ることはできなかった。それでも、伏し目がちの妻が「ええ」と返事をして、黒い瞳をゆっくりと上げて自分を見る顔は、それは暗闇の中で光る一輪の白い花のような可憐さと美しさを見せた。
「朔……今夜は恐ろしいことが起こるかもしれない。だから早くお休み。邸から誰も出してはいけないよ。絶対に、絶対にだ。約束だよ」
 朔は夫の言葉に頷いて、もう一度顔を上げた。深い深い奥底を覗くように夫の目は、朔の心の中をも見ようとしているようだった。
「伊緒理の体もだいぶ良くなった。近々、あの子をこの邸に呼び戻すことにしよう。早くお前と伊緒理を会わせてやりたい」
 朔は再び頷いた。自然と朔に近寄った荒益は、朔の背に手を回し抱き締めた。
「美しい妻よ。私はお前の優しさに再び触れたい。今夜が過ぎれば、それも叶うことだろう」
 朔は、夫が言っていることの真意がすぐわからなかった。夫は自分の不貞をさらに許すと言っているように思えた。
 しかし、朔はその返事は言葉にはならず、こっくりと深く頷いた。その子供っぽいしぐさに、荒益は笑顔になって朔を抱きなおして、耳元で。
「行ってくるよ。邸を頼む」
 と言って、立ち上がった。衝立の向こうに行くときに、荒益は顔だけもう一度振り返ったので、朔は夫の顔が見えた。結婚したばかりの頃の夫の顔を見るような懐かしい気持ちにさせる表情だった。心の中で「行ってらっしゃいませ」と呟いた。
 気分がすぐれなくて、邸の奥に引き込んで暮らしている朔にも、都を覆う噂話は聞こえてきた。
 今夜、何か起こるのかしら……
 荒益は何かが起こると思っているようだけど。
 ……あの方はどうなるのだろうか……。噂通りのことを、あの方はなさるのだろうか。今までに、何度かその野心を口にされた。いつぞやは夢物語のように、褥の上で聞いたこともあった。劣勢と思われるこの状況で、決起されるのだろうか。
 朔は頬杖をついて物思いに耽っていると、侍女が慌てて庇の間に駆け込んできた。
「朔様」
 朔は顔を上げたが、侍女はどう言っていいか迷うように庭の方へ目をやり、再び朔に戻して下を向いた。
「どうしたの?」
 立ち上がるのも億劫で、朔は声をかけると、侍女は衝立を越えて朔の傍に来ると耳元に手を置いて口を寄せた。
 侍女から話された言葉に、朔は驚いて目を見張った。
「本当?」
 侍女の顔を見て問うた朔に、侍女も当惑しきった顔で頷いた。
「……受けとって帰っていただいて」
「朔様に直に渡すように言われていると言って、その場を動こうとしません」
「こんな時に……」
 こんな時だからこそとは、この時の朔にはわからなかった。
「庭まで連れてきて。階の上で会うわ」
 囁き声で言うと、侍女は頷いて部屋を出て行った。しばらくすると、同じ侍女が現れて、頷く。気怠い体を起こして、朔は簀子縁に出て、階の上に立った。
「私が朔だけど、何の御用かしら?」
 階の下に跪いた男が顔を上げた。まだ若い男は、残陽の薄暗い中で目を細めて階上の女人を見ている。
「私は、春日王子様の遣いの者です。これを必ずお渡しするように仰せつかって参りました。どうぞ、お受け取りください」
 この時初めて春日王子の遣いの男は懐から丸めて筒にし、赤い紐を掛けた手紙を出した。腕を高く上げて、受けとってもらうのを待っている。
 その姿を眺めている朔を後ろに控えていた侍女は察して、素早く階を下りその手紙を手に取った。その時は、使いの男も手を離して侍女に託した。侍女は階を駆け上がり、朔の前に跪いて差し出した。朔はその美しい紐に春日王子を感じながら手の中に取った。
「王子様に受け取ったことをお伝えして。早くお帰りになって」
 朔はそう言って、振り返えると部屋の中に戻って行った。
 侍女は朔が庇の間に入って行くのを確認してから、階の下に目をやると春日王子の使いの姿はもうなかった。
部屋の中に座った朔は、肘掛けに持たれたまま手の中に握った手紙をぼんやりと見ていた。
 こんな時に手紙を送ってくるなんて、どういうことだろう。
 朔は何が書いてあるのか、怖くてすぐに紐と解いて開く気にはなれなかった。しかし、このまま打ち捨てておくこともできずに、意を決して紐に手をかけた。少し引いただけで、紐は意思を持ったように自ら解けて巻かれた紙は広がった。目に入る手蹟は、間違いなく春日王子のものである。
 朔は袖を口元に当てて、その文字を追った。読み終わるとその袖をぐっと噛んで、声が出るのを抑えた。
 朔、私の佐保藁にある邸にすぐに来ておくれ。そうでなければ、お前の一族、椎葉家は大変なことになる。私とお前の夫が繋がっていることが分かるものが私の手元にある。お前が来るならそのものをお前に渡そう。
 ……とあった。
 夫が春日王子と繋がっていることはない。そんなことがあったら、王子は必ず朔に話し、妻を寝取られた夫を嗤うだろうから。しかし、朔自身が春日王子と通じたことで、何か椎名家の、夫である荒益に不利になるような証拠を残してしまっているのか。
 朔は心の臓を鷲掴みされる思いだ。手紙は手から落ちて転がり、肘掛けに体を乗せて必死に崩れ落ちるのを耐える。
 情勢によって夫が春日王子の陣営であると決めつけられたら、どうなるのだろうか。場合によっては反逆の片棒を担いだ一族として、断罪されるだろうか。そうなれば夫だけでなく、息子たち、伊緒理も孝弥も……。
 今夜は邸から出るなと、荒益は固く言い置いて宿直に行った。理由はどうであれ、夫の言いつけを破るなんてできない。互いの心が再び寄り添い、合わさろうと努力しているときに裏切ることなどできない。しかし、これが一番大事な夫や子供達の行く末に関わることなら、どうだろうか。抜け目のない春日王子は、朔が知らないところで何かしらのものを押さえていたのかもしれない。
 私が春日王子の邸へ行けば、王子は許してくれるのだろうか。黙ってそのものを手渡し、椎葉の邸に帰してくれるだろうか。
 迷っていても仕方ない。躊躇していて、取り返しのつかないことになったらとんでもないことだ。自分の行く末など、考える必要はない身だ。この身は近いうちに滅びるしかない。それまでに自分が蒔いた災いを、始末しなくてはいけない。愛する夫や二人の子供たちのためにも、そうしなければ。長く会えていない伊緒理にも会わなければならない。
「誰か!誰かおらぬか」
 朔は声を張って言った。春日王子の遣いを取り次いだ侍女が控えめに庇の間に現れた。
「車を用意しておくれ。出掛けたいところがある」
「朔様……今夜、旦那様は邸から出るなと仰せでしたが」
「まだ陽は沈み切っておらぬ。用が済めばすぐに戻るから。車は小さな質素な車にしておくれ。供も最低限でいいから早く!」
 侍女は朔の鬼気迫る口調に、それ以上の反論はできず、すぐに用意してまいりますと言って、部屋を下がった。

コメント