Infinity 第二部 wildflower53

椿、散る 小説 wildflower

 死後の世界は、どんなものだろう。先に逝ってしまった父や母に会えたりするのだろうか。もし、会えるなら、なぜ、お前がここにいるのだと、驚かせてしまうのだろうか。そうしたら、なんと、言い返したらいいものだろうか。
 暗い中を歩いているような気がする。そして、だんだんと明るいところに向かっている。この穴を抜けて明るい場所に出た時には、どんな世界が広がっているのだろうか。
 耳丸は、怖さを感じながら、明るい方へと向かっていく。
 どんどんと意識は、明るい方へと向かい、加速していく。そして、はっとそのまばゆいばかりの中に出たとき、耳丸は青い空を見た。
 死ぬ前に見たのと同じ、青い空。
 そして、自分が目を開けていることがわかった。自分は死んでいる。……死んでいない?
「はっあっ……」
 言葉を発しようとしたら、喉がはりついてうまく声が出ない。それで、自分は生きているのではないかと思えた。そう思ったら、急に体に激痛が走る。
「うううっ」
 痛みに堪えるために唸った。
「……みみ、まる」
 耳丸は、自分の名を呼ぶ声を聞いた。その声は、あの世ではないことを教えてくれる。
 耳丸は声の方へ向こうとしたが、左肩に激痛が走り、もう一度呻いた。
「耳丸……」
 礼は、耳丸の右手側の下方にうつぶせになって倒れていた。耳丸の声に気付いて、目が覚めた。それまで、気を失っていたのだ。礼は這って、耳丸のそばまで行った。
「目が覚めたのね」
 やっとのことで耳丸のそばにたどり着いた礼は、ゆっくりと耳丸の顔を覗き込んだ。
 耳丸は、礼のボサボサの頭がこっちに近づいてくるのを視界の端に捉えていた。男の姿になっているため、髪は後ろに高く結んで頭巾を被っていたのに、今は頭巾が取れて、髪が下りて顔に掛かっているから結んだ紐もとれてしまったようだ。
「良かった……」
 礼の声は、最後の方は潤んで、小さくなった。
 耳丸はそばに来た礼を見上げる。礼の首には、くっきりと野盗に締められた痕が赤く残っていて、痛々しい。そして、顔に視線を移すと、礼の眼帯は取れていつも見られないように気を使っていた左目が、いや、左目のない傷が露わになっている。野盗に殴られて腫れ上がり赤黒く変色した醜悪な左顔が見えた。それなのに、右顔は汚れひとつなく、光に照らされたように明るく、美しく、耳丸の無事を嬉しがり涙を流していた。
 耳丸は右手を挙げた。力が入らずうまく動かせないがゆっくりと礼の右頬に伸ばした。耳丸の右手の甲が礼の右頬に触れると、礼はその手を頬に押しつけるようにして取った。礼の右目からは幾筋もの涙が耳丸の手を伝って落ちていく。
 礼は唇を震わせながら、何度も言った。
「良かった。耳丸。戻ってきてくれて、本当に、良かった」
 礼は耳丸の手を頬に押しつけて、一心に喜んでいる。
 勇ましい女性が、か弱い女人に変貌してしまった、と耳丸は思った。
 しかし、それは仕方ないことだ。こうして、息を吹き返してみると、どのくらい自分は意識のないままでいたのだろうか。こんなにか弱く泣き崩れている人を一人にして、どんなに心細い思いをさせただろうか。都までの道を一人で帰れと言われて、礼はどんな思いだっただろう。
 どっちにしても一人苦しい思いには変わらない。耳丸を失い、一人で帰る道も、ここに残って耳丸の最後を見届けるのもどちらも辛いことだ。死んでいこうとした耳丸の方が、すべての責任や苦しさから逃れて、いっそ楽だったかもしれない。
 礼の止まらない涙の粒を、耳丸は人差し指の先に留めた。混じり気のないその雫は、耳丸を思いやる気持ちの表れであり、耳丸は嬉しかった。どんなに泣き崩れても、その顔は美しかった。左目のない礼の顔を初めてみた。傷口の跡がひきつれて、目玉のある場所は空洞で肉が出ている。礼の顔は左右に美醜を持った恐ろしい女人に見えるが、しかしそんなことを圧倒してしまうほどに、耳丸は愛しく感じ、心安らぐ。
「……どれくらい、気を失って……」
「あれから、二日たったわ。……さあ、水を飲んで」
 礼は耳丸の首の下に腕を差し入れて、少し持ち上げ、その下に自分の膝を入れて頭を支えて、水筒から少しずつ水を飲ませた。
「ゆっくりね」
 礼は耳丸の様子を見ながら、水筒を傾けて水を口に注ぐ。耳丸が口を閉じると、礼は水筒を置いて、耳丸の顔にかかった髪の一房をわきにかきなでて、微笑んだ。
 そして、そっと頭を下におろした。頭は柔らかな物の上に収まった。それは礼が衣服をたたんで入れた袋を耳丸の頭の下に置いて枕にしていたからだ。礼は耳丸が意識を失った後に、荷物を拾い集めて耳丸の体が痛くないように上着を丸めて、傷を負った左肩の下に差し入れて、柔らかく体を包んだ。
「待っていて、水を汲んでくるから」
 しばらくして礼が戻ってきた。汚れた手ぬぐいを川で洗って、水を含ませたまま持って帰って耳丸の右側に座った。濡れた手ぬぐいで耳丸の顔や首筋を拭いてやる。耳丸はじっとりとした暑さの中で、その冷たさが気持ち良かった。
 耳丸が礼の顔を見ているのに、礼は気づいて、何か、と表情で尋ねた。
「ひだり、の、頬……痛い、か」
 耳丸と野盗が斬り合ったあと耳丸を助けるために、格闘をした跡がまざまざと残っている礼の頬。頬は顔の輪郭を変えてしまい、赤黒く変色して腫れ上がっていて、見ている方も痛い。
 礼は、はっとして自分の頬へ、いや、左目に手をやった。眼帯がなくなっていることに今、気づいたのだった。どこで取れてしまったのかもわからず、今の今までないことがわからなかった。
「ごめんなさい。気がつかなくて」
 礼は、すっと左を向いて、その顔を隠した。
「ああ、違う!……」
「きっと、今まで以上に、恐ろしい顔ね」
「すまない……お前を傷つけたいなんてことは……ない」
 礼は、手元にあった手拭いを左目に当てがい、耳丸の腕を縛るために裂いたきれを頭に巻いて留めた。
「……この道をとったために、こんな目にあわせてしまって」
 耳丸は礼が見られるのを嫌がるだろうと思って、反対に顔を向けて言った。
「何を言うの!耳丸がいなければ、私は実言のところまで行けなかった。そして、またここまで帰ってくることはできなかった。耳丸のおかげなのよ」
 礼は、耳丸に右顔を見せるように座って、話をする。
「……野盗は……?」
 耳丸は自分の足の方倒れていたと記憶しているが、今はその影はない。
「山裾の方へ移動させたわ」
 礼は両手を交差させて自分の肩を抱いて、答えた。
 あの日、耳丸が意識を失った後、礼は自分の上着を耳丸の左肩にきつく巻きつけて流れ出る耳丸の血を止めるために手を添えて祈るばかりで、気がつけば夕暮れになっていた。礼の上着と手は血に染まり、固まった。礼は陽が陰ってきたことに気づいて、あたりを見回した。馬や荷物はどうしただろうか。耳丸以外のことに気が向くようになって、あたりを見回した。水も飲まずに半日が経っていた。
 礼は立ち上がり、遠くに見える馬のもとに行った。礼が低い木に簡単に手綱をかけただけだったが、馬は逃げることなくそこにいた。安堵して、馬の手綱をとって、あたりをみまわした。耳丸の馬の姿は見えなかった。辺りを探せばその馬を見つけることができるかもしれないが、諦めた。一旦、昨日泊まった岩穴の前の小川に戻って、馬に水を飲ませた。礼自身も耳丸の血に固まった手を洗い、洗った手で水をすくって飲んだ。喉をならすほどの勢いだった。持ってきた水筒になみなみと水を入れて、手ぬぐいを水につけて絞った。馬と共に耳丸のもとに戻って、近くの木の枝に手綱を繋げて、耳丸の元に行った。耳丸は血の気の失せた顔は、目を瞑る前の眉間にシワを寄せて苦しむ顔のまま意識を失っている。礼は自分の膝に耳丸の頭を乗せて、水が喉を通りやすいように手を貸して水筒から水を飲ませた。しかし、耳丸は気がつくことはなく、目を開けることもない。野盗との斬り合いで投げ捨てた荷物を拾って、耳丸の元に行く。先ほど見たのと変わらない。陽は落ちて、辺りは暗くなる。礼は耳丸の手を握って、新月の夜空にばらまかれたような星の心細い光りを頼りに夜を過ごした。耳丸に変化はないが、もしかしたら目を開けるのではないかと思うと、礼は眠れなかったが、体は疲れ切っていて気を失った。
 夜が明けた。相変わらず瞼すら微動ともさせない耳丸に膝枕をして水を飲ませて様子を見る。待っていても反応がないので、馬の世話をして、川から水を汲んできて、血をとめるために押し当てていた上着をゆっくりと剥ぎ取り、耳丸の体を拭いた。拾ってきた薬箱から、傷に効くものを取り出して、試しに塗ってみた。
 また水を汲みに行って、戻ってきたとき、高い空に大きな鳥が飛んでいるのが見えた。
 死人の肉を喰らいにきているのだ、とわかった。間違って耳丸が襲われたらたまらない。
 礼は、できるだけ遠くに運ぼうと死んだ野盗の足を持って、山裾の方へ引きずった。小柄な礼は痩せた野盗といえども、その体は重くて草叢の端まで持っていくのに半日かかり、陽が暮れた。
 礼はそこで一旦野盗から離れて耳丸のところに行って、水を飲ませる。息はしているから、まだ死んではないことはわかるが、目を開けることはない。
 もう一度野盗の所に行き、その体を引きずって草叢を外れて、林の中にその体を持って行った。礼としては隠したつもりだが、鳥や獣にはすぐに見つけられてしまうだろう。
 耳丸を安全な場所に移したいが、自分一人ではどうすることもできず、草叢の中で今夜も耳丸が目覚めるのを祈って待つしかなかった。
 礼は、馬を連れて小川に向かい、自分の手を洗って、水を飲み飲ませ汲んだ。
 戻って馬を繋いで、耳丸の元に行くのに歩いていたら、草の絡まりに足を取られて転んだ。立ち上がらなくてはと、思ったがそこで礼は限界に達した。気が遠くなって、眠ってしまったのだ。そして、耳丸の声によって目覚め、うれし涙を流したのがこの二晩の出来事だった。

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