Infinity 第二部 wildflower37

山の中 小説 wildflower

 遊佐国も半ばまで来た。国府が置かれている伊神は、拓けていて市も立ち賑わっている。海が近いため海産物のやりとりが目立つ。礼は見たこともない珍しい海のものに興味津々で辺りを見回しながら歩いている。旅に慣れてきたため、体調を崩すこともない。その道のりは順調だったが、伊神の地に入ると、とたんに雨の日が続いて足止めを食らった。
 礼の顔にはこんなところで足止めを食らっている暇はない、と書いてあるが、悪天候の中を無理に進んでもいいことはなく、耳丸は雨が上がるのを待つことにした。三日目の昼に、風が勢い良く雲を押し流し、その上に隠れていた青空を見せはじめた。今から出立しても野宿することになるだろうと礼に言っても、礼の答えは少しでも先を急ぎたい、だった。礼の逸る気持ちを思いやって、耳丸はすぐに借りていた部屋を発つことに決めた。
 礼の表情は明らかに喜びで溢れ、ゆっくりと休んだ馬の上に飛び乗り、少し速足に駆けらせた。馬もじっとしていられないという感じで、礼の気持ちと呼応するように快調に先を進んだ。
 伊神の地から離れると、その道のりの景色はがらりと変わった。北方へ続く道は苦労して人の手により作られたものだろう。険しい山の中を切り開いた狭く細くて、両側を背の高い木が生い立っていて、この先の道のりの苦労を予感させるものだった。
 山を一つ越えたところで、日が暮れて野宿をすることにした。耳丸と礼は小川の近くの少し拓けた場所を探して、馬を留めて、火をおこし携帯していた握り飯で食事をした。
 伊神で三日間の足止めをくらったが、食べ物の用意は十分出来て、この先当分の間食べるものの心配をすることもない。
二人は焚き火を囲むように横になり、眠った。
 耳丸は何も言わないが、夜通し火が消えないように数刻起きに目を覚まして、火の番をしていた。今も火が小さくなりかけているので集めていた小枝を投げ入れて、火を絶やさないようにした。礼は、久しぶりの馬上に疲れたのか向こうを向いて、眠っている。静寂の中、投げ入れた小枝が爆ぜて大きな音がしたのと同時に、遠くで獣の遠吠えが聞こえた。大きな町を離れれば、そこは野生の獣たちの住む世界だと思い知らされる。鳴き声は遠くなので、今いる場所は安全だろうと、耳丸は再び横になって眠りに落ちた。
 明け方に、礼は耳丸の鋭い声と強い力に揺り起こされた。驚いて飛び起きると、耳丸が険しい顔で礼のとなりに片膝をついて座っている。
 何?と目で問いかけると。
「馬が逃げた」
 と言った。
「えっ!」
 礼も右目を見開いて、そのあとは言葉が出ない。
「二頭ともだ。探してくるから、あんたはここで待っていてくれ」
「私も行くわ」
「いや、ダメだ。疲れているだろう。無駄に体力を使うのは良くない。必ず俺が見つけてくるから、ここで待っていろ」
 こんな山の中で自分にどれだけのことができるか、礼も役に立たないことはわかっていりから、耳丸の言うことに従うしかなかった。
「では、行ってくる。火を絶やさないようにして待っていてくれ」
 耳丸の力強い言葉に、礼は頷いて見送った。
 馬は実言の所まで連れて行ってくれる大事なものだから、しっかりと木の枝に繋いでいたはずなのに。また、綱が解けて逃げる馬の様子に二人とも気づかずに眠りこけていたのは、情けないものだった。
 礼は耳丸に言われたように火のそばを離れず、木を焼べて燃やし続けた。耳丸を待つ時間はとても長く、やりきれなかった。燃やす小枝が少なくなると、火の傍から離れないように近くの枝を拾って歩いた。しかし、昨夜のうちにあたりにある焼べるのに適した枝をおおかた拾っているため、礼は枝を探していると気づかずに火から離れて遠くへ向かって歩いていた。枝集めに集中していないと、不安な気持ちが心を埋め尽くしていって、居てもたってもいられなくなってしまうので、夢中で枝探しをしていたら遠くで自分を呼ぶ声がした。
「礼っ!れーいー!」
 自分の遠く後ろの方で、耳丸が礼の名を呼んでいる。
 礼は今手に持っている拾った枝を懐に収めて、耳丸の元へと走って行った。
「耳丸!」
 焚火の周りをウロウロしていた耳丸は草むらから飛び出してきた礼にいきなり怒鳴った。
「どこに行っていた。離れてはダメだろう!」
「火が消えてしまいそうで、枝探しをしていたの」
 耳丸は大きな息を一つ吐き、礼を見下ろした。
「馬は一頭見つかった。もう一頭も近くにいるはずだが、あんたが心配で一旦戻ってきた。昨夜は獣の鳴き声がしていたから、馬たちはそれに驚いたのだろう。獣がきたら危ないから、あんたも木の上に上がっていろ。枝は全てここに焼べておけばいい」
 そう言って、耳丸は、礼を近くの木の上に上げて、太い枝にまたがらせた。必要な荷物も上げて、枝に吊るす。
「あんたが、木登りが好きで助かったな」
 躊躇もなく木に登る礼に手を貸しながら、耳丸は憎まれ口を叩いた。
「もし、もう一頭の馬を見つけるのに時間がかかるようなら諦めるかもしれない。そんなに遅くならないように戻るから、くれぐれも木から下りて遠くに行くことがないようにしろよ」
 そう言い置いて、耳丸は見つけ出した馬を連れて林の中に入って行った。
 どうか、もう一頭の馬も見つかって欲しいと願いながら、礼は幹に背を預けてしばしの安心を味わった。
 礼は何ごとも起こらない木の上で、まんじりともせず耳丸の帰りを待った。陽はどんどん高くなり、刻ばかりが過ぎていく。ずっと待ち続けるのも詮ないものである。礼は耳丸の気配が近づいてこないか、じっと耳を澄ましたり、馬の嘶きが聞こえないか耳をそばだてたりした。数刻が過ぎても耳丸は帰ってこない。木の上で同じ体勢でいるのも疲れたし、喉の渇きをおぼえて礼は我慢しきれず木から下りた。着るものや、食べ物を入れた袋は木の上にあげたが、水の入った筒を上げるのをうっかり忘れていた。
 礼は筒の水を飲み干したら、新たに水を入れておく必要があると思って小川に向かった。焚き火がだいぶ下火になったので、新たに焼べる枝を小川への行き帰りの間に拾っていた。
 一方で、耳丸は見つかった一頭の馬の上でもう一頭の行方を探していた。一頭だけが遠くに行ってしまうことはないだろうから、近くにいるだろうと考えた。しかし容易には見つからずに、焦燥がこみ上げたところに、小川のほとりで水を飲んでいるもう一頭を発見した。時間がかかってしまったが、馬一頭失うとこの先の道のりにどれほどの時間がかかるか、計り知れない。耳丸はほっと安堵して、静かに馬に歩み寄りその手綱を掴んだ。
 もう諦めなくてはいけないかと思い悩み始めたときの幸運だった。礼もさぞ喜ぶだろうと思って、耳丸は二頭を連れて、礼の待つ木の元へと向かった。
 急いで帰って、木の上を見あげると、礼はいない。
「礼っ!」
 耳丸は驚いて、叫んだ。
 もしや、礼の身に何かあったのではないかと不安がよぎった。すぐに馬二頭を固く木に繋ぎながら。
「礼!礼っ!」
 と立て続けに呼んだ。なんの反応もないのは、礼が遠くに行ってしまったからなのか。
 獣でも出たか?耳丸は一抹の不安がよぎった。獣に驚いて下におりたのだろうか。何か下におりなくてはいけない理由が出来たのか?それは何か?いろいろな考えが頭をよぎったが、耐えきれず声を張り上げて名を呼んだ。
「れーい」
 礼は小川から戻る道途中で小枝を拾っているところだった。
 やっと耳丸が帰ってきたと喜びが先に出てきたが、自分が木の上に居ないことがわかって呼んでいることにすぐに気づいた。耳丸の声の様子からして、とても心配してくれていることがわかった。決して悪気があって消えたわけではないが、礼を見つけたら怒るだろうと予想できた。居ても立っても居られず礼は駆け足で木の元へと戻った。
「耳丸!」
 礼が反対の林から飛び出してきたのを見て、耳丸は内心安堵したがすぐさま怒りがこみ上げてきた。
「どこに行っていたんだ!」
 耳丸の前に立った礼につばが飛んでくるほどの激しさで怒鳴った。あまりの剣幕に、礼の体は小さくなった。
「水を汲みに行っていたのよ」
 小さな声で答えたが、耳丸の怒りは収まらなかった。
「どうして我慢しない。獣に襲われでもしたらどうするんだ!」
 礼は、さっきまで登っていた木の幹まで後ずさりして、最後に行き場を失くしてそれに背を預けて、耳丸の怒りに耐えた。耳丸は幹に片手を付いて、礼ににじり寄った。
「お前は、いつもいつもどこかに消えて心配させる!何を考えている!」
 礼は耳丸の迫力に思わずぎゅっと目をつむった。
 なんと間の悪いことだろうか。昔から、自分はいなくてはいけないときに、どこかに行ってしまって相手を待たせて心配させる。実言にも、同じように心配させていたっけ。決してそうしたいわけではないのだが、なぜかそうなってしまう。
 耳丸はいまにも礼に襲いかからんばかりに、上体をギリギリと礼の上に覆ぶせた。幹に突いた手がしなって礼を打つ衝動を我慢した。
「俺の命がいくつあっても足りない。もう心配させないでくれ」
 耳丸は、幹に突いた手を下ろして、礼に背を向けた。
「ごめんなさい、耳丸」
 礼は少ない言葉を言って、木の根元に座り込んだ。耳丸も自分の怒りを鎮めるために、礼から離れて焚き火の前に座った。しばらくの間、無言の時間が過ぎた。たまに馬の嘶きや鼻息が聞こえて来るくらいである。
 二人旅の辛いところだ。とりなす者がいない。怒りが収まっても、どうやってこの重くるしい空気を変えていったものか。
 耳丸はそう考えていたら、自分の腹の虫が盛大に鳴いた。あまりの大きな音に、思わず腹の上に手を置いて押さえた。きっと礼の耳にも聞こえていただろう。きまり悪さに耳丸はじっとしていた。
「耳丸、心配ばかりさせてごめんなさい」
 礼はしばらくして耳丸に恐る恐る声をかけた。
「……食事しよう。朝から何も食べていない。私もお腹が空いてしまった」
 礼のあっけらかんとした声に耳丸は振り向いた。
 木の上にあげていた荷物を礼は一人下ろすのに格闘している。やっと下ろして、伊神で用意した携帯食を取り出して、水の入った筒と共に耳丸の前に置いた。耳丸の斜向かいに礼は座った。
「耳丸。あなたに心配をかけないようにと思っているのだけど、私はどうしてもそれができないらしい。こんなことは実言とも何度かあって、私は自分のじっとしていられない性分をつくづく思い知った。あなたという先導がいなければ何もできないのに、あなたの言いつけが何一つ守れないなんて情けないこと。だけど、どうか私を許してほしい。この通りよ」
 礼は正座して、ゆっくりと頭を下げた。
 耳丸はどう答えたものかわからず、無言で目の前の握り飯を頬張った。礼もその様子を見て自分の握り飯を手に取った。
 食事が終わると、耳丸はいつまでもこんな気持ちを引きずっているわけにもいかないという思いに至った。礼も自分の非を認めて歩み寄っているのだから。
「そろそろ行こうか。遅れを取り戻さないと」
 食べ終わると耳丸は独り言のように言った。
 礼は弾けるような笑顔で立ち上がり、馬のそばに走った。二人は馬に飛び乗り、整備された道へ合流した。

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