Infinity 第二部 wildflower58

みかん 小説 wildflower

 その一方で、耳丸は芳しくない。
 新を診た後、親子の元に長居せず、礼は立ち去った。新のために作った薬湯を少し分けてもらい、耳丸の元に行く。
「耳丸」
 礼は声をかけて、小屋の中に入る。
 耳丸は、板の上を痛がって、苦労して隣の藁の上に移った。まだ傷が塞がっておらず、傷口からわずかに出血した。耳丸は痛いとも、苦しいとも言わないが、体は正直で、熱を出した。礼は夜通し耳丸について、水を飲ませ、水で浸した額の布を取り変えて、体の熱りを冷まそうとした。
 耳丸は口を開くのは辛そうで、潤んだ目を細く開けて、礼に申し訳なさそうな視線を送る。
 礼は耳丸の心に気づかないふりをして看病した。気にすることはないのだ、と心で言った。
 季節は夏が終わり、秋へと移る。
 この村に来てからひと月が経った。
 貞の母、新は一日の大部分を体を起こして過ごせるようになった。苦しんでいためまいも治まり、座ったままでできる家の仕事を手伝っている。
 寝たきりで衰弱していく母親の姿に、死への恐怖を感じていた貞は、母を快復させた礼への尊敬の眼差しを向ける。感謝の思いから、様々ことで礼を助けてくれる。
 伊良鷲も、劇的な変化はないものの、妹がだんだんと元気になり、笑顔が多くなったのがわかって、礼を認めざるを得なかった。
 礼と耳丸の立場は胡散臭く邪魔な居候という危ういものから徐々に医者という信頼を得て、安心できるものなった。貞が毎日、粥を持ってきてくれるし、伊良鷲も小屋から出て行けとは言わない。
 そうすると、女性たちは新が快復していることを聞きつけて、自分や子供の体の不調を相談しに来るようになった。誰でも隔てなく相手する礼だが、小さな子供を抱いた母親が来ると、ことさらに親身になって話を聴いている。
 小屋の奥には体の大きな男が、太刀傷を負って横になっているので、皆は怖がって戸口に立ってそっと顔だけ中に入れて様子を伺う。戸口は南に向いており、人が立つと影がさすので、礼はすぐに気づいて外に出た。
 症状を聴いて、調合した薬草を渡し、子供を抱いてあやしながら母親の話を聴いている。年の頃三つの幼児を腕に抱いた礼は、その柔らかな愛おしい感触から離れがたく、いつもまで抱いていたいふうだ。
 日が暮れる頃に、貞が食事を持ってきた。貞は耳丸に慣れてきて、少し話しをしてから小屋を出て行った。
 耳丸も熱を出して苦しむということはなくなり、傷口も順調に癒えている。
 肩の傷口がふさがるか、という大事な時なので、まだ礼は粥を匙ですくって、耳丸の口まで運んで食べさせてやっている。耳丸は、もらった椀の中の粥は全部食べるし、山で採れた生り物も追加で食べるほどに食欲はあるので、礼はだいぶ安心している。
「礼」
 粥の最後の一匙を口の中に突っ込まれて飲み込んだところで、耳丸は呼びかけた。
「何?」
 耳丸の世話が終わって、礼は自分の分の椀を持って食べ始めるところだった。
「お前だけでも帰れ。都はすぐそこだ」
 耳丸は言い捨てるように言って、藁の中に身を沈めて礼から視線を外した。
 昼間、いつまでも幼子を抱いてあやす礼を見ていると、束蕗原に置いてきた子供を思い出しているのがわかる。耳丸は早く、我が子にあわせてやりたいと思うのだった。
「何を言うの。あなたを置いて行けと?……それは無理よ。この旅は私があなたを道連れにして始めたの。あなたを無事に連れ帰ってこそ、旅は終わるわ。実言もそれはわかっているわ。あなたに私を頼むといったけど、あなたを置いていくことは望んでいないわ」
 それから礼は黙って食事を続けた。
 耳丸は目をつむった。こんなところで足止めにしてしまった心苦しさが広がっていくのだった。
 礼の心は決まっていた。耳丸のおかげでここまで来ることができたのだ。往路での山犬の襲来や、若田城での待遇、実言にたどり着く道での夷との遭遇などを無事に切り抜けられたのは耳丸がいたからだ。耳丸という実言が信頼している男を礼も信頼したからこそ、実言のもとまでたどり着けた。そして、願いを遂げることができた。だから、帰り道は別々でもいいなどと思えるはずはない。離れ離れになってしまっては、二度と逢えないような気がする。二人一緒に帰って、実言を待つのだ。
 日に日に秋が深まってゆく。稲穂が実り、刈り取りの時期が来て、礼は連日、村の皆とともに稲刈りの作業を手伝っていた。こんな生活がひと月続いている。その間、耳丸は小屋の中の藁の上で寝ているだけだ。
 礼は仕事の合間をみては、耳丸の元に様子を見に来た。起き上がるのに人の手を借りなければならないが、その場での少しの身動きであれば可能だ。夜明けとともに、礼は水筒を耳丸の右側に置いて田んぼに行く。朝餉の時間になると、母屋からもらった粥を膳に載せて戻って来た。耳丸は自分でできると言うが、体に負担がかかってはいけないからと、未だに礼が粥を口に運んでやっている。日が昇った明るい中で見る礼は、日に日に日焼けして、村の女と変わらぬ姿になってしまった。仕事は体にこたえるようで、さらに痩せてきている。耳丸は礼にこんなに働かせて、一日中寝たままの自分を許せないでいた。せめて自分の身の回りのことはしたいという思いだった。
 だから、今も耳丸が自分でできると言って礼の手から匙を取ろうとするので、悶着していた。そこまで言うのなら、と礼は耳丸に椀を差し出した。耳丸は右手で受け取って、自分の太ももの上に置いて、そこから匙ですくったが、口までが遠くて運ぶ途中でこぼすし、足が動いて椀がひっくり返りそうになった。とっさに礼が手を出して、椀を押さえた。言わんこっちゃないと、礼は耳丸を咎める視線を送ったが、それはすぐに目元を緩めて笑顔になった。耳丸もいう程のこともできずにバツの悪い顔をしたが、礼の笑顔に救われた。
「わかったでしょう。あなたにはまだ無理よ。私に世話になるしかないのよ」
 わざと耳丸の自尊心を傷つけるようなことを言って、礼は椀と匙を取り上げた。
「ゆっくりなおせばいいのよ。もどかしいでしょうけど、今は時間をかけるしかないわ」
 耳丸の求める機を図ったような瞬間に礼は匙を差し出して食べさせた。心地良いその看護に、耳丸は自分の小さな羞恥が溶かされて、全てを委ねたい衝動に駆られる。
 村の者に礼と耳丸の関係を聞かれたことはないため、説明をしたこともない。しかし、村人たちは夫婦と思っていた。耳丸が礼を女主人として敬うような言葉遣いをしないため、同等の間柄だと思っている。ほかに、貞をはじめとする村人は礼と耳丸の間に男女の親密さが漂うのを感じるからだった。
 礼は、耳丸が申し訳なさそうに、しかし素直に口を開けて粥を食べる様子を嬉しそうに見ている。そんなときに、貞が薬湯を持って小屋に入ってきて、二人の様子を垣間見るのだった。
 しかし、とうの礼は愛する夫が信頼する乳兄弟を看病しているだけだった。医者として、人を助けたいと思う気持ちが、その人との距離をより近くしているだけだ。ましてやその男は自分のために命削る羽目になったのだから。
 すっかり稲穂の刈り取り作業が終わって、乾燥させる工程へと移った。
 それとともに、耳丸の傷も落ち着いた。ある日、傷口は塞がったように見えるので、礼はゆっくりとその傷口に指先を伸ばし、そっと触れた。それをじっと息を止めてみていた耳丸が。
「痛っ!」
 と小さく叫んだ。すぐに礼は手を引っ込めて、飛び出しそうな悲鳴を抑えるために、両手で自分の口を覆った。少しの時間を挟んで。
「嘘だ。……痛くない」
 と耳丸が白状した。礼はゆっくりと口を覆った手を下ろして耳丸を睨んだ。その怖い顔も長くは続かず、礼は真剣な顔をしてもう一度耳丸の傷に手を伸ばした。耳丸も、こわごわと、しかし、いつでも痛い!と叫ぶ準備はできているように顔をしかめて、礼の指を見ている。傷の上には、膜が張っていて、血や体液は出ていない。礼がその膜の上をそっと撫でた。硬く盛り上がったものが傷を覆っている。
「大丈夫かしら。痛くない?」
 耳丸は首を横に振っている。
 礼はそこで耳丸に取り付いた死の影が消えたように思えた。
 その日から耳丸は起き上がる訓練を始めた。ふた月も寝たままの状態で、起き上がる力は無くなってしまった。
 冬を前に、まだ米の収穫や畑の作業で村人は忙しく、耳丸はもっぱら子供達の相手をした。最初は血に染まり黒く汚れた体の大きな耳丸を皆怖がっていたが、恐れるほどに怖い人物ではないことがわかって、耳丸は子守をすることになったのだ。藁の上から体を起こすのも一苦労の耳丸は、子どもたちに後ろから背中を押されて、やっと起き上がる。どちらがお守をされているかわからないような状況だ。
 村の者たち朝の早いうちに伊良鷲の小屋にやってきて子どもを置いていった。
 耳丸は子供と共に毎日体を起こすことが、元の体に戻すための体力、筋力を回復させた。
 次は歩くことが課題になる。
 伊良鷲が耳丸のために杖を作ってくれた。男たちに支えられて起き上がったら、それをついて小屋の外に出た。二、三歩歩いて戸口の柱につかまった。
 三月ぶりの青空の下は、眩しく耳丸は目を細めた。そして、すぐにその場に座り込んでしまった。

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