Infinity 第二部 wildflower55

岩 小説 wildflower

 次に耳丸が目を覚ました時は、もう朝は過ぎていて、目の前には厚い雲が覆った空が見えた。
「……礼」
 近くにいると思って名を呼ぶと、しばらくして草を踏む音がゆっくりと聞こえてきて、礼が現れた。
「気分はどう?」
 礼は耳丸の頭を上げさせて膝を入れて枕にした。体を起こしすぎたために、左肩の傷に痛みが響いて、耳丸は顔をしかめた。耳丸が落ち着くのを待って、礼は耳丸に水を飲ませた。
 野盗に襲われてから、三晩を越えた。傷の具合や体の大きな耳丸を礼一人が支えることが難しく、耳丸を倒れた場所にそのまま寝かせているが、ここは草むらの中であり、近くには木もなく陰もない。目の前には空が開けていて無防備な状態である。
 そして、今朝から今にも雨粒が落ちてきそうなどんよりとした空で、時間が経つにつれて空の色は黒くなっていく。礼は耳丸が一息心地つくと、傷口を見て言った。
「……耳丸、これまでは天気に恵まれていたが、今のこの空を見ると、いつ雨に降られるかわからない。ここにいるのは危険だ。どうか起き上がって、あの岩穴まで歩けないだろうか」
 耳丸は、礼の言うことはもっともだと思った。雨が降り始める前に、安心できる場所に移動するべきだ。しかし、野盗に斬られてから、ずっとここに身を横たえたままなので、自分にどんな痛みが現れるかわからない。その前に起き上がれるのだろうかと躊躇する。しかし、この細腕の女人が一人で自分のために奔走している姿に、何を怖がっているのか、と思い立った。
「行こう。今までが好運だったのだ。雨が降り始めたら、また面倒になる」
 礼は、傷口に布を掛けてきつく縛り、耳丸の右脇下に自分の肩を入れるようにして、二人で声を合わせて耳丸の上体を起こした。起き上がると同時に、耳丸は自分の体を制御できないほどに震えて、歯をくいしばって耐えた。礼も唸って耐える耳丸の胴に腕を回して、一緒にその体を貫いている痛みを耐えた。
 寝たままの体がいきなり立ち上がることもできず、時間をかけて耳丸は膝を突き、片足を突き、両足で立ち、雨風をしのげる岩穴に向かって、ゆっくりと歩き始めた。礼が左肩を入れて耳丸を支える。体の大きな耳丸を支えているつもりが支えになっておらず、耳丸は痛みに耐え切れなくて膝を突くと、礼も一緒に転んでしまう始末だった。耳丸は額に大粒の汗を浮き上がらせて、息も荒くなる。
「耳丸!」
 何かの呪文のように、礼は耳丸の名を何度も呼んだ。
 耳丸は両膝を突いて、左肩を動かさないように、ひじを支えてじっとしている。礼の呼びかけに答えることもできないほど辛そうだ。礼は耳丸の左肩に目をやると、きつく幾重にも巻いた布に血が滲んでいた。傷口が開いてしまった。当然ながら、まだ体を動かせる状態ではないのだ。
 野盗に斬られた時、どれだけの血が耳丸から出て行ったことだろうか。再び止めどなく血が流れて行ったらと思うと、怖くなって礼は頭から汗と共に、目尻から涙が流れた。
 しかし、ここでやめるわけにはいかない。
 草むらを抜けて、今は岩穴に向かう途中の林の中にいる。立てば礼の腰ほどの草や木々の中をゆっくりと進んでいる。心配していた通り、弱い雨が降り始めた。雨が本格的に降り出す前に耳丸を岩穴に入れて、止血しなくては。
 礼は、切ない気持ちを振り払うように耳丸に立ち上がるように促した。
「耳丸!もう少しだ。立って、立って歩いて!」
 非情に叱咤して、耳丸を立たせた。何度も膝を突いてその場にうずくまろうとする耳丸の右脇を礼の左肩が突き上げて微力ながら、耳丸の体を押し上げようとした。
 どれくらいの時間をかけてここまで来たのかわからないほど無我夢中で、林を抜けてきて、やっと岩穴の手前までたどり着いた。そこから、岩穴までは硬い岩畳の階段になっており、その小さな段差を乗り越えれば、晴れて岩穴の中に収まれるというものだった。
「耳丸!もう少しだ。あそこまで、歩いて!しっかり!」
 耳丸は肩の痛みと体の重さに意識が朦朧とした中で、ただ、すぐそばで自分を励ます声に従って、力を振り絞った。
 礼と耳丸は石畳の階段を抜けて、岩穴の入り口へとたどり着き、それと同時に体を崩れ倒した。耳丸はもうそこから動けないというように、上を向いて寝転がった。
「耳丸、よくやったわ。ああ、良かった。本当によくやった」
 礼は、岩穴の入り口で背中に括り付けていた衣類の袋を耳丸の頭の下に入れて枕にして、耳丸の手を握ると、声を掛けた。耳丸は自分を支える手と声に安堵して意識を失ってしまった。
 礼は血のにじむ耳丸の左肩を止血するために上から白布を巻いた。そこで、やっと礼に雨の音が聞こえた。それは少しばかり前から激しく打ちつけていたのだが、耳丸のことで頭がいっぱいで聞こえなかったのだ。
 礼は入り口に立って、右手を外に差し出した。その雨粒の大きさを確認すると意を決して穴から飛び出した。 
 そこからの礼は忙しかった。耳丸が倒れていた場所に戻り、薬箱など他の荷物をとってくるとともに、馬を引いてきて岩穴の前の大きな木の枝に繋いて、荷物を抱えて岩穴の中に飛び込んだ。雨粒を払ってから、頭を奥に向けて入り口の端に横たわって気を失っている耳丸の隣に座った。
 礼はその左肩の血がにじんでいた布を解くのが怖い。これを解いて、その傷口を見たとき、絶望するのでないかと感じてしまうからだ。傷口が大きく裂けて、そこから際限なく血が流れでていたら、それこそ耳丸の命はわからない。
 礼は心を決めて耳丸の左肩の布を取った。傷口から流れ出る血を目の当たりにして、新しい布を畳んで厚くして傷口に押し当てた。血よ、止まれと祈りながらその体の重さをかけて押さえつけた。
 礼は気がついたら、耳丸の傍にうつ伏せのまま倒れていた。確かに耳丸の止血をするためにその左肩に両手を置いて押さえたいたのだが、疲れて自分も気を失って眠ってしまったらしい。
 起き上がると急いで耳丸の様子を見た。苦しそうに荒い息をしている。額に手を置くと燃えるように熱い。傷口が開いて、熱がでてしまったのだ。
 礼は雨の中を飛び出して、小川で水を汲んだ。戻ると、耳丸の顔を拭いてやり、その額に濡らした布を置いた。傷口も新しい布を巻いて固定した。雨で気温が下がって肌寒いので、礼は濡れた衣装を脱いで、今まで隠し持っていた女の衣装を身につけた。男の着替えの代わりの衣装がなかったからだが、久しぶりの女人の姿になったことが懐かしかった。
 四日前にここを発つときに、煮炊きをしたままの状態を残していたのが功を奏した。そのとき取ってきていた枯れ草や、小枝を使って火を起こした。小枝が湿気たのか、火の勢いは強くなく、暗い夜を過ごすのに心の拠り所にするのにも心もとない灯ではあったけど、ないよりはましであった。
 薬箱から箱を引き抜くと中身を空けて、岩穴の外に出しておくと、そこに雨が溜まる。礼は耳丸の熱で乾いていく額の布をその中に浸けて、新たに湿らせてまた額に置いた。何度も水筒から水を飲ませるが、耳丸は苦しそうに荒い息を吐いた。
 礼は岩の壁に肩を寄せて、眠っていた。ふっと目が覚めて、自分がまた寝てしまったことに気づいた。夜が明ける時で、東の空が白くなっているが、弱い雨はまだ降っていた。礼と耳丸が眠っている壁の反対側で焚いていた火は小さくなっていて、礼は慌てて新しい小枝をその中に焼べた。一緒に竹筒に入れておいた米が火のそばで炊けていた。炊けた米を少し食べたが、食欲がなかった。
 礼は耳丸の額から布を取って薬箱の何に溜まった水に浸けて濡らし、また額の上に置いた。
「……ん」
 耳丸が身じろぎしたのに慌てて礼が見守っていると、耳丸はまぶたを震わせて、ゆっくりと目を開いた。焦点の定まらない目が宙を泳いでいる。
「耳丸?」
 礼の声を聞いたはずなのに、またゆっくりと目を閉じた。礼は心細さからじわっと目の渕に涙がたまった。耳丸の命が尽きてしまったら、どうしようか。こんな苦しい旅に無理やり連れ出してしまったのは自分なのだから、この旅の辛さも苦しみも受けるべきは自分であるはずなのに、身代わりにしてしまった。
 礼は耳丸の額から布を取って、その頭を自分の膝に乗せて水を飲ませた。ゆっくりの耳丸の喉が嚥下する様子を見守った。耳丸の顔は髭も伸びて、旅の辛さから痩せた頬はよりこけたように見えた。
 礼は耳丸の頭を元に戻して、馬の様子を見に行ったり、川で水を汲んだりした。弱い雨が止んで、次第に雲が流れて太陽の強い光が差し込んだ。厚い雲が去り、遮るものがなくなったことでその存在を誇示するかのような強烈さだ。
 岩穴の入り口にもその光は差し込んできて、耳丸の足首だけが陽に当たった。
 礼が入り口付近で濡れた衣類を木に掛けたたりしていると、突然小さな声で呼びかけられた。
「……礼」
 礼は敏感に振り向くと、耳丸がこちらを見ている。礼は駆け寄り、耳丸の傍に膝をついた。
「耳丸」
 細く開いた目は、しっかりと礼を捉えていた。
「目が覚めたのね」
「……どれくらい……寝ていた」
 礼はその質問には答えず言った。
「いいのよ、どれくらい寝ていてもいいのよ。傷が開いて、苦しんだわ」
「……ああ……すまない」
 「いいのよ」と礼は何度も言った。水を飲ませて、山から取って来ていた生り物の皮をむいてその実をちぎって口の中に入れる。耳丸はまだ熱でだるそうで、起きてはいるが目をつむってじっとしている。礼は、耳丸に付き合うようにそばに膝を抱えて座ったまま、外を眺めた。

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