Infinity 第二部 wildflower1

東大寺 小説 wildflower

 礼が都に戻り、実言と夫婦になって、三月(みつき)。穏やかな日々を送っている。
九月に入っても、まだまだ暑い日が続いていた。礼は、朝のうちは実言と住む邸の裏手の畑の作物の世話をして、庭の隅に建てた小屋の中で薬草作りをして過ごした。
 実言は九鬼谷の戦いの功績を認められて、新たな位を授かり宮廷に仕えている。
仕事は都の警備だ。普段は宮廷に通っているが、順番で都の見回りがあり、短い時は三日、長い時は五日ほど都の外に見回りに行く。
 だから、一緒に暮らすようになったといっても、実言は邸を空けることが多く、礼は邸に置かれておくことが多かったが、礼は束蕗原にいた時と同じように畑を耕し、薬を作る生活をしていて、暇を持て余すことはなかった。
 今も、実言は五日間の都の外に見回りに行っていて、明日が帰ってくる日になっている。このような時は、離れの侍女たち女だけで気楽に過ごしている。今も畑の仕事をして汗をかいたので、水浴びをしてきたところだった。昼下がりの眠たくなるところで、四方の御簾を下ろして、几帳の中で髪を高く上にまとめて結って、首筋の蒸し暑さを逃すのに、下着だけになって背中を大きく開け広げて風通しよくした状態で肘掛にもたれて、涼んでいた。うとうととこのまま寝てしまいそうになった時、その手は突然礼を襲った。物音ひとつしないまま、礼は誰かに忍ばれたのだ。
 いきなり、口を塞がれて礼は驚き、恐怖を覚えたが、声を出すこともできず、目を見開くばかりだった。次に腰に手を回されて、抱えられた。なんと迂闊な姿でいたことかと悔やんだが、そのような思いはすでに遅く、その力強い手に好きにされてしまう。このまま、この男……と思われる者に好きにされてしまったら、実言に申し訳が立たない。口を覆う手に礼は手をかけて剥がそうとしたり、宙に浮いた足をバタつかせて、どうにか逃げようとしたが背後の男はビクともしないのだった。礼は抱えられて、寝台の方に引き込まれて行く。
 でも、その時にはその男の匂いで礼は誰だかわかった。口を塞いでいた手は移動して、礼の目を隠した。
「礼」
 いつものように耳ともで囁かれて、礼は思っていた人の声に安堵しながら、はしたない姿でいたことに恥じ入った。
 実言は礼の左の耳たぶを唇で挟んで吸うと、次につっと下に向かって唇を這わしていった。礼を捉えた手は下着の襟をつかむと両肩が全て出てしまうほどに下ろして、礼の右肩の肉が少し窪んだところに口付けた。それは、礼が実言を守るために受けた矢の傷口である。
「実言」
 礼は実言の唇が自分の背中をずっと下りていくのに耐え切れず、その名を呼んだ。
「……私の名を呼んでくれないから、忘れられたのかと思ったよ」
「忘れるわけないわ。ひどいのね、実言!口を塞いだり、目隠ししたりして」
「悪かった。礼の後ろ姿を見たら、声よりも先に手が動いてしまったのだ。許しておくれ」
 実言は神妙な顔で詫びた。礼も自分の軽率な姿を恥じた。
「私もこんな格好で……ごめんなさい……」
 礼の言葉が聞こえていないのか、実言は礼の背骨に沿ってもっと下に唇を移動させる。
「実言!……縫が、戻ってくる」
「……先ほど、簀子縁で縫とすれ違ったから大丈夫だよ。四日ぶりの私たちを邪魔するほど縫も無粋ではないだろう」
 礼は、そこで実言を振り返った。四日ぶりに会う実言は、少し日に焼けていた。
「明日がおかえりの予定だったはず」
「予定が変更になってね。今日戻ってきたのだ。使いをだそうかと思ったが、それを手配するよりも一刻も早く帰りたくて、こうして戻って来た。都合でも悪かったかい?」
 実言から問いかけたのに、その答えはいらないというように、礼の口を自分の唇で塞いでしまった。長く吸って唇を離すと、暑いな、とつぶやいてさっさと自ら服を脱いで下着姿になってしまった。礼はすでに裸にされたも同然で、二人はしばらく見つめあったが、体はこの暑さでもお互いの肌を求めて、寝台の上で睦みあうことになってしまう。
礼と実言はそのまま、寝台の上で眠ってしまった。
 礼は目覚めて、体を起こした。隣には実言がこちらを向いて眠っている。馬を駆けらせ都に戻ってきたのだ、疲れているのだろう。ぐっすりと寝入っているように見える。
 日はもう山の向こうに落ちてしまって、西の空は赤く染まり、東の空は暗くなった。夕餉の準備を縫は言わなくてもわかっていると思うが、それでも気になって、礼は寝台から降りようとした。すると、礼は手首を掴まれ強く引かれた。
「どこに行くの?」
 実言が片目を開けて、礼を見ていた。
「もう夕方よ。夕餉の用意があるから」
 礼は寝台の端に腰掛けて、下着を着けながら言った。
「礼をまだ離したくないな」
 実言はそんなことを言って、乱れた髪を一つにまとめて結おうとしている礼の両手がふさがっていることをいいことに、きちんと結んだ腰の帯の端を引っ張って、解いてしまう。
「実言!」
 下着はしどけなく崩れてしまって、礼は少し怒った声を出したが、実言にそんなことが効くわけもなく。
「いいじゃないか。そんなに急ぐことはないよ。私は、明日は昼から宮廷に出ればいいからゆっくりできる」
 礼は実言のわがままに困った顔をして、寝台の端に座ったままでいた。
「一緒に住むようになっても、私は仕事柄家にいないことが多くてお前を一人にしてしまって、心苦しいばかりだ。だから、一緒の時は片時も離したくない思いだよ。それに、お前は私の妻だと自覚させないとね。お前に変な虫がついてもらっては困る」
 と強い口調で言った。
「変な虫?」
 礼は、どんな虫なのかわかりかねて、首をかしげる。
「この邸は、警備は厳重だけど、来客も多く、いつ誰が間違ってこの離れの庭にやってくるかわからない。昼間のお前の姿を見た者があらぬ思いに駆られることもあるだろうし、私がいないことをいいことにお前に言い寄ってくる男もあるかもしれない。この邸には私の異母弟たちもいる。安全とはいえないから、私は、気が気じゃないよ」
「そんな心配は無用よ。実言はそんなことを心配していたの?」
 けろっとした顔で礼は言った。ねっ転がったまま腕を立てて、手のひらに頭を乗せている実言は嘆息して、礼の袖を引っ張った。
「礼、お前は綺麗になった」
 礼はきょとんとした顔をして、また首を傾げる。
「わかっていないのは本人だけということなのかな?礼、お前は、美しい女だよ。それを自覚しないと」
 実言にそう言われて、礼は俯いた。
「嘘。からかわないで」
「嘘じゃないさ。だから、私は心配している」
 実言は、体を起こして礼と正対した。
 礼は年齢の割に幼稚な子供のまま大きくなったと言える。母親を十一で亡くし、十四の時に左目を失うことになる。心と体の傷が礼を大人になることを拒ませた。実言の許婚になった時もまだまだ幼さが残った娘だった。左目の療養に時間がかかったことや、その後も左目がない顔を人前に晒すのを嫌がり、同年の娘が通る儀式はひっそりと身内だけで済ませていた。自分の住む小さな世界を出ることなく生活をしていた。実言が九鬼谷の戦いに行くことになり、別れる時も礼は幼い子供のようにふっくらとした頬で、体も薄っぺらな娘だった。しかし、二年の歳月を経て、戦から帰ってみると、礼は幼さを残していた頬のふくらみをすっかりそぎ落として、大人の女性らしいすっきりとした輪郭になり、逆に平らだった体は膨らみが浮き上がって袍の下から曲線をくっきりと浮き出させている。実言と暮らすために都に戻ってきて、毎日綺麗に化粧をし、礼の魅力である右目は美しく彩られて、礼のちょっとしたしぐさがなまめかしくて実言は欲情してしまうのだった。
「礼。お前は二年前よりも美しくなった。それに加えてお前は優しいから、お前はただの親切のつもりでも、相手はお前の親切を好意と誤解してしまうかもしれない。そして、お前が望まなくても他の男の腕に抱かれることにもなりかねないよ」
「そんなこと、ないわ。私をそんなふうに思う人なんて……」
 礼は思うのだった。自分の顔は半分しかない。興味を持つのはなぜ、左目に眼帯をしているのかということくらいだ。きっとこの傷をみたら、その醜さに二度と近づいてこないだろう。この傷の醜さを忘れさせてくれほどの思いを向けてくれるのは、実言だけだ。
 実言は起き上がって、横から礼に腕を回して、その胸の中に抱きしめた。
「私以外の男の腕の中に入ることはないというの、礼?こうして抱くのは私だけに許すと」
 礼は、実言の胸の上で深く頷いた。あんなに拒んで、心の中に入れないようにしてきた男なのに、もう、この男しかいないのだ。礼の心は実言でいっぱいに満されて、手離せない男になった。この男しか知らないし、知らなくていいのだ。
「礼……愛しい妻よ」
 実言は礼の左目に口づけた。もう慣れてくすぐったくさえある、その口づけは礼を安心させる。礼が実言を正面から見つめると、実言は礼の唇に自分のそれを重ねる。礼は、時間を忘れて実言の腕の中で幸せな夢を見た。

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