Infinity 第二部 wildflower48

小川 小説 wildflower

 十四日目。
 礼と耳丸、三佐古は実言のいる横穴で、いつものように体を拭いてやり、肌着を着替えさせ、傷口の具合を見て、水や粥、果物の果汁を飲ませに来た。
 礼が傷口を見て塗り薬を塗ると、体を疼く痛みがあるのか、目をつむって静かにしている実言は思わず、苦悶に顔を歪めて体をよじった。耳丸はとっさに実言の上半身を押さえた。実言が静かになると礼は、実言の傷口に清潔な麻の布を巻いた。
手当が終わると、礼は耳丸に水筒や粥を入れた筒を渡す。
「実言様。食事です。さあ」
 先ほどまで苦悶に顔を歪めていた実言に、耳丸は声をかけた。耳丸は実言の上体を起こし、背中から抱いて水筒の縁を実言の唇につけた。
「……みみ、ま、る」
 水筒から水を飲み終えると、実言はひたっと耳丸を見て、途切れ途切れに呟いた。
「はい」
 耳丸は返事する。
「次は粥を食べください。あなたを待っている者は多くいるのです。早く回復して若田城へ帰らなくては」
 そう言って、粥を匙ですくって口の中に入れてやる。実言はゆっくりと粥を噛みながら喉を通す。持ってきた粥をみな食べ終わると、実言は再び耳丸を見て、口を開こうとしたところを。
「私がここにいることは、後で話します」
 と先を制した。
「……こんな姿を……世話されるとはな……」
 実言は口の端を曲げて自嘲的に言った。
「私を連れてこないから」
 連れて来れば、こんな目には合わせなかったと耳丸が言外に込めて言うと、実言は微かに笑った。実言は礼を守るために耳丸を束蕗原に留めたのだが、結局耳丸がこの戦場にいる奇妙さである。
「体力をつけて、早く元気になってくださいませ」
 耳丸は村人から配られた枇杷の実をむいて実言の口の中に入れた。実言は口に入れた果物の甘みに癒されるように目を閉じた。
 礼は、いつもなら傷を診た後その場で食事を摂る実言を見守っているが、実言の意識のはっきりした今では、少し後ろに下がって、実言に気づかれないように息を潜めている。
 実言の治療が終わると、耳丸を残して礼達は横穴を出る。そして、大穴の傷ついた兵士の治療に向かった。快方に向かう者、容態は横ばいの者様々だが、礼は一生懸命に手当をした。兵士たちも突然現れた隻眼の医者に驚きながらも、丁寧な治療に体が楽になっていくのを喜んだ。決して言葉を発しない医者の瀬矢に感謝の言葉が送られた。
 村に帰って来た礼は医師の瀬矢として、村の女たちに村の周りの林に生えている草の中から薬になるものを教え、一緒に摘んだ。数日前からは摘んだ薬草を筵の上に広げて干して、薬草作りを始めたのだ。医者として信用を得た結果だった。
 女たちは喋らない礼の身振り手振りを読み取って学んでいく。そして、お礼の気持ちを表して生り物を礼の袖に入りきらないほどくれるのだった。
 村人の洗濯場となっている川岸に行って、他の女たち一緒に実言の肌着や耳丸の衣類を洗って、馬小屋に戻ってきたら、あとを追うように耳丸も小屋へ戻ってきた。
 実言と二人っきりで話した耳丸は、入るなりそのことを告げた。
「実言になぜ俺がここにいるかを話した。礼が医者を連れて実言のところに行けというから、医者と一緒に来たとね。連れてきた医者が誰だかは話さなかったが、もう、医者が誰だかわかっているだろうがね。苦しい嘘かな」
 礼は黙って聞いている。
「子供のことを気にしていた。無事に生まれたと告げた。目を細めて喜んでいたよ」
 礼は頷いて、顔を両手で覆った。
 十九日目。
 実言は筵の上で自分から体を動かして寝返りを打つことができるようになった。食事の時は耳丸や三佐古の手を借りて上半身を起こし、耳丸の手から粥を口に入れてもらうが、自分で匙をすくって食べることもできるようにまでなった。
 実言の姿を憐れに見せていた伸び放題のボサボサの髪は整えられ、頬を覆っていた髭も剃って、こざっぱりとした姿になった。
 二十日目。
 礼は一日に一回、実言のもとを訪れて、傷口を診て、体をきれいに拭いてやり、清潔な肌着に着替えさせた。礼一人では実言の体を動かせないので、いつも耳丸か三佐古がそばについて手を貸した。
 この日も、耳丸と共に横穴に入って傷を診て、肉がもり傷口が塞がろうとしているのを確認して、体を拭いた。汗や土のついた体をきれいに拭いている時に、持ってきた桶の水を替えてくると耳丸が外へ出て行った。このようなことは今までにもあったことだが、楠名や三佐古のどちらかがいて、礼と実言が二人きりになることはなかった。この時は、楠名も三佐古も連れていなかった。
 礼は実言の左側に座って、実言の腕を取り、肩から指先までを手ぬぐいで拭いていた。二人きりになったことには気付かずに実言の体を拭くことだけに集中していたのだった。
 腕を伸ばしたまま指先を拭いていると、ふっと軽くなる。そして、それまでされるがままの手が意志を持って礼の頬へと伸びてきた。実言の左手の甲が礼の左頬に触れる。礼は驚きと共に咄嗟に実言の左手を握り、自分の左頬にその甲を押し当てて頬ずりした。
 そっと実言の顔を見るが、実言は顔を上に向けたまま目を閉じている。
 礼は、自分の頬に押し当てた甲を口元に持ってきて、そっと口付けた。甲から、指先へと唇を移動させて、中指の背に礼は自分の唇を押し付けた。実言への思いが溢れて、抑えようにも抑えきれない気持ちだ。再び、実言の指は意志を持って動き、その指先は礼の下唇をそっとなぞるのだった。礼は、なぞる指先をそっと口へ含んで吸った。
 隙間を縫ったようにできた二人だけの時間に、礼と実言は何も言わずにただ濃厚に触れ合った。
 入り口に背を向けている礼は、その背後に人の気配を感じて、ゆっくりと実言の腕を下ろした。
「お待たせした」
 耳丸が水を汲んだ桶を持って現れ、礼は実言の腕を筵の上に置いて、手ぬぐいを桶の中で洗った。耳丸がゆっくりと実言の上半身を支えて、起こしてやる。起き上がると持ってきた水や食事を摂る準備をする。実言も寝たきりの体を早く動き回れる体に戻したいとの思いが強く、体を起こして自らの力で自分のことをする時間が長くなっている。
 礼は、そっと着替えさせた肌着や桶を持って横穴から外に出る。食事は耳丸の担当だから任せる。礼がいないことで、話せることがあると思った。
 礼は耳丸から若田城への使者を出し、応援を頼む計画が進んでいることを聞いた。大王と夷の支配の入り混じる地域で、若田城の政庁も把握しきれていない場所から、再び若田城に人を遣るのだ。今までに二度ほど人を遣って、そのうちの一回は兵士が若田城までたどり着いて、礼達がここまで来るきっかけになった。耳丸が残してきた印と記憶を頼りに今度こそは若田城から救援を呼ばなくてはならない。
 二十五日目。
 この日は、若田城に送る使者として選ばれた二人の兵士が旅立つ日である。まだまだ体力の戻らない実言ではあったが、横穴を出て若田城に行く兵士を見送りたいと言った。
 耳丸と三佐古が実言を左右から支えて、横穴から出た。外に出た実言は、約五十日ぶりの外界であり、その明るさに目が眩んでいる。横穴の前で、実言が外の明るさに慣れるまで時間を置いた。見上げたら空を覆うほどに高くおいたっている杉の木の森であるが、その上から差す陽射しは妨げられず、柔らかな陽は実言のもとまで届いた。
 戦いに出る時に着けていた上着や袴を簡単に着せ掛けて、再び耳丸と三佐古に両方の脇の下から支えらえて、岩場を下りて、下の大穴へと向かった。左足を突くと痛みが走るのを、歯を食いしばって耐えながら、やっとのことで生き残った兵士たちのいるところへと下りて行った。兵士たちから、「おお」と感嘆の声や、「実言様」と名を呼びその姿に感じ入る者もいる。楠名は兵士たちに実言について多くを語らないため、すでに実言の命は費えたと思っている者もいた。それが、人に支えられながらもこうしてしっかりとした表情をして実言が現れたことに皆は希望を見出した。
 薄暗い岩窟の中ですっかりと白くなり、痩せこけた顔ではあったが、その目にはしっかりとした力がこもっており、周りの者を安心させた。
 楠名が説明をして、若田城に向かう兵士二人を実言の前に出した。実言は大穴の前にある岩の上に腰を下ろし、選ばれた兵士に声をかけた。兵士二人は共に若く負傷の少ない男で、その一人は岩城家に近い者なのか、涙を流しながら実言に話をしている。
 道の途中まで、耳丸が付き添いし、夷に備える。夷もこの頃はこの村に来ることもないが、村人からは山の中では会うと報告があり、油断はならないのだった。
 皆が男たち三人を見送った。これで、実言たち一団がどこにどれだけの人数で生きているかわかれば、若田城にいる将軍の川奈麻呂も救出に動かなければならないだろうし、若田城で会った岩城家の家来である高峰もなんとかするだろう。
 陽が落ち始めた頃、礼は小屋に戻っていて、軒下で薬草作りをしていると、耳丸が帰ってきた。すでに、山の中の大穴にいる実言に状況を伝えてきたという。礼は頷いた。
「実言からあと数日したら、ここを発つように言われた。救援がきたら、また夷と戦をすることになるかもしれないから、早く若田城に帰れと」
 ここに長く留まれば、実言の心配の種になってしまう。まだ足の傷が心配で、礼はまだ付き添っていたいが、ここにいて足手まといになるのもはばかられる。
 それから、十日ほどが経ち、明日、礼と耳丸はこの村を発つことにした。
 その間、実言の傷は順調に治癒していった。左足はまだ自由にはならないが、食事もよく食べて、気力の回復は目覚ましいものがあった。村の者が作ってくれた杖を使って少しの移動は自分できるようになり、人の手を借りることが少なくなっていった。
 それでも、一日一回の医者の治療は受ける。瀬矢という医者に、横穴の中で体をきれいに拭いてもらい、洗濯した清潔な肌着を着せられて、傷口を診てもらう。もちろん、瀬矢という医者は、喉に怪我を負っていて喋れないということだから、医者が何か言うことはない。実言も何も話さなかった。
 その様子にそばについている楠名や三佐古は、手厚い治療は岩城家から遣わされた医者だから思っている。
 しかし、耳丸には狂おしいほどの愛撫に見えて仕方ない。手を抜くことなく体の隅々まで指を這わせて、実言の全てを確認しようとする手。実言も既知の手に身を委ねて、何をされても構わないと許しきった姿だ。
 耳丸にとって、ここまで守ってきたものが、するりと自分の手をすり抜けていって、自分に見向きもしなくなったように見えた。それに激しい嫉妬のような思いにかられているのだ。その気持ちを抑えるのに、大きく息をしていたが、それでも胸の奥から息苦しさがこみ上げてくる。
 医師である瀬矢の知識は、大王の支配が及んでいる最北の果てのこの村で重宝された。熱が出た時。咳が出た時。腹を壊した時。どんな薬草を煎じて飲んだらいいか。村人たちは村を囲む林や森に自分たちを助けてくれるどのような草木が植わっているかを教えてもらった。医師である瀬矢も惜しみなく村人に様々なことを教えた。

コメント