Infinity 第三部 Waiting All Night92

夏の花 小説 Waiting All Night

 できる限り急げ、との号令に弾正台、衛門府、王宮の役人、兵士たちが右に左にと散って、体がぶつかるのも構わずに自分の受け持った仕事をするために走り回っている。大極殿の前に人馬が集まって隊列を作っているところだ。
 春日王子の邸から三つの集団が飛び出したことは張り込んでいた二人の間者も見ていた。二人は追えるところまで見届けて、三つの集団がそれぞれ違う方角へと向かったのを確認した。その情報は、粟田や実言が邸の者たちから聞いた話からも同じであることが分かった。
 三つの集団を追うために、三つの隊が作られた。隊長の矢代田巻がいて、その下に副隊長として二人が選ばれた。その三人がそれぞれ隊を持って追うことになった。一つ目の隊は隊長である矢代が率いて、西に行く。難波へ向かって、懇意の豪族の助けを借りてそこから船で海を渡ってもっともっと西に逃げるつもりと見た。二つ目の隊は、近衛府から河原田名麻呂が選ばれて、南に行った車を追う。南にも春日王子を慕うその土地の豪族がおり、その者たちに匿われながら生き延びようとしていると考えられた。そして、三つの目の隊を率いるのは岩城実言だ。東に向かった一行は一旦北の湖を目指していると思われた。実言は自分から東に隊を向かわせたいという前に、このように割り振られた。宮廷は春日王子の各地の親類縁者、懇意にしている豪族のことを考えると、北に向かうとの発想は極めて低いと考えたのだった。
 隊長の矢代田巻が後ろを振り向き、片腕を上げて、後ろに整列している兵を鼓舞した。
「えいえいおー!」
 と答える兵士の雄叫びが地鳴りのように前方から順々に後ろへと伝播していった。
 急なことで、多くの馬の調達は間に合わなかった。大勢は徒歩で行くことになった。実言は岩城本家に頼んで数頭の馬と岩城の従者を連れて来た。己の隊を少しでも強くしたかったからだ。できるだけ大勢で早く春日王子に追いつきたい。
 礼が言うのだから、必ず実言が向かう東の一団に春日王子と……朔がいるのだ。
 実言は振り向いて、すぐ後ろにいる荒益を見た。
 甲冑を身に着けた荒益は、実言と目を合わせて言った。
「随分と手間を取ってしまったものだ。礼が羨ましいよ。馬に飛び乗ったらぴゅうっと行ってしまって」
 その言葉の裏には、春日王子と行動を共にしてる妻の朔への思いがあった。自分もすぐにでも追いたかった。そして、朔がいるべき場所はどこなのか、わからなくなっているなら教えてやりたい。
 朔、お前がいるべきところは、私の隣だ。決して、あの方の元じゃない。
 実言は頷いて。
「我々はそうもいかない」
 と苦笑いを漏らした。
 それから、実言は荒益の後ろに並ぶ他の兵士に目を移して、見まわした。じっと固唾をのんでこれから自分が付き従う主人の顔を見ている顔、顔、顔。
 実言は、身震いしそうになるのをこらえて、声を上げた。
「東に向かった反逆者をこの手で捕らえるのだ!行くぞ!」
「おう!おう!」
 大きな声が上がり、拳や持っている剣、槍を突き上げた。
 先陣を切って馬を走らせる者、徒歩の兵士を先導する者など、それぞれの配置について大極殿の広場から出て行く。
 陽が真上に上ったところで、都の大路には春日王子を討伐するために西、南、東に行く順番で、騎馬や徒歩の兵士が列を作って南門を目指した。都人は庭や門の前に出て、または大路の塀に背を預けて道を開けて、討伐隊の行進を見守った。

 晴天の空に照りつけられながら、礼は春日王子の従者の背中につかまって馬上にいた。
 同じように朔は春日王子の背中につかまって先を行っている。朔には春日王子がいろいろと世話を焼いてやり、日差しから朔を守るために、細い糸で織った薄い布を頭から被せられた。朔は、日差しに参ってしまってぐったりとしていて、春日王子はそれをとても心配している。
 馬は車に乗っている時とは比べものにならないほどの速さで進み、一行はいつ都化r尚追手に追いつかれるかとの不安を一旦抑えることができた。
 陽が西に傾きかけた。
 礼は先ほど休んだ邸で水を汲んで腰に下げた竹筒を取って、少し口に含んだ。夏の陽が照りつけて皆は疲れているが、春日王子はできるだけ前に進むことを優先した。川を渡る前に、水を飲んで少し休むとすぐに先を急いだ。
 橋を渡り終って、礼は後ろを振り向いた。礼達の後ろに一人馬に乗った男がいる。その男は渡り終わると橋の前で足踏みしている。
「一人遅れているわ」
 礼は、しがみついてる背中の男に声をかけた。
「いいや。遅れているのではない。あいつには役目があるのさ」
 と言って、馬の腹を蹴り、先を急いだ。
 夕暮れの涼しい風が吹き抜けていく頃に、春日王子の前を行く従者の馬が足を速めた。礼は馬の足音を敏感に聞き取って、変化に身構えた。
「王子、こちらのようです」
 先を走っていた従者が春日王子に声をかけた。春日王子は後ろにいる朔に首を振り向けて言った。
「朔、今夜泊まるところにもうすぐ着く。疲れているだろうが、もう少し辛抱しておくれ」
 朔は春日王子の背中に頭を預けて顔を伏せていたが、王子の声に少しだけ顔を上げて反応した。
 道から外れて藪の中を進むと、そこにはまた道が現れて、隠家のように垣に囲まれた邸が現れた。門はなく、垣の途切れたところから馬は順々に庭へと入って行った。すると、数名の男女が待ち構えていて、口々に夏の日中の旅を労う言葉を言った。
 すぐに春日王子は朔を下ろし、自分も飛び降りると朔の肩を抱いて邸の中に入って行った。
 礼は従者の手を借りて馬を下りると、馬の手綱を取って、従者が下りるのを手伝った。
「さあ、下りてくださいな。私という錘がついてあなたも大変だったでしょう」
 と礼が言った。男は、女の気遣いに驚き戸惑いながら馬から下りた。
「ここはどのあたりなの?大きな湖の近く?」
 礼は、馬の手綱を柵に掛けながら聞いた。
「いや、まだだ。もう少し行かなければ、湖にはたどり着かない」
 礼はまだ長い道のりがあるのかと驚いた顔をした。
「ゆっくり休め」
 男は言って、奥へと入って行った。
 礼も邸の中に入って、台所や裏方の部屋をのぞいた。女は二人だけ、後は男たちのようだ。
 朔を追って邸の奥へと進もうとしたら、礼はぺたりと板間に座り込んでしまった。
「どうしたの?」
 台所から出て来た女が座り込んでいる礼を見つけて声をかけた。
 礼は口元を手で押さえて、うずくまっている。
「気持ち悪いのかい?立ち眩み?」
 女は驚いて、礼に肩を貸して開いている部屋に連れて行って体を横にさせてくれた。
「暑さにやられたのかね?日中は暑かったからね」
 礼は頷いたが、声はすぐに出せなかった。背中をさすってもらって、楽になってから言葉を発した。
「すまないわね。旅は久しぶりだから、体が慣れていないみたい。もう少し、ここで横になっていさせて」
「いいわよ。好きに寝てたらいいわ。私たちは食事を作っているから」
 中年の女は言って、台所に戻って行った。
 礼は口元を押さえた。気持ち悪さが腹の中から上がってくるのを我慢した。
 睡眠も取らずに動き回ったから、体がついて行かなくなったのかしら……と考えた。横になって静かにしていると体は楽になった。ゆっくりと体を起こして、腰に下げていた竹筒から水を飲んだ。飲むと、また少し体が楽になった。礼は体を横たえて、もう少し休んだ。
 しばらくすると廊下をどたどたと走る音が聞こえて、礼は頭を上げた。衝立の上からひょっこり背中をさすってくれた女が顔を出したところで、目が合った。
「どうだい?気分は」
「だいぶ良くなったわ」
「そう。あんたはあの綺麗な人の侍女なの?片目の女を知らないかと袖を引かれて聞かれたよ」
 礼は頷いた。
「そう、あんたがいないのを心配していた。今から夕餉を運ぶからあんたも手伝っておくれよ」
 礼は再び頷いて、体をしっかりと起こした。女が衝立を越えてきて、礼が起き上がるのを手伝った。
「真っ白な顔してるね。あの綺麗な人も同じくらい白い。都の女人はそんなに白くなるものなのかね」
 礼は今の自分の顔がそんなに白く見えるのかと思った。朔と同じような真っ白い顔。
 それから礼は立ち上がった。少しふらつく体をその女……墨(すみ)に支えられて礼は台所で膳に料理を載せる手伝いをした。
「あんたは都に住んでいるの?私も昔、若いころに都で働いていたよ。ここのものは都で食べる料理にはおよばないよ。あのお方は都の偉い人なんだろう?大王に近い人?そんな人にこんな料理でいいものかね?私らはね、昼間に、男が現れて家にある物を持って来て食事を作れと、連れて来られたんだよ。こんな粗末なものでいいのかね」
 墨は手も動かすが、同じほどに口も動かしてどこまでも話している。
 机の上には、川魚を焼いたもの、青菜や芋、木の実を蒸かしたものが並んでいて、質素なものだ。内陸の山の中では、海の食材はなく、山で取れるものばかりになる。
「急な出立だから、何の用意もないの。食べ物があるだけありがたいことよ。ありがたく頂かれると思うわ」
 礼と墨が皿に料理を盛るとそのそばから膳に載せて春日王子たちのいる部屋に運ばれていった。最後に残った膳を持って礼は男たちについて行くと、部屋では奥に春日王子が座っていて、その隣には朔がいる。すでに酒が回されていて、男たちは杯を空けていた。空になった春日王子の杯に朔は徳利を傾けて酒を満たした。

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