Infinity 第二部 wildflower47

花 小説 wildflower

 夜明け前。
 礼は一人起き出した。黙って小屋を出ようとしたが、耳丸が起きてしまった。そして、耳丸は用心棒のつもりで礼の水浴びに付き添った。女であると悟られないようにするのは大変だった。体の輪郭を出さないように着込んでいる礼にはこの夏の暑さは地獄のように辛いだろう。
 男の耳丸のように、上半身を脱いで、川の中に飛び込むようなことはできない。暑くても、水に浸した布を首に巻いたりして、頭の先から水に浸かったのは本当に久方ぶりだろう。
 夜明け前の静かな時間に、礼は単だけの姿になりゆっくりと膝を折って浅い川の中でこの数日間の泥や汗、涙を流れ落とした。村からだいぶ離れたところまで来たので、誰も見ているものはいないはずだが、二人とも黙ったまま。耳丸は川岸近くの木にすがって後ろの水音を聞いていた。
 耳丸はその涼やかな水音に聞き入りながら、実言のことを思った。
 実言の姿は衝撃だった。あのような劣悪な環境の中、生きていると言われても信じられないほどに痩せて枯れ木のような姿で、自分の意思を示すことも通すこともできず、供の者達もなんの術もなく時が過ぎるのを待つだけだった。もし、自分が一緒に戦に付き添って、実言のそばにいればこんな姿にはしなかった。
 と、唇を噛んだ。
 そして、礼は医者としての役目を淡々とこなしていたが、誰も見ていないと思ってか、横穴の岩の方を向いてしっとりと涙を流すのを耳丸は見ていた。ぴんと背筋を伸ばして、小さく揺れる肩を抑えようとする姿にいい知れぬ思いが湧き上がってくる。
「耳丸」
 気づくと礼は川から上がって、清潔な衣服に着替え終わり、耳丸が寄りかかっている木の後ろに来ていた。小さな声で囁く。
「ありがとう。さっぱりしたわ」
 小屋に戻ると、村の女が食事を持ってきてくれていた。二人はそれを黙って摂ると、礼は薬箱を担ぎ、耳丸は水筒や水を入れた桶を持って実言のいる横穴に行った。
 礼達が沢を越えて岩を上り、岩穴の前にたどり着くと、夷を警戒して山の奥へと入っていた楠名達兵士が戻ってきていた。奥に数人の兵士がいる大穴の前に楠名をはじめとする兵士十人ほどが立ったり座ったりしてくつろいでいた。村人が兵士のために蒸したヒエを持ってきて、兵士達はそこらに生えている葉の上に盛って思い思いに食べている。
 楠名が近づいてきた。
「今朝の実言様はとても穏やかに眠られていた。そちらのお医者の治療が効いているとみえる」
 礼は頷いて、大穴の上にある実言がいる横穴へと向かった。
 入り口前には、それとわからないように前を覆っているシダをどけて、礼を先頭に皆が背を縮めて入っていく。楠名は自分の代わりに指名した男を横穴の中に入れた。
 実言は昨日と同じ姿で寝ていた。昨日着替えさせた肌着は、足の傷や床ずれしたところから滲み出る血や蒸し暑い穴の中で噴き出す汗や尿で汚れていた。
 礼、耳丸、男で実言の体を動かし、実言の下に引いた藁をどけて掃除した。汚れた肌着を脱がせて、体を拭く。耳丸は赤子のようにされるがままの実言を憐れに思う反面、その姿に怯むことなく淡々と実言の世話をする礼に感嘆する。
 礼は実言の左太ももの傷を診る。昨日吸い取った膿が溜まっているのを見ると、躊躇なく口をつけて吸い出した。赤い血が礼の唇を濡らし、凄惨な姿だ。礼は手ぬぐいの上に吸ったものを吐き出した。次に礼は患部に水を注いで洗い始めた。相当な痛みがあるらしく、実言の体は自然と暴れた。食いしばった歯の間から苦悶の唸り声が漏れた。耳丸と男は慌ててその体を抑える。実言の顔がどんなに苦痛にゆがんでもやめようとしない。これが、実言を救う道だと信じているのだ。礼が手ぬぐいを出して傷の周りを拭いた。
 耳丸はホッと息をついて、実言の体を押さえつけていた手から力を抜く。
 新しい清潔な肌着を着せて、きれいな藁を引いた上に移動させると、礼は耳丸に水筒を渡し、実言に飲ませるように手振りで指示する。
 耳丸は水と、粥の上澄みをすくって実言の口の中に入れる。礼はその様子をじっと見るだけだ。身じろぎせずにじっと見つめている様子は何を思っているのか、わからない。
 少量の粥を食べさせ終わると実言は規則的な寝息を立てているのを確認して、礼達は横穴を出て、下の大穴に向かい、昨日と同じように五人の動けない兵士を治療した。そこでは軽傷である兵士たちが助けて、寝たきりの負傷兵に水を飲ませたり、蒸したヒエを食べさせたりしていた。
 一通り治療を終えたら楠名に誘われて、洞窟から離れた場所に来た。
 楠名は適当な岩の上に腰かけ、礼と耳丸もそれに倣った。
「ここにたどり着いたのは一月くらい前だろうか。ここに着くまでに、山の中をさすらい、何人もの兵士を死なせてしまった。また、動けなくなった者を置き去りにしてきた。もちろん、我々を見限って自ら逃げる者もいた。この村にたどり着き、村の者を説き伏せて匿ってもらい、負傷していない何人かを若田城へ向かわせたが、無事にたどり着いたのかさえ分からなかった。実言様が怪我を負われて日に日に弱っていかれて、どうしたらいいのか分からなかった。あなた方が来てくれて、どうにか助かる道が拓けたような気がする」
 楠名の言葉に耳丸が返した。
「若田城では、ここの場所がわからないため、助けを寄越せないようでした。私たちも途中で夷に遭遇したので、ここら一帯は大王と夷の支配が入り混じって、容易に近づけない場所でしょう。しかし、なんとか目印をつけておいたので、今度は正確に若田城の高峰様にお知らせできるでしょう」
「誰かを若田城へ送ろう。実言様をお助けするためにも」
 楠名は頷いて、一人遠くで立ってこちらを見ている男に目を向けた。
「もしかしたら、あの者を知っておられるか?岩城の邸に仕えている者です」
 男は近づいてきた。先ほどまで横穴に入って一緒に実言の世話をしていた男である。
「耳丸。私だよ。三佐古だ」
「三佐古……」
 耳丸はすぐに思い出した。実言がこの戦に指名して連れて行った右腕である。恰幅のいい体だったが、見る影もなく痩せ細っていて、誰だかわからなかった。
 この男のおかげで自分が信用されたのだ。耳丸は合点がいった。ありがたい。
「このお医者は?」
「ああ、この方は瀬矢様です」
「片目の……」
 三佐古が呟いた。三佐古は、岩城の邸に仕えている男である。普段は大臣である園栄の元についているが、実言の下でも働くことがあり、耳丸も時々顔を会わせていた。実言の妻が片目で医者のようなことをしていることを知っていておかしくない。
 姿は男でも、何か感じるものがあるのか、意味深げに呟いた。
 しかし、それを心の中に一旦押し込めた三佐古は楠名の後を引き取って話し始めた。
「実言様をどうか、若田城まで連れ戻したい。そうしなければ、将軍である川奈麻呂様の思うつぼのように思う。どうも、我々を戦場の最前線へ押し出し、孤立させようと画策した節があるのだ。夷との決戦で大掛かりに対峙したが、こちらが最初は押していたのに、味方の別の軍団がいつの間にか引いていて、こちらが不利になってしまったのだ。それで、我々も一旦引くことにしたが、退路に夷が回り込んできて逃げられなくなってしまったのだ。だから、前進して夷の中を突っ切って突破し、転々としてからこの村までたどり着いたのだ。綿密に軍の動きは確認していたのに、隣の軍隊の動きは全く用意したものとは違い、実言様以下我々は裏切られた気持ちで失意のまま敗走し、多くの仲間を失った。実言様自身も怪我をなされた。気丈に振舞われたが、傷口は開くばかりで、とうとう歩くこともままならなくなり、この村に留まることになったのだ」
 三佐古の話を聞き終わると、耳丸は反射的に問うていた。
「なぜ、実言様の軍団を嵌めようとしたのであろうか」
「岩城家の勢いを削ぐためではないか。王族の中には、臣下である岩城家の力に危機感を感じておられる方もいる。噂では、大王の弟君である春日王子は臣下の力によって大王の判断が左右されることを問題視されているらしい。特に岩城家を警戒されているときくから、実言様はその標的にされたのかもしれない」
 耳丸は頷いた。礼はここにきて、春日王子の名を聞くことになり、心の臓が一度飛び上がった。
 再び礼たちは実言の寝かされている横穴に戻り、実言の様子を見た。床ずれを酷くしないために、礼は実言の足の傷を見ながら体を横にしたりして、同じ姿勢で寝かせないようにした。そして、落ち着くと、冷めた薬湯と水を耳丸が飲ませた。最後に、痛みを忘れてしっかりと眠りについて欲しくて礼は催眠を誘う薬を飲ませて、礼たちは村へと帰って行った。
 小屋へ戻ると、村の女が現れて、うちに来てほしいと頼んできた。礼は耳丸を見上げ、一緒に来いと目で合図した。縦穴を掘って、その中に木を組んで屋根を葺いた家の中には、年老いた女と子供が三人いた。幼い二人の子が横になっているので、この子供の体調が悪いのだろう。
 礼は近づいて、体を触って様子をうかがった。竃を使わせてほしいと、耳丸を使って頼み、薬草を煮出して、これを子供の飲ませろと指示した。
 翌日、その女は芋の煮たものをもって感謝を伝えに来た。どうやら、子供は元気になったのだろう。
 礼の薬草の知識は村の女に感動を与えたようだ。村の子供から年寄りまで体の調子が悪い者がいれば、礼の薬湯をねだりにきた。女たちの信頼が、村の男たちを動かして、礼と耳丸の住む場所と食事は守られている。
 礼が実言の治療を始めて七日目。いつものように汚れた肌着を脱がして、体をきれいに拭いていると、実言はうっすらと目を開けた。
「実言様!」
 耳丸はその様子を見逃さず、実言の首の下に腕を回して、揺するように呼びかけた。ひたっと耳丸と目を合わせたが、すぐにまた目を瞑ってしまった。
「実言様……」
 耳丸はもう一度呼びかけたが、実言は辛そうに眉根を寄せて意識を失った。
 十日目。礼は今までと同じように治療をした。
 この頃は太ももの膿も治まり、傷が塞がるのを待つのみであった。体を拭いて、きれいな肌着に着替えさせて、仰向けにすると、実言はしっかりと目を開けていた。
「あ……」
 視点の定まらない中、実言は何かを訴えかけるように声を発した。すぐに耳丸は気づいて。
「実言様」
 耳丸の切実な呼びかけに、実言は声の方へ視線を移した。
「……み、み」
 そう途切れながら言葉を続けたが、その先は声にならなかった。
 耳丸は実言の上半身を自分の膝の上に乗せて、水や薬湯、粥をゆっくりと口の中に入れてやる。口をゆっくり動かして咀嚼して飲み込む実言を礼もじっと見つめた。
 昏睡状態だった実言は、その状態を脱したようだ。
 実言の意識が戻ったことを楠名や三佐古にも伝えた。二人は希望を持ったようで、若田城に使者を送ることを本気で考え始めた。
 それからも実言は少しずつ回復していった。目を開けても空を見るだけであるが、自分の置かれている状況がわかっているようだった。
 耳丸は二人以外誰もいない、小屋の中で、いつも瀬矢と呼んでいる背中に。
「礼」
 と呼びかけた。
 太ももの傷口は癒えていき、意識もはっきりした実言は黄泉の国から遠ざかったといっていいだろう。死の淵から救い出したのは言うまでもなくこの礼なのだ。
「実言はもう大丈夫だろう。俺が誰だかもわかっている」
 礼はうんうん、と二回頷いた。
 礼は改めて耳丸に言われて、自分でも実言はもう大丈夫だとわかっていても、じんわりと涙が浮かんでくるのだった。
 礼という女が実言のそばにいなければ、実言は命を失っただろう。どれほどの美しい女が妻であったとしても、実言を生かすことはできなかった。耳丸はどれほど礼を罵って、実言から引き離そうと画策したことか。今は礼の前にひれ伏して、感謝を言わなくてはならなかった。頼もしい女であり、実言の最高の妻だ。
「おまえはわかっていたんだな。実言を助けてくれて、ありがとう。おまえでなくてはならなかった。おまえが実言の妻でなくては、ならなかったのだ」
 礼は、微笑して首を左右に振った。耳丸は、自分にだけわかる礼の女人の匂やかな表情を心に留めた。

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