Infinity 第三部 Waiting All Night82

小説 Waiting All Night

 実言が空を睨みつけて念じたことが功を奏したのか、戌刻(午後八時)には雲が出て来た。
「月が隠れます」
 実言の代わりに、少し後ろで一緒に空を見上げていた安和也が言った。
「そうだな。願った通りになった」
 実言は目を細めた。
「王子に準備をしてもらおう。それができたら、出発だ。邸の者たちにも伝えてくれ」
 安和也が哀羅王子の部屋に入り、実言が続いて几帳の陰から哀羅王子の前に進み出た。
「時が満ちた、ということかな?」
 実言が言葉を発する前に、哀羅王子から話し始めた。
「その通りです。いい具合に月が隠れ始めました。皆に用意をさせています。王子も準備を始めてください」
 実言は言うと、自身の用意のために部屋を下がった。
 哀羅王子の出発の時がとうとう来たかと思うと、王子の傍にいた礼の顔は曇った。先ほどまで横になっていた王子は簀子縁を歩く小さな音を感じ取って自ら起き上がったのだった。
 その時が来たと哀羅王子も苦しい体に覚悟を持っている。
 礼の眉がきゅっとひそまって、悲しそうな顔をした。その表情をすぐに感じ取った哀羅王子は、礼に顔を向けて微笑んだ。
「私の心配は要らないよ。お前の夫は、私を殺そうとしてるわけではないのだから。むしろ逆だよ。私を生かしてくれるはずだ」
 思いの外優しい声音で哀羅王子は礼に話した。礼は泣き顔になりそうだった。
「まあ、王子様。もちろん、夫はあなた様のためなら、何でもするはずです。でも、あなた様の体への負担は大きく、私は医者として心配なのです」
「……心配には及ばないよ。実言と二人でやり遂げてみせるさ」
 哀羅王子は褥から下りた。礼は王子の矢を受けた腕の傷口を押えていた布を取って、この別邸での最後の手当てをする。切り裂かれた腕の肉がまだ生々しく開いているところに、礼が薬を塗った葉を置いて、再び白布を丁寧に巻いた後、舎人と侍女が衣装の着付けを手伝った。
 夜の暗闇に紛れるような深い群青の衣装を着た王子は、少し首が苦しそうにした。それは黒い布を首にかけて腕をつり固定できるようにしたため、首が痛いようだ。
「あまり動かしますと、傷口が広がります。どうか、動かさないようになさってくださいませ」
 礼は傷口より少し下、傷口にあたらないところに手を置いて念じるように言った。
「王子、あなた様のご幸運をお祈りしています。どうか、夫を使ってやってくださいませ。夫は喜んで、あなた様のために働くでしょう。そして、あなた様と夫が思い描いた結果になることを願っています」
 哀羅王子は頷いた。
「お前の医術のお陰で、私は今夜ここまでたどり着いたのだと思う。礼を言うよ」
 と笑った。
「しかし、お前は夫が心配だろう。私もだ。己の地位を回復したとしても、実言がいなければ私の望むものにはならない。お前の夫は言わずとも私を守ってくれるだろうが、私もお前の夫を守る。必ず、後に会わせてやるよ」
 逆に哀羅王子が傷を負っていない手で礼の肩に手を置き、言った。
「出発の時まで時間があるようですわ。まだ体を横にしておいてくださいませ」
 礼は王子を促して褥の上へ上げて、横にさせた。
 近づいた手が触れ合って、どちらからともなく手を握った。哀羅王子の手が上になって礼の指をきつく握る。礼は痛いとは思わなかった。力強く温かな王子の手は、夫と同じように安心できる人と思えた。礼も負けないように、下から王子の指先を握った。どうなるかわからない賭けに挑む不安を少しでも共有し和らげたいと心を通わせた。
 礼は離れがたかったか、立ち上がるとそれを合図と分かって哀羅王子も手の力を緩めて、自然と二人の手は離れた。
 礼は几帳の後ろに行く前にもう一度哀羅王子をみた。王子も横になった姿だが、礼を見送っていて視線を交わした。力強い眼差しにぶつかって、礼は安心した。少しの笑顔を哀羅王子に見せて几帳の裏へと消えていった。

 礼は簀子縁を歩いて自分が休んでいる部屋に戻ると、実言が装束を着替えていた。礼は静かに駆け寄って帯を取ると、実言の背後に回って、帯の端を持って実言の体の前に手を出した。実言の手が礼の手を上から握ってその手から帯の端を受け取った。それからは手早く帯を結んで、くるりと後ろの礼の方へ振り向いた。
「礼、よく王子を診てくれたね。後のことは心配することはない。私が王子をお守りするから」
 実言は礼の顔を覗き込むと、礼は下瞼に涙を溜めて落とさないように我慢していた。
「どうしたの?」
「…私にとってはあなたが一番大切よ、実言。どうか、王子をお守りすることは大切だけど、あなたの身もどうか大切にして」
 と隠すことを知らない礼の心の声を訊いて、実言は声を出さずに笑った。
「当たり前だよ。私は全てを成功させることを目指しているのだから。お前を悲しませるようなことはしないよ」
 そう言って礼の体を腕の中に囲って抱いた。礼はそっと実言の胸に顔を寄せて、その衣装に涙をしみ込ませた。
「礼、お前は私たちが出発したら、私たちの邸にお戻り。子供達がお前を恋しがっているだろう。お前にも我慢をさせたね。私たちが出て行けば、外にいる間者たちも私たちについてくるだろう。そうなれば、お前は車に乗って帰るんだ。車は用意してある。段取りもしてあるから心配なく子供達の元にお戻り。今夜は何が起こるかわからない。邸に戻ったら邸の皆を頼む。門を固く締め、今夜をやり過ごすんだ。いいね」
 実言は礼の艶やかな長い髪が流れる背中を撫でながら言った。
 礼は何度も頷いた。
 大王の後継者争いが始まろうとしている中、夫と別れて一人で邸を守るのは不安であったが、やらなくてはいけないのだ。再び岩城一族が揃い繁栄するためには。
「少しのお別れだ、礼。何度目だろうね。こうしてしばらく離れてしまうのは。今回はそれほど長くはならないはずだ」
 実言の胸から顔を上げた礼は、そういう夫の目を見つめた。
「待っていておくれ」
 実言は言って、妻が頷くのを見るともう一度強く抱いた。
「私の守り女神よ。どうか、私を守り、この目的を成就させたまえ」
 唱えるように言って、さらに一層力を込めた。礼も夫の背中に手を回し、力いっぱいに抱き着いた。
「では、行ってくるよ。お前は、ここで休んでおいで」
 実言は言うが、礼は最後まで実言の袖を掴んで離さず、簀子縁までついて行った。
「可愛らしい人。私を信じて待っていておくれ。私は全てを成し遂げるから」
 実言は笑って、礼の両頬を両手で包むと、そっと額を合わせた。そこで、礼も実言の袖をつかむ手を離して、自分の頬に置かれた夫の手の上に自分の手を乗せた。
 額を付けていると、目を細めて笑う夫の顔が鮮やかに思い浮かんだ。
「礼、邸で会おう。子供達と一緒に待っていておくれ」
 実言は礼の両頬から手を離し、身を引くと静かな優しい声で言うと、哀羅王子のいる部屋へと向かった。
 礼は、庇の間に戻ってしばらく夫の手のぬくもりの余韻に浸っていた。

 同じ色の衣装を着た男たちが十人ばかり部屋の奥に集まった。皆は円になって座り、この計画を立てた岩城実言の声を静かに聞いている。哀羅王子には、肘掛を用意してそれに体を預けながら皆の様子をみている。
「我々は二手に分かれる。私は王子とともに宮廷に向かう。もう一方は岩城本家に行ってくれ。本家には伝えてある。厳しい道程になるが、どうか頼む」
 実言が頭を下げた。皆の顔が引き締まりその時を待っている。ここにいるのは実言が一族に仕える者から集めた精鋭であった。他にも邸の庭には、哀羅王子の出発を援護する者たちが集まっている。
 この岩城別邸にいる者は女子供までやれることはやるぞとぞくぞくと庭に出てきて、その時を待っている。
 馬を三頭ずつ用意して、五人がそれぞれに別れて乗った。
 実言が乗った後、哀羅王子が助けを借りて馬の背に乗り上げる。皆が、数人がかりで王子の足を支え、尻を押して実言の後ろに王子を乗せた。
「王子、腕は大丈夫ですか」
 荒い息遣いが返事のようだった。
「王子、少々手荒いですが、私と王子を縛りますよ。大変な道中になると思いますが、どうか私の体におつかまりください。この馬の上にとどまるも、落ちるも私たちは一緒です」
「この数日は私のこの二十九年の生涯において、初めてのことでいっぱいだ。とても楽しい体験ばかりだ」
 自虐的に王子は言って、実言の背中に顔を押し付けた。実言は哀羅王子の重さを背中に感じて、王子の体の状態を感じた。王子の体力を考えると、できるだけ早く王宮に着かなければならないと思った。
 実言は囮を先に行かせることを決めていた。裏門にも囮を置いて、できるだけ追手を少なくするつもりだった。無謀なことをすると思っているが、無謀の中でもより危険の少ない状況を作りたいと思っている。
 まずはこの門からでなくてはならない。囮を門から出すのに邸の者たちを総動員して、守らせた。
門を開けると、盾を持った男たちが飛び出した。そこへ待っていましたと言わんばかりに矢が飛んできた。盾に何本もの矢が突き刺さり、相手も門の前で待ち受けていたことが分かった。盾を持った男たちがしゃがむとその後ろに隠れていた弓を持った男たちが立ち上がり、弓を引いた。それに応じるように先ほどよりは少ない弓が飛んできた。素早く盾を持った男たちが立ち上がって矢を受ける。それを見てから、馬が躍り出た。二頭が間を空けずに飛び出した。
 これは囮である。囮を狙って追う、敵の気配を感じた。
 実言は馬上で、門の外での戦いを思った。号令と、それに合わせた身動きする音、衝撃音とそれに耐えるうめき声や励ます声が飛び交っている。
 表の門での騒ぎが止むと、裏門が騒がしくなった。裏門から囮を使って飛び出させ、裏門にいた間者を慌てさせ、正門の間者を惑わせるつもりだ。
 裏門は、女人や大きな子供が門を開けるのを手伝って、盾を持った男が飛び出し矢を受けた。怒号とともに、弓矢隊が弓を射って、暗い向こう側に弓を放った。少年が松明を持って、盾の後ろから暗闇を照らした。すぐにしゃがんで盾の後ろに隠れて、相手からの矢に備えた。二、三本の矢が飛んできたのを盾で受けた。再び三人の弓矢隊が立ち上がって、三本の弓を打ち込んだ。すぐさま盾が立ち上がって、そのまま後ずさって門の中へと入って行った。侍女や子供達が力を合わせて重い門を押して閉じた。
 実言は耳を澄ます。正門前のわずかな動きを感じ取る。どれだけの間者が裏門へ走ったか。
 春日王子は、なんとしても哀羅王子を討ちたいはすだ。だから邸の周りには思った以上の間者が潜んでいる。こんなに手をかけて囮を使って、どれだけ間者を分散させられただろうか。こちらの作戦が効果を上げていればいいが。そして、この邸にどれだけの犠牲が出ただろうか。しかし、その犠牲を払ってでも、この道を進み、やり遂げなければならない。
「安和也、後のことを頼んだ」
 実言は馬上からすぐ下いる安和也に声をかけると、後ろを振り向いた。
「王子、準備はよろしいですか?」
「ああ、いいよ」
 少しのんびりした口調の哀羅王子の声がした。実言は口角を広げて声なく笑った。
「皆!行くぞ!」
 門を開ける前に実言は力強く言うと、皆は「おう!」と応じた。
 それを合図に再び正門が勢いよく開き、先陣を切って囮の馬が飛び出した。それを援護するのに、盾と弓矢隊が飛び出し矢を射った。それと同時に、実言と哀羅王子が跨っている馬が飛び出した。
 礼は、正面の門が見える簀子縁からその様子を見守っていた。
 どうか、皆が無事でありますように。
 心の中で祈りながら、門が閉まるまでを見守った。

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