Infinity 第二部 wildflower12

京都御所 小説 wildflower

「礼」
 耳元に口を寄せて、実言が囁いた。礼は我に返った。びくっと体を揺らして、実言の方を向いた。
「大丈夫かい」
 礼は声を発することなく、小さく頷いた。朔との再会が、礼の心をかき乱して落ち着かせない。自分はどんな顔をしていただろうか。荒益の声を聞いた時に、繕うことのない素の顔で朔の方に振り向いてしまったように思う。
「私たちも行こうか」
 実言と礼は、車の順番待ちのために、待機する部屋で二人きりで待っていた。
 礼は心なしか実言と距離を置くように座り、黙っている。実言も黙ったまま、順番が来るのを待った。
 縫が現れて、車の準備ができたと告げた。
「縫。悪いが、車には私と礼だけにしてくれないか」
 実言は待機部屋を出るときに縫に言った。車のところまで行き、箱の中に礼を先に乗せた。
「忠道。箱には礼と私が乗るから、縫を別で邸まで帰るように手配しておくれ」
 実言が箱に乗り込む前に従者の忠道にそう言って、乗り込み御簾を下ろした。牛車はゆっくりと岩城家の邸を目指した。
 礼は先に箱に乗り込んだが、実言が乗り込むと奥を譲って、入り口の前に座って動かなくなった。ゆるゆると進み、道のでこぼこにガタガタと揺れる車。礼は、体が揺さぶられるのに耐えていたが、車輪が石でも踏んだようで、ひときわ大きく揺れて礼の体は前に投げだされるように倒れた。実言がすかさず手を出して、礼を受け止める。
「礼。お前は、朔のことでそんなに気が沈んでいるのだろう」
 実言は手で支えて、礼の体を起こしてやった。礼は元のように座り、実言の言葉に身を硬くした。
「お前をそのような思いにさせてしまったのは、私のせいだろう。私が無理矢理にも朔からお前に許婚を変えてしまったために、姉妹のように親しみ慕っていた朔との仲を引き裂いてしまった。その仲はもう二度と、元に戻ることはなく、昔のお前は朔の思いに悩み苦しみ、私を拒んだ。私の思い一つからお前を図らずしも苦しめてしまった。邸に着くまでの間、私はお前からどのような責めや詰りを受けよう。私をその手で打っても構わない。お前の気の済むようにするといい。でも、邸に着いたら、今夜も私と褥を一つにできる喜びを思い出して、私を許してほしい。私はお前をこんなに思っているのだから」
 実言は一気に言った。礼は、黙っていつものように左を向いて右顔を見せて俯いている。
「礼」
 優しく礼の耳朶を打つ実言の声。
 実言を詰る言葉などあるわけがない。こんなにも愛しい人なのに。朔との仲がもう元に戻らないことなど、わかっている。その悲しみや苦しみは、実言の妻になるときに乗り越えたのだ。
 実言の隣で、喜びを満面にたたえた礼の顔を朔は見たのだろうか。見たのなら、朔はその顔を許してくれているだろうか。なんの不足もない安心して全てを委ねられる相手に寄りそう礼の姿を。自分がいるはずだった場所、自分が受けるはずであった喜びを、礼が享受していることを許してくれているだろうか。
 礼は黙ったままでいると、自然と唇が震えだし、右目から涙があふれた。涙が頬を伝うと、礼は両手で顔を覆った。
 実言はわかっていない。朔との姉妹のような愛が失われたことを嘆いているのではない。自分が幸せであることを見せつけてしまったことを恐れたのだ。
 そう思うと礼は自分がおごった浅ましい人間のように思えて暗い気持ちになる。
 朔は実言とのことなど、すでに過去のことと決別し、椎葉荒益の妻として満ち足りた幸せを享受しているはずだろうに、何を思っているのだろうか。
「礼。こっちにおいで」
 実言は両手で顔を覆った礼の手首を持って、そっと引いた。礼は顔から手を離さず、実言に引かれるままにその胸に倒れこんだ。
「私が泣かせてしまった」
 そっと実言は礼の背中をさする。礼は静かに肩を揺らして泣いた。
 やがて車は岩城邸に着いた。実言の言いつけ通り実言と礼の住む離れの裏門に車は止められ、実言は礼を腕に抱いて裏門をくぐって離れの階下まで運んだ。人の気配を察して、侍女の澪が灯りを持って現れた。
「おかえりなさいませ」
 礼は泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、返事もそこそこに顔を隠して部屋に入って行った。代わりに実言が澪に言う。
「今日はもう疲れたからすぐに休むよ。澪は下がっていい。縫は別の車で帰ってくる。縫にこちらに来なくていいから、すぐに休むように言ってくれ。明日の朝は、いつものように格子をあげに来ておくれ」
 澪は返事をして、静かに自室に下がって行った。澪を下がらせてしまったので、実言の着替えの手伝いは礼一人でする。腰に履いた大刀を受け取り、大刀を掛けていると、実言は自分で帯、腰紐を解いて袍を脱ごうとしていた。
「手伝います」
 先ほどまで押し黙って泣いていたので、発した声は少しくぐもった変な声になった。実言のそばに近寄ると、実言は礼の首にかけている首飾りを取って、無造作に床に置く。
「だめ。それはお母さまから預かっている大切なものよ」
 実言もわかっているのに、ぞんざいな扱いをすることがわからない。礼は拾い上げると、机の上に置いた。再び実言のもとに戻ると、実言はもう下着姿になっている。近寄った礼の添え帯に手をかけて乱暴な手つきで解き、背子も袍も脱がして、裳を留めている紐にも手をかける。
「実言」
 性急に礼の衣服を脱がす実言の意図を計りかねて、礼は名を呼んだ。
「いいから」
 短く答えて、実言は手にかけた紐を引いて礼も自分と同じように下着姿になるまで脱がせる。衣服の散らかった真ん中で実言はその場に座ると、礼を引き寄せた。胡座をかいた前に礼は膝をついて立つような姿になった。礼の単衣の前襟に右手をかけると、その襟を持ち上げ礼の左肩よりも後ろへと引き下ろした。礼の裸の左半身が露わになり、礼は身構えた。実言は左手に掴んだ襟も同じように礼の右肩から後ろへやった。
「あ……」
 礼は驚いて小さく声を上げる。
 実言は礼が後ろに体を引こうとしたのを許さず、腰に手を回し、自分へと引き寄せた。礼は膝を折って立った形で、腰を実言の方へ引き寄せられた分、上半身を後ろに反せた。上半身が後ろに倒れていかないように、実言は腰に回したのとは反対の手で背中を支えて、礼の胸の中に顔をうずめた。
「ん…実言」
 乳房の間に実言が顔を押し付ける。礼は実言の肩に手を乗せて、その単衣を握った。
「ああ、芳しい、甘い匂いがする」
 実言は礼の胸の中で強く匂いを嗅ぐとそう言った。
「芳しい甘い匂いが強くしたら、その花の姿はどんなものか気になって仕方ない。その花を見に行って、美しければ、それを手に入れたいと思うのは、誰もが同じだろう。礼、お前からはそんな甘い芳香が放たれているよ。だから、麻奈見はお前が自分を追ってくるように仕向けた。荒益も導かれるようにあの場に現れた。お前の匂いに気づいた者は誰もが手に入れたいと近寄ってくる。私がお前を見せびらかしすぎたのだ。つい、お前を自慢したくなって。本当はこの邸に閉じ込めておかなくてはいけないのに」
 礼の胸の中から顔を上げて実言は言った。
「でも、閉じ込めたままにしておくのももったいない。顔に傷を持ってしまったから、女の喜びを失ったように言われていたお前がそのことをもろともせずにこのように美しく強くなり、私の妻になっていることを世間に見せたいのだ。一体私はどっちにしたいのだろう」
 足を広げたその中に膝立ちのままだった礼を座らせて、実言はその体を自分の胸に引き寄せた。
 礼は素直に従った。実言の単衣の前ははだけていて、裸の胸の上に礼は自分の左頬を着ける。実言の匂いがする。実言が着ていた袍に焚き込めた匂いである。たとえ漆黒の暗闇の中でもこの匂いでそばに誰がいるかわかる。
 礼を守り、安心させる男の匂いを、礼は鼻腔に深く吸い込む。
 恋しくて愛しくてしかたない人。
 礼はついと唇を実言の胸に押し付けて吸った。実言の胸に置いた両手を左右からそっと、単衣の中に滑り込ませる。礼の指は実言の肌に触れて伝い、背中で合わせて自分の体を括り付けるようにきつく抱きついた。
「礼」
 実言は礼の頭の上に顔を落として、宴のために結い上げた髪を解いて口付けた。礼は実言に全てを預ける。脱ぎ散らかした衣服の上に二人はゆっくり横たわり、合わせた体が融けて一つになった。

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