Infinity 第二部 wildflower59

鴨 小説 wildflower

 季節は晩秋へと移る。寒い日が続いて、冬の訪れを感じる。
 季節の変わり目は体の不調を訴える者が多くて、熱が出た、咳が止まらないなどの症状があると、迷わず礼のもとを訪れた。
 礼のことを当て新している村人のことを知っていて、伊良鷲も、耳丸が完全に回復するまではここにいろと言ってくれて、礼は耳丸の回復をゆっくりと待っているところだった。
 耳丸は努めて歩くことで体力を取り戻そうとした。村の周りには人三人ほどが横になって歩ける道幅の道が住居や田畑の一段高い場所をぐるりと走っている。日暮れ前にその道を散歩するのが日課になり、それには必ず礼が付き添った。
 夕日が沈む前のわずかな時間に礼と耳丸は連れ立ってその道を歩く。
 今日は貞と弟がやってきて四人で歩いた。耳丸は杖をついて、礼は道端や林の中に自生する薬草を摘み取りながらである。礼が立ち止まって葉、花、根などを採っている間に、耳丸がゆっくりと歩いて追いついてくる按配だ。まだ、左肩を動かさないように、腕は布を使って肩から吊っている。
「随分と近くにあるものだな」
 後ろから追いついた耳丸が礼に話しかけた。
「そうね。この村の周りには薬草になるものがよく生えている。できるだけ、いろいろなことを教えてあげたいわ。私がいなくなっても、貞たちが知っていれば、皆病気に慌てなくて済むでしょうから」
 礼は、近いうちにこの村を離れることを想定して、世話になったこの村に残せるものは残そうと思っているのだった。ねっ、と傍にいる貞を見て言った。
 弟は耳丸を気にして少し前を歩いて、たまに振り返って耳丸の様子を見ている。
 お互いを気遣い、優しい時間が過ぎる。まるで一つの家族のようだ。
 耳丸は心休まる思いだった。こうして、家族を持って静かに時間を過ごすことが、憧れのように湧いてきたのだった。
 礼たちは村から離れていく方向に向かって歩いている。向かいから礼からもらった馬を引いてくる六郎が見えた。
 礼は貞と一緒に少し林の中に入って花を採っていた時、弟の雪村は馬を見たさに耳丸の元を離れて、近づいてきた六郎の方へ駆け寄って行った。
 突然、馬が嘶き、前足を高く上げた。六郎は驚いて、持っていた手綱を引いた。馬は前足を下ろしたら、次に後ろ足を蹴り上げた。六郎は体の態勢を崩して手綱を離して、その場に尻餅をついた。
 何かに驚いた馬は後ろ脚を着地させると、思うままにまっすぐ走り出した。
 それは、ちょうど馬の方へ駆け寄ろうとしている雪村に向かっている。
 馬の嘶きに礼も貞も耳丸も一斉にその方向を見た。反射的に貞は林を飛び出し、弟に向かって走った。礼も追いかけた。貞は弟に追いついて、その小さな体を自分の体で覆って小さくなった。馬はすぐ間近に迫っており、礼も弟と貞の上に被さり身を呈して守るしかできなかった。
 荒い鼻息がすぐそこまで近づいてきた。
 馬に蹴飛ばされたら、ひとたまりもない。命はあるのかしら?と礼は思った。
 その時、後ろからどんと突き飛ばされた。
 礼はこれが馬の蹴りかと思った。今まで命はなくなったと思ったことは何度もあったが、これが本当にその時かと思うほど、周りの景色の一瞬一瞬を切り取って見せるようにゆっくりと流れていった。
 痛いと思ったら、弟が泣き声を上げた。地面に倒れた礼はすぐに起き上がり、腕の中の貞と弟を見た。弟は姉の腕の中で大きな口を開けて泣いている。村の方向へ向かう道を見ると、馬が通り過ぎたその尻が見えた。
 礼は貞と弟の体を起こした。泣いているのはどこか痛いからではなく、びっくりしているだけのようだ。貞にも怪我がないかを確認していると、後ろでうめき声が聞こえた。振り返ると、耳丸が仰向けになって倒れている。礼は耳丸に駆け寄った。
「皆に、怪我は?」
 耳丸は左肩に右手を置いて訊いた。
「ないわ」
 礼は耳丸の姿から、耳丸が自分たちを押し倒して馬の通り道から外したのだとわかった。そしてとうの耳丸はその反対側に飛びすさって、すんでのところで避けたのだ。
 痛そうにしかめている顔にはたくさんの汗が浮いていた。
「耳丸……」
 礼は悪い予感がした。耳丸は馬を避けるために後ろに飛んだはいいが、左半身を下にして倒れたようだ。
「左肩が痛むの?」
 耳丸は頷かない。しかし、その苦しそうな表情がそうだと言っているのがわかる。
 礼は耳丸の上衣の襟を広げた。塞がった肩の傷口は開いていない。しかし、肩が動かなくなっては元も子もない。耳丸は再び実言の下で働かなくてはいけないのだから。
「礼様」
 後ろを振り向いたら、貞と弟が立っていた。
「二人とも本当に怪我はないかい?」
 二人が順に頷いた。
 後ろから、六郎が走って来た。
「みんな、大丈夫だったかい?」
 自分でも驚いていて、その声は間の抜けたゆっくりとしたものだ。
「六郎。二人を伊良鷲のところに連れて帰って、そして、伊良鷲を呼んできて」
 六郎の声に比べると、礼の声は鋭く突き刺さるように発せられた。六郎は弟を抱き上げて、貞とともに足早に村に戻った。
「耳丸、体を起こせる?」
 礼は耳丸の左側から体を助け起こした。
「ついてないな……」
 自嘲的な笑いを含んで耳丸が言った。
「そんなこと言わないで。……打ち身だけであればいいのだけど」
「すまないな」
「何を言っているの。あの子達を助けたのよ、とてもありがたいことよ」
 しばらく待っていると、六郎が耳丸を運ぶ戸板を持って伊良鷲達を連れて戻って来た。歩いて帰れるという耳丸を説き伏せて戸板に乗せて小屋に帰った。
 小屋に入ると、貞と母親の新が待っていた。藁の上に寝かせて、用意されていた盥に手ぬぐいを浸けて、耳丸の額の汗や肩の傷口を拭いた。
 我が子を庇ったために怪我がひどくなったと気が咎めて、新は心配そうに小屋の入り口にいたが、礼は母屋に戻って休むように言った。
 その後届けられた粥を礼の手で口に入れてもらって、耳丸は目を瞑ると、眠気が襲ってきた。
 心地よい眠りに引き込まれながら、なぜか今までの女人との関わりを思い出していた。実言と行った南方の戦場や岩城の屋敷の中に懇意にした女はいて、自分を慰めてくれた。しかし、この女主人ほどに頼もしく、安心できる女はいただろうか。これほどの女だから、自分の命は置いておいても、守りたいと思う……女だ、と……。
 途中で耳丸は寝入ってしまった。その気持ちをはっきりと自覚したかはわからない。
 翌日、礼は耳丸に一日中寝ておくように言いつけた。耳丸は都合三日も横になったままになったが、左肩の痛みは治まった。寝付いてしまうのが怖くて、四日目はすぐに体を起こして、それから毎日小屋の周りをぐるぐる回って歩く訓練をした。
「耳丸!また、手を吊ってない」
 農作業から戻って来た礼が耳丸を見咎めて言った。耳丸は慌てて首からかけている布の輪の中に腕を差し入れた。
 礼には止められているが、耳丸は黙って小屋から離れて山道を行ったり来たりして歩き回った。そうでもしていないと、変な夢を見てしまう。
 それは、いっそこのままこの村に留まって片隅に小屋を建て、女と暮らしている白昼夢だ。空想だけが一人歩きして膨らんでいることに、耳丸ははっと我に帰る。ここにいてはいけない。都に、束蕗原に帰らなくてはいけないのだ。
「耳丸!」
 少し疲れて、倒木の上に腰掛けていると、礼が近寄ってきた。
「村から離れてはいけないと言っているでしょう」
 村と森の境を通る道の上である。
「焦らなくてもいいのよ。焦って肩を悪くする方が良くないことよ」
 礼に連れられて、小屋へと帰る。
 礼の背中を追って歩きながら、脳裏には毎夜見る夢を思い出していた。この頃来る日も来る日も同じ夢を見る。重苦しい気持ちでいながら、この上ない喜びにも感じる夢は、朝起きると言い表しようのない不味いものを食べた後のような思いになる。
 村では本格的な冬支度が始まっている。雪が降る前に、備蓄する食料の準備が進められて、礼もその手伝いで毎日働いている。
 夜になると早々に礼と耳丸は刈り取られた藁の中に体を入れて休んだ。
 その日、耳丸から少し離れて背を向けている礼は、耳丸に話しかけた。
「耳丸?本当は傷が痛むのではないの?夜、苦しそうにしているわ」
「……いいや。……痛みはない。悪い夢でも見ているのかな」
「本当?隠したりしてはだめよ」
「わかっている。本当だ」
 その後、礼は何も言わず、静かに寝息を立てはじめた。耳丸は目を開けたままじっとしている。目を閉じたら眠りに落ちて、そして、またあの夢を見てしまう。
 一人の女人を追いかけて、追いかけて。追いつけないその相手をどこまでもひたすら追っていくだけの夢。どうしたら、この呪縛から解けるのか。その相手を捕まえたら、この夢は終わるのか。
 いっそ、追っているのは誰なのか、わかればいいのに。そうすれば、この夢を見る意味が分かるだろうに。
 見開いていた目はいつの間にか閉じられて、そして、いつもの夢の中に引き込まれていった。

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