Infinity　第二部　wildflower15

　よりによって我が体内に子を宿したことを知ったその日に、このような話があるとは。
　春日王子とは、前に詠妃のこの館に来たときに、ちょうど退出される場に行き合わせた方。また、月の宴のときに大王の部屋から出ていらして詠様のいる部屋へと向かわれるお見かけした方だ。どちらも少しお顔を拝見しただけだが、実言と同じくらいの年齢の端正で麗しい男性だった。
　王子に召されたら、どうなるのだろうか。妃たちのように体調の相談を受けるだけとは考え難い。だからと言って、自分のようなものになぜ興味を持たれるのか。
「王子もお忙しい方だから、部屋に行けばいらっしゃるというわけではないが、お待たせするのも申し訳ない。お前が行って、お待ちするのがいいだろう」
　心なしか詠妃の声は冷たく聞こえる。
「詠様」
「どうした」
「なぜ、王子様は私をお呼びになるのでしょう」
「さあな。お前に会ってゆっくりと話をしてみたいと言われていた。お前の方から何か王子のお気を惹くことをしたのではないか」
「間違ってもそんなことは。……私には、夫がいます」
「そうだな。しかし、王子はこだわったりはなさらないだろう。相手は、一臣下であるし。気が向けば、お前を相手になされることもあるかもしれない」
「……私は、夫を愛しています」
「ほう。美しい言葉だ。私も大王をお慕いしている。そなたの言うその愛するという言葉と同義である。私は大王のためならこの命も惜しくはない。それはそなたも同じであろう。左目を失ってまで守った夫の命なのだからな。春日王子は軍隊の長を務められている。そなたの夫の上司にあたるであろう。今の政治の有り様は、春日王子を筆頭とした王族と臣下である岩城と椎葉の三つ巴の様相であろう。夫の出世や一族ためにも王族が岩城家と手を携えて政ができるようにお願いしてみる価値はあるだろう。その身をもってお願いするかっこうの時ではないか。愛とは犠牲であろう。自分の思うようにはならなくても、愛する人のために我が身を厭わない心であろうに。そうではないか？」
　より冷たく突き放した詠妃の声に礼は、心の臓を掴まれたようでその場に倒れそうになった。
「誰か。誰がおらぬか！」
　詠妃の声に、礼は真冬の寒風吹きさぶる山の中に投げ出されたような絶望的な思いになった。
　控えていた侍女が現れた。
「この者を春日王子の所にお連れしておくれ。いらっしゃらない場合は、部屋の者にこれを見せればよいから」
　通行証の役割をする書き付けを侍女に渡した。
「お前の供の者には、私の方から事情を話しておくから、心配はいらぬ。礼。くれぐれも粗相があってはならぬ」
　そう釘を刺されて、礼はうなだれて詠妃の部屋を辞し、侍女の後ろに従った。
　やがて、王宮の中に一室を与えられている大王の弟の春日王子の館に着いた。入口で、侍女と番人との間でやり取りがあり、侍女が詠妃から受け取った書き付けを取り出している。それを確認すると、番人は扉を押し開けて脇にその身を寄せた。侍女が振り向き、中には入れと礼に無言で言っている。この侍女の役目はここまでなのだろう。礼は無言の命令に従って、番人の横を通って春日王子の部屋に入った。中に入ると、春日王子の部屋の侍女が待っていた。説明もなく、その手先に指示されるままに一室に入る。そこで待てということだろう。何も言わずに侍女は部屋から出て行った。
　礼は、部屋の隅に座った。
　今は何時だろうか？
　外はまだ陽が暮れていない。礼は、部屋の中に差し込む陽の光と影をじっと見つめながら、その方が現れるのを待った。礼は最も避けたい事態を何度も心の中で打ち消すことばかり考えた。自分のお腹の中には待ちに待ったややがいるに違いない。一刻でも早く邸に帰って、実言に伝えなくては。実言はどのような言葉を言ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
　陽は沈み、部屋の中は暗くなった。侍女が灯りを持ってきて、灯台にあかりをさしたが、無言のまま部屋を出て行った。
　礼は心細くなり、涙がこみ上げてくるのをぐっとこらえた。縫は帰っただろうか。詠妃は、事情を伝えておくと言ってくれたが、それは実言にも伝わっただろうか。実言は心配しているだろうか。
　不意に廊下から足音が聞こえてきて、話し声がする。だんだんと足音と声は近づいてきて、会話がはっきりと聞こえてきた。
「酒を持ってこい。まだ呑み足らぬ」
　侍女に命じている男の声。
　礼は身を硬くして畏まった。御簾が揺れて、部屋に人が入ってきた。灯台の灯りがその人物の影を映し、礼の上へと覆い被さった。礼は慄いて左を向いたまま硬直した。
「ああ、待たせたな」
　部屋の隅に座っている礼を見咎めたその方は、ゆっくりと礼に近づいてきた。
「お前が大王のお妃たちの話し相手になっている女医者だな」
　そこで侍女が酒を持ってきた。
「来い」
　礼は春日王子に従い、立ち上がった。
　部屋の奥に几帳を巡らせてその中に座が設えられてあり、上座に王子はどかりと腰を下ろした。侍女はその前に銚子と杯を載せた膳を置いた。もう一人侍女が現れて、同じ膳を王子の斜め横におく。そこが礼の座る場所であることを教えているようだった。礼は、膳の前に座ると、侍女たちは銚子を取り上げ杯に注いだ。
「勝手にやるから、お前たちは下がってよい」
　手をあげて部屋から出ていけと言わんばかりに２、３回振った。しずしずと侍女たちは下がっていき、部屋の中は王子と礼の二人きりになった。
「碧妃の体の不調について、相談に載っている女医者がいるというので、詠様がたいそう羨ましがっておった。たまらず碧様にお願いして、詠様も自分の館に来させて体調のことなど相談していると聞いた。詠様の部屋を訪れた時に、私はお前と会ったな。その、左目。気になって事情を聞くと、夫の命を守るために失ったと聞いた。興味を惹かれた。夫の命を守るために飛んでくる矢の前に飛び出して、自分の顔に向かってくるのも恐れない女人の話を聞きたいと思って、お前に会えるよう詠様にお願いしたということだ」
　礼は、どう答えたらいいのかわからず、黙っている。王子の右手側に座っているため、どうしても眼帯をした左顏に視線が注がれている。
「話してくれないのか」
「……私は結果としては夫の命を守りました。でも、本当は飛んでくる矢に恐れおののいて身動きができず、左目に当たってしまったのです。真実は夫を助けるために矢をも恐れなかったというわけではなく、すべてが偶然に重なったもので、王子様が興味を惹かれるような話ではないのです」
「ほう。叙情的な物語のある傷かと思って期待していたら、そうでもなかったのか。つまらぬの。しかし、私はもう一つお前には興味がある」
　傷への興味がなくなれば、帰ることを許されると思ったが、王子はまだ礼に興味があるという。
「お前は、須和の娘だと聞いたが。本当か？」
　この場に、須和の娘の話が出てくるとは思わなかった。どう答えたものかと思ったが、正直に言うしかないと思った。
「……はい」
「そうか。迷信のようなことだが。しかし、信じていればそれが真実になることもある。私も、須和家の娘の話をばかにはしていない。私のように王族の一人でも立場の弱い明日をも知れぬ者は、その娘の不思議な力に守られたいと思うものだ。お前は岩城の誰ぞの妻らしいな。岩城という家は持て余すほどの力を持っているというのに、須和の娘も手に入れているとは、あの家らしいな」
　礼はただこの場が無事に過ぎ去ることを祈った。須和の娘は他にもいるといいたかった。
「……どうした。飲まないのか。杯をとれ」　
　礼ははっとして、目の前の膳に載っている杯を取り、少し口をつけた。
　礼のその姿を睨むように見ながら、春日王子は自分の杯を呷る(あおる)。
「注げ」
　強い語気で命じられて、礼はにじり寄って王子の膳の上の銚子をとり、酌をした。
「お前、名はなんという」
「礼と申します」
「礼。今夜は帰しはしないぞ。私は須和の女の力を知りたいのだ」
　その言葉で決まった。礼の中にあった淡い希望は散った。礼は絶望的な思いで、王子が飲み干して差し出した杯に酒をなみなみと注いだ。銚子が空になり、礼は自分の席へ戻って膳の上の銚子をとった。
「お前も飲むのだ。酒を飲み、夜通し語るのだ」
　王子の言葉は、薄気味悪い洞窟の中に連れ込まれる合図のようだ。礼は添え帯の間に挟んでおいたものを帯の上から触った。
　ややを授かったと知ったその日に、他の男と共寝することになるとは。実言とややを汚すように思えてならない。礼は堪える自信がなかった。
　そうであるなら、これを使おう。
　礼は、帯の間から取り出した小瓶を手の中に隠し、そっと栓を抜いた。王子から手元が見えないように気をつけながら、自分の杯に注いだ。
　王子の部屋に入る前に、薬草など持っていたものは全て持って行かれた。身体も検められ護身用の短剣などを持っていないか確認された。その時にこの小瓶だけは見つからないように結った髪の中に隠し、部屋で待っている間に帯の間に差し込んだのだった。礼にとって最悪の事態になった時の手助けになるかもしれないと思い選んだものだった。
　それは、強い催眠を呼び起こす薬。怪我の痛みで眠れない者に飲ませて眠らせるのに使っている。この量であれば、身体への害はなく次の日には目を覚ます。去の邸での経験で知っている。
　これを飲み干ししばらくすれば、礼は眠ってしまうだろう。王子はどう思うかわからないが、礼はもう後戻りしない。どうしても今夜だけは、たとえこの先実言以外の男と同衾することがあっても、今夜だけは耐えられない。
　礼は、薬の入った杯を手に持ち、じっと見つめた。正体がなくなり、やがて寝ていることがわかった時、王子はどのような行動にでるだろうか。後戻りしないと決めたのに、躊躇する。礼はここにきて迷う自分にどうしたいのかもう一度問い直す。
「どうした。酒は嫌いか」
　王子の声が近くで聞こえると思ったら、王子が自分の席から立ち上がり、礼の側へ来ていた。王子は持っていた杯を一気に呷ると、礼の体に手を伸ばした。礼は驚いて、持っていた杯を置き、体を後ろへ引いたが、王子は右膝を付いて、それを支えに左足を大きく一歩前に出し、礼の体の行き場をなくして腕の中に入れた。礼に顔を近づけて、掬うように下から口を近づけて礼の唇に押し付けた。礼の体は春日王子に抱き留められていて逃げようがなかった。ぎりぎりと唇を押し付けて、王子は礼に口を開けろと迫る。礼は抵抗しきれず口を開けると、王子の舌と口に含まれていた酒がなだれ込んでくる。口移しに酒を飲まされるのを、礼は必死に抵抗をした。王子は左手に持っていた杯を手放すと、ぽとりと杯はその場に落ち、自由になったその手を礼の頤に添えて、上にあげた。礼はその手に従い真上を向かせられ、口は塞がれたままで口の中の酒は喉を通すしかなかった。礼が酒を全て飲んだら、王子はゆっくりと唇を離した。唇が離れる直前に強く吸われて、いやらしい音が鳴った。礼と目を合わせた王子は見せつけるように嗤った。王子は礼が膳に戻した杯を手にすると、それを一気に呷って飲み干した。礼は素早いその動作に何かの口実をつけて辞めさせることはできず、薬入りの酒は王子が飲んでしまった。
礼はその場で気を失いそうになったが、許されないことだった。
「来い。夜伽を命じる」
　すぐに、王子は立ち上がり、礼の腕を引っ張った。礼は、腕は引っ張られるが、体はついて行けずに、膝をついたまま王子との間で寝そべるような姿になった。
「どうした。立てないのか」
　王子は礼の両手を持ち上げて立たせ、腰を抱いて、一緒に歩いた。王子が座っていた席の後ろにあった几帳を避けることなく、王子は几帳を倒した。倒されたことによって、後ろに隠れていた今日の寝所が現れた。整えられている寝台の上に、礼は突き落とされるようにその体を投げつけられた。柔らかな褥の上に倒れる。しばらくして王子も寝台に上がった。着ていた袍を自分で脱いで、下着姿になっている。
　王子は寝台の上に投げ出された礼の足を掴んで引き寄せ、それを伝って、自分の顔を礼に近づけた。礼は顔を背けることもできず、目をつむって王子の次の行動を待った。
「左目を見せろ」
　王子は眼帯に覆われた礼の左顔を見たいと言った。礼はすぐさま左側に顔を背けて、王子に右顔を見せる。今にも王子の手が伸びてきて、眼帯を剥ぎ取ってしまいそうに思ったのだ。
「目は……もう目はなく、そこには穴を埋める肉が醜く垂れ下がっているだけです。気持ちのいいものではありません。どうか、傷を見せるのだけはお許しください」
　礼は懇願する。左手で左目を眼帯の上から押さえてその気持ちを強く表した。王子は、鼻で笑った。
「そうか、であれば、左目は無理にとは言わない。しかし、こちらに関しては無理も何もないからな」
　そう言い放って、王子は礼の腰の添え帯に手をかけた。強く引っ張られて帯は解けていく。背子を脱がされて、裳を留めている紐も解かれてしまった。礼は、体を棒のようにして王子にされるままに体を委ねるしかなかった。
　王子は礼と一緒に横たわると、礼の左頬に手を添えて、指の背で撫でた。礼はあからさまに嫌がることができず、目を閉じた。王子は礼の反応を楽しむように少し口の端をあげて薄らと笑みをたたえている。次に人差し指の腹で礼の唇をなぞると、礼はきゅっと唇を引き結んだ。何度か唇の上を往復して、無理やり礼の唇の端から親指を差し込んだ。礼はその指をくわえるしかなかった。
　王子はゆっくりとその指を抜くと、その手を礼の首筋から鎖骨まで這わせて衣の襟を持つと、大きく押し広げた。腰に巻かれた帯や紐は全て解かれているので、容易に襟は広げられて、礼の乳房が露わになった。王子は容赦なく礼の乳房を掴む。王子の顔が礼の胸に近づくのを感じで、礼は体をよじろうとしたが、王子に押さえつけられた。王子の熱い息を胸の上に感じで、礼はより一層目を強く閉じた。王子は裳の裾を手繰り寄せて、礼の膝までを露わにして、そこから、太ももへと手を差し込んだ。
「あっ！」
　礼はそれ以上王子の手が伸びてくることを心底恐れて、思わず声が漏れた。
「どうした？」
　今まで押し黙っていた礼が声を発したので、王子は動きを止めて礼の様子を伺った。
「私は興奮している。須和の娘を手にいれたら、私はどのような幸運に巡り合えるのだろうか。大王にでもなれるだろうか。もし、そのような時が来たらお前を妃にしてやろう」
　王子は喉の奥で笑って、礼の上に跨ると自分の腰に巻いた帯を解き裸になろうとした。その時、突然、礼の顔の左右に両手を突いた。
　王子の体はぐらついて、突いた手でも自分を支えられないほどになっている。
「くっ……お前！何をした！……」
　王子は自由のきかない自分の体の異変は礼の仕業と気づき、切れ切れに言った。その時には、突いた腕はもうその力を止めておくことができず、礼の右側に倒れこむようにして体を横たえた。
「……どうなるのか、わかっている……の……か」
　王子は最後にそう言って、目を閉じた。意識が抵抗しても催眠の作用に勝てなかったのだ。