宮廷内は突然の哀羅王子と岩城実言の登場に蜂の子をつついたように、警備の者たちが右往左往した。
宮廷には宿直に来ていた荒益がいた。宿直の者たちが集まっている部屋に人が飛び込んできて、宮廷内に馬で飛び込んできた者がいる、と口早に語った。それがどうも岩城実言らしいというのだ。
「どういうことだ?」
荒益は飛び込んできた者に問うた。
「宮廷の空き部屋に入られたということだ。何か、大王に申し上げたいことがあるとのこと」
荒益はとうとう昼間の話が現実になったと思った。その場にいる今夜の宿直の者たちも一様に顔を見合わせた。
荒益は都中が恐れている争いは、今夜のこの訪れが引き金になる、と感じた。
「様子を見に行ってくる」
体が反応して荒益は宮廷の門近くへと走り出した。
実言は哀羅王子の傍で医者が来るのを待ったが、なかなか現れない。哀羅王子は完全に気を失ったようで、目を閉じたままぴくりとも動かない。矢を受けた腕は厚く布を巻いていたが、血がにじんできている。実言は馬上で哀羅王子と結んでいた紐で傷の上を縛り、早く医者が来ることを祈った。
宮廷の中に入ったからと言っても、敵がいないわけではない。医者の到着と岩城の仲間の応援を待った。
「どいてくれ、道を開けてくれ!」
遠くから声がした。この騒ぎに野次馬が垣を作っているのを、かき分けてこちらに来る男がいる。
「すまない、開けてくれ」
この声は……と実言は顔を上げた。簀子縁に何重にも列がなされたところをかき分けて飛び出してきたのは荒益だった。
「実言!」
庇の間に入った荒益は、顔を上げた実言と目が合った。
「荒益」
荒益はすぐさま部屋の前まで来て、実言の前に横たわる哀羅王子に目をやった。
「……哀羅王子……」
「怪我をされた体に無理をしてここにお連れした。今、医者が来るのを待っているところだ」
「お加減は、だいぶ悪いのか」
「傷口が開いたようだ。出血がある。これを止めないと」
実言はここにたどり着くまでの攻防を思い出していた。
「少し追手と戦って、馬上で激しい動きがあったから、心身共にお疲れだ」
と言った。
荒益は「追手」の言葉に春日王子との攻防があったことを知った。
「実言には怪我はないのか?」
汗にまみれた実言の顔は、黒く汚れていた。
「私は大丈夫だ。怪我はない」
実言は手の甲で額の汗をぬぐった。
「荒益、座ってくれ」
実言に言われて、荒益は部屋の中に入った。
「もうすぐ、一族の者が来るはずだが、それまでここで哀羅王子を守ってほしい。相手も必死だ。もしかしたら、宮廷内に相手の手先がいるかもしれない。まだ安心ができないんだ」
声をひそめて実言は言った。荒益は黙って褥に寝かされた哀羅王子の実言が座る反対側に座った。
「これからどうするというのだ?」
「まずは、王子の傷の手当てをする。医者が来るのを待っているところだ。そうこうするうちに、本家から物が届くはずなんだ。その時は、弾正台も連れてくるはずだ」
「もの?……弾正台を……」
荒益ははっとして顔を上げ、実言を見た。
「今夜、全てを明らかにするつもりだ」
実言は上目で睨むように荒益を見つめた。荒益はその視線を受け止めて、頷いた。
そこで、遠くの簀子縁から数人の急いだ足音が鳴り響いた。
「お医者様が参られました」
簀子縁に重なっていた垣は開けて、医者が庇の間に入ってきた。
「哀羅王子様だ。傷が開いてしまった。血を止めていただきたい」
医者は気を失っている哀羅王子の左腕の前に座った。着ている肌着を裂いて腕の布を解くと、礼が丁寧に白布で覆っていた傷口は、激しい動きに耐え切れず赤い口を開けていた。
「おい!」
と庇の間に控えていた助手を呼びつけた。
壮年の医者は、助手に盥に水を汲んで来いと言った。簀子縁の垣をかき分けて下働きの男とともに水を張った盥を三つ持ってきた。
白布を水に浸して、傷口の上で白布を絞ってその含んだ水を落とした。褥が濡れるのもかまわずに医者は傷口を洗った。
「……うっ……ん」
傷口の痛みに、哀羅王子は低く唸って薄っすらと目を開けた。
「王子!」
傷を負っていない右腕側に移動して座っていた実言は王子の名を呼んだ。
医者は哀羅王子の様子を気にすることもなく、傷口を洗う。
「ああっ」
哀羅王子はたまらず、声を上げた。慌てて助手が起き上がろうとする哀羅王子の体を押さえにかかった。それを見て、実言もその横にいた荒益も一緒に哀羅王子の体を押さえた。
痛みに哀羅王子は声を上げる。
「王子、我慢を!口に布を」
実言は助手に向かって言ったが。
「……大丈夫……驚いただけだ」
と哀羅王子は目を開けて実言の方を向いて言った。
みるみる哀羅王子の額には汗が浮いて、苦しそうだ。
医者は、傷を洗ってから、乾いた布で水気を拭きとり練った薬を傷の周りに塗り込むと、柿の葉を置いて厚く畳んだ布を置き、白布を巻く。
「よく耐えられました。少し、薬湯を上がってお休みください」
助手に薬湯を作ってくるように言いつけて、部屋を出て行った。それと入れ違いに、一人の男が入った来た。
実言が顔をあげると、助手に顔の汗をぬぐってもらっている哀羅王子もつられるように顔を上げた。
そこには弾正台の次官、和良(わら)五十五(いすず)が立っていた。痩せた壮年の男である。
「和良様!」
実言は和良の方に体の正面を向けて頭を下げた。
「岩城殿が弾正台をお連れになって王宮に入られた。そなたたちが飛び込んできことで、弾正台も本気になられて、今、お休みの大王に取次ぎを申し出られたところだ。お二人とも、すぐに用意を。大王がお出ましになればすぐにお会いできるように」
実言は困惑した。今、傷の手当をしたところだというのに、哀羅王子を起こすのは体をより弱らせてしまう。
「実言、体を起こしてくれ」
哀羅王子は実言の腕を掴み言った。助手が汗を拭く手を引いて、実言は哀羅王子の背中から右肩に腕を回してゆっくりと上半身を起こした。
「王子、このままで少し休まれますか」
「いいや、行こう。大王をお待たせするわけにはいかない」
今は、哀羅王子の方が奏上への本気をうかがわせた。
「……薬湯は」
助手は小さな声で言った。
「いらぬよ。下がってよい」
実言は助手に言った。助手は、手当てに使った薬箱を急いで片付けて部屋を出て行った。
和良が野次馬払いのために簀子縁に出て行った。簀子縁では弾正台の役人が現れたことで、ただ事ではないと悟って、言われるまでもなく、できた人垣はゆっくりと静かに崩れて行った。
「大王の前に出るというのに、このような乱れた格好では申し訳ないな」
哀羅王子は、着ていた肌着は引き裂かれているし、上に着ていた袍は血が滲んで汚れているのを気にして言った。
「いいえ、これは命を賭けた奏上でございます。あなた様の今の姿は、あなた様の思いを現しているのです。必死に、命を削って、大王に真実を告げ、お詫びするのです。美しく整った姿であれば、それはそれでよいですが、今のあなたにはふさわしくありません。ありのままのご自分をお見せするしかないのです」
実言はしっかりと哀羅王子を見つめて話す。
哀羅王子は静かに真っすぐと向かってくる言葉に聞き入った。こうしてみれば、実言も額から頬のあたりには黒い汗の跡が幾筋も流れている。袍も、砂ぼこりを被っているし、汗が浮き出ていてシミを作り、いかにも汚い格好であった。
もし、春日王子の妨害がなければ美しい、煌びやかな世界に生きているはずと思っていたが、どこで生きていようと澄ました何食わぬ顔をして生きてはいけないのだ、と哀羅王子は改めて思った。吉野の山の中で、寒さや飢えに苦しんで、こんな目になぜ自分があうのかと思っていたが、誰もが違う形で苦しみ、悲しみ、汚れて生きているのだと思い知った。あのまま、都で岩城園栄に守られていても、何かしらの苦難を味わっているはずだ。
美しい衣装に身を包み、颯爽と宮廷を歩くには、その前に血に汚れた自分の姿をさらけ出し、大王の情けにすがり、施しを懇願しなければならない。
「そうだな。その通りだ」
哀羅王子は頷いた。それが合図になり、実言が哀羅王子の左側に周って体を支えた。自然と実言の隣にいた荒益が哀羅王子の右肩に自分の肩を入れて支えた。
「荒益……すまない」
実言は哀羅王子の胸越しに、荒益に言った。正面を見ていた荒益は、実言の方を向いて、優しい笑みを浮かべた。
「王子、彼は椎葉荒益です。父は右大臣です。有望な人物ですよ。我々と共にいてくれる男です。運よく、今夜この場に駆けつけてくれました。彼も、今夜の証人になってもらいましょう」
荒益は実言からそのような紹介を受けて、できる限り深々と頭を下げた。
簀子縁から戻ってきた弾正台次官の和良五十五に付き添われて、王宮の中の部屋に行き、そのまま待機した。
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