Infinity 第二部 wildflower35

牡丹 小説 wildflower

 夜明け前。
 耳丸は自分たちが与えられた部屋の手前まで廊下を歩いて来て、立ち止まった。
 酒の匂いと女の匂い。礼は気付くだろうか。そう思うと、耳丸は部屋の中に入るのを躊躇した。しかし、明け方の廊下はひんやりと冷たく、部屋の中に入って横になりたかった。
 意を決して耳丸は部屋の中に入ると、部屋の中は、昨夜女たちに連れ出される時と同じだった。手前に自分の荷物があり、衝立の向うに礼が寝ていた。女たちが持ってきた膳が部屋の端に寄っているように思うのが、礼があの後起き上がって、食事をしたようだ。
 耳丸は円座の上にストンと座ると、無意識にため息をついた。
 衝立の後ろで身じろぎする気配がして。
「耳丸?」
 と礼に名を呼ばれた。
「……ん。なんだ」
「戻ったの」
「ああ。……休めたか?」
「あなたのおかげで、よく休めました。あなたも、休んで」
 礼はそう言うと静かになった。耳丸はごろりと横になり、近くにある上着を引き寄せて体を包むと眠りに落ちて行った。
 耳丸は目を覚ますと、とっくに陽は高く上がっていて、それに驚き跳ね起きた。
 耳丸はつい寝すぎてしまったと、焦った。
 礼はどうしただろうか?起きて動くのにも、男の偽りの姿がばれないように行動するのはいろいろな不都合や、気苦労もあるだろう。
「礼?」
「……ん」
 衝立の向うから、耳丸の呼びかけに寝ぼけたような声で返事があった。礼もまだ寝ているようだ。
 耳丸は安堵して起き上がり、部屋を出た。中庭の井戸へ行き、汲み上げた水を豪快に顔に浴びせかけて顔を洗った。冷たい水が頭をすっきりとさせ、酒の匂いを吹き飛ばした。近くにいた端女を捕まえて、手水のための水瓶と盥を借りたいと頼んだ。
 部屋の前まで運ばせると、後はこちらでやるからと追い返して、耳丸は部屋の中に盥を持ち込んだ。
「耳丸?」
 礼は起き上がっていて、衝立の向うで身を縮めていた。
「ああ、すまないな。一人にさせてしまって」
 礼は衣装を整えて座っている。水瓶から盥に水を入れて、礼の方に押しやった。
「ありがとう」
 誰に指図されたわけではないが、耳丸は衝立の方に視線を向けないように努めた。涼やかな水音をさせて、礼は身なりを整えている。
「後で町へ出よう。これから長旅になるから揃えておくものもあるだろうから」
 耳丸は言った。
 礼が身なりを整え終わって、衝立を部屋の隅に移動して向かいあって座っていると、廊下から足音がして部屋の前で止まった。
「失礼します」
 と言って遠慮なく昨日から何かと世話をしてくれる女中二人が入ってきた。
「お食事をお持ちしましたわ。お目覚めがまだでしたので、お待ちしていましたの」
 膳を持って入ってきた二人は、礼と耳丸の前に膳を置く。よく喋る女は、意味ありげに耳丸に横目で視線を送る。耳丸はそれを気づいていても意に介さず、礼の様子をうかがった。
「あら、こちらの方はとっても小さくてお綺麗。女の人かと見まごうようですわね」
 女中は不躾な視線を当てている。今まで礼は衝立の向こうで寝ていて、その姿をほとんど見せていなかったためついつい目が行ってしまうらしい。礼は、どうとも反応できなくて、ただ口を一文字に結んで座っている。
「こら。そんなに見るものじゃない。この方はお医者である」
 耳丸は声で制して、女たちを下がらせる。女たちは興味津々な様子を押さえ込んだが、不服そうな顔をした。
「御用がありましたら、なんなりお申し付けくださいませ。今夜もお食事、お酒、いろいろお世話させていただきますわ」
 女たちはくすくすと言葉の端々に笑いを含め、それを隠すために袖口で口元を隠す。なんとも意味深長な態度と視線で、耳丸は居心地が悪い。礼の前でこんな風に大っぴらに秋波を送られては、平然としていられない。
 昨夜、礼は耳丸が女たちと部屋を出て行った後、どこでどうしていたかを感づいているだろうか。
 女たちは耳丸を横目に部屋を出て行った。
 目の前に置かれた膳の上は粥と青菜だけの質素なもので、二人は黙って食事した。
「体の調子はどうだ?疲れは取れたか?」
 耳丸は食べ終わると訊ねた。
「ええ、昨日は寝てばかりでごめんなさい。耳丸には何から何まで世話をかけてしまってすまないと思っています」
 礼は耳丸に右目を向けた後、頭を下げた。
「あなたに強いてこの旅をさせているだから、休むときは私に気兼ねなくしていてほしい。先ほどの女中たちとも、私に構わずに過ごしてくれていいのだ」
 礼は茶化すこともなく言って、昨夜の顛末も予想がついている様子である。
 その後、二人は国府の置かれた町を回って、旅に必要なものを買い足した。何を見ても都には劣っている田舎の町であるが、礼は見るもの珍しく辺りを見回している。
 礼は昨日よりも顔色は良くなり、ここまでの旅の疲れを解消できたようだ。耳丸は時折振り返って礼の様子を見て安心した。
 夜になると、食事を持って例の女中が現れた。背筋を伸ばして泰然と座る礼に女中たちも医者の威厳のようなものを感じてか、軽口をたたく事なく静かに給仕をしている。食事し終わると、耳丸は自ら隅の衝立を出してきて自分と礼の間に置く。
「明日は遅くとも辰刻(午前八時)には発とう。ここからは知り合いもおらず、厳しい旅になるだろうから、今日はゆっくりと休もう」
 耳丸の言葉に礼は頷いた。
 灯台の明かりを小さくして、礼は衝立の向うで装束を解いて、くつろいだ格好になった。耳丸は衣擦れの音でその気配を感じて、食事し終わった膳を持って、女中が詰めている部屋へと行った。
 女中は人の気配で顔を上げて耳丸の姿を見咎めると、嬉々として寄ってきた。
「今夜も、お部屋でお話ししてくださいな。明日はここをお発ちになるのでしょう。名残り惜しゅうございます。どうか、昨夜のような夢物語を」
 と、女中は囁いた。
 どうも部屋に帰ってそのままというわけにはいかないだろう。女たちは今夜も放してはくれなさそうだ、と耳丸は思った。

 礼は目覚めると、耳丸が隣で寝ていた。部屋を出て行ったことは知っていたが、今部屋にいるということは早くに戻ってきたようだ。礼に気を使って、夜明けを待たずに戻って来たのだろうか。寝入って間もない事だろうから、礼もそのまま横になって目をつむった。
 気が逸って目が覚めてしまった。束蕗原からこの美田国までの三日の道のりに、思った以上に体はこたえていて寝てばかりで過ごしてしまった。耳丸も、ほら見た事かと思っているかもしれない。まだあと一月はかかるであろう旅を始めたばかりでこのような体たらくでは、いつ見捨てられるとも限らない。しかし、気持ちは早く飛びだしてより実言の近くに行きたい。旅を始めてから、実言は夢に現れない。それが何を示しているのかわからない。それを知るためにも、この道を耳丸に連れられて向かうしかないのだ。
 夜も明け、外がはっきりと明るくなると、耳丸は目を覚ました。飛び起きるようにして体を起こすと、礼はその気配に気づいて、身じろぎした。耳丸はバツが悪そうに礼の様子を見たが、視線は合わせないようにした。無言ではあるが、お互い起きて上がって身支度を整えると、時間よく女中たちの足音が聞こえてきた。
 廊下を歩く足音は、礼たちの部屋の前で止まり、声とともに入ってきた。
 出立の朝だからか、膳の上のものは品数が多い。女中たちはあっさりと部屋を出て行くが、女の視線は耳丸を射止めて放さない。
 食事も終わり、荷物の整理をして耳丸は世話になった柿麻呂のところへ行く。働いている柿麻呂を捕まえて今から出立することを伝えた。
「はっきりとしたことは聞こえてこないが、戦局は大王に不利だとの噂が。実言様もご苦労されていることだろう。無事に実言様のところまでいけるように祈っているよ」
 耳丸は何度もお礼を言って、部屋に戻り後片付けをして礼とともに厩へ行った。馬を連れ出している時に、後ろから名前を呼ばれた。
「耳丸さん。これを」
 よく喋る方の女中が立っていた。耳丸に近寄り、胸に抱いたものを差し出す。固い飯や果物などを包んだものを押し付けるように手の上に置いた。これからの道中で食べろということだろう。
「お帰りの時も、こちらにお立ち寄りくださいな。私は忘れたりはしませんわ」
 背の高い耳丸の耳元に届くように背伸びして、口を寄せて囁いた。耳丸も気持ちほど体を傾けて女の声を聞き取ろうとした。
「いろいろと世話になった」
 耳丸はお礼を言った。
「気をつけて行ってらっしゃいまし。道中の無事をお祈りしています」
 その時、耳丸は女の目尻にじんわりと浮かぶものを見た。
 情をかけられるのを煩わしいと思うこともあったが、こうして最期までこまごまと世話を焼いてくれる心は嬉しく、昨夜、耳丸の腕の中の女を思い出した。
 女は馬を引いて屋敷を後にする二人が見えなくなるまで手を振って見送った。

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