Infinity 第二部 wildflower62

椿のつぼみ 小説 wildflower

 山を一つ越えたところで、伊良鷲と六郎は馬を降りた。ここが別れの場所ということだ。耳丸は礼を降ろし、自分も馬から降りると、その手綱を六郎に渡した。
 伊良鷲が道の奥を指差した。
「この道を行けば、都に続く道と合流できる。気をつけて」
 礼と耳丸は伊良鷲たちに短くお礼と別れを告げると、伊良鷲たちは来た道を疾走して行った。礼と耳丸はその背中を見送ったが、すぐに背を向けて歩き出した。
 泡地関を抜けた今、こうして進んでいくと往路で通った道に合流するはずである。
 耳丸は受傷してから、何もかもを礼にしてもらい辛い思いをさせてきたが、これからは自分が無事に礼を束蕗原まで連れて帰るという気持ちである。
 耳丸は礼が後ろをついてきているか、振り返った。礼は振り返った耳丸に気づいて顔を上げて、耳丸を見た。
 礼は耳丸を避けることはしない。しかし、不用意に近づくこともしない。あの夜の前と後では、やはりそこには見えない溝があった。それは然るべきことで、耳丸ははっきりと自覚した礼への思いと格闘するしかなかった。
 この女を拐ってどこか誰も知らない土地で、慎ましい生活でいいから二人きりで過ごす。礼のその薬草の知識や、畑仕事などの外の仕事も厭わぬ生きることに柔軟な気性であれば、どのような土地であれ暮らしていけると思うのだった。
 夜でも白昼でもその夢想に苛まれる。
 しかし、礼はおとなしく自分に従ってくれるとは思えない。
 苦しい旅だった。苦しい旅だったからこそ、実言という主人と借金の肩代わりで繋がれただけの不穏で険悪な仲で始まったものが、今や主人の妻であることなど忘れて、深く想っている。しかし、相手は必ずしも同じ思いには染まっていないだろう。
 確かに、あの夜の一瞬でも、心は重なり同じ思いに浸ったとしても、礼の心の中には我が主人の実言しかいないのだ。連れ去っても、礼は必ず逃げ出して自分の想い人の所に行こうとするだろう。
 それがわかっているのに、今もこうして、二人で暮らすという甘美な夢につきまとわれるのだった。
「耳丸」
 後ろから、礼が名を呼んだ。耳丸は驚いて、振り向いた。
「見て!村が見える」
 山の中の馬一頭が通れるほどの狭い道を縦に並んで歩いて、丘の上の開けた場所から下に広がる景色が見えた所で、礼はいくつかの小さな屋根を見つけたのだった。
「今日は、あそこで宿を頼もう」
 眼下に見える村はまだ遠くで、そこにたどり着くにはまだまだ歩かなければならない。耳丸の見立てでは夕暮れ前に村に着けるはずだった。
 歩く間の二人は無言だ。途中、小川を見つけて、それぞれ喉を潤し、水筒に新たな水を汲んだ。出発することを短い言葉で伝えて、また歩き出す。
 高い木々が空を覆い、鬱蒼とした中を歩いてきて、やっとその中を抜け出たときには、視界も開けて、爽快な風が駆け抜けていった。
「ああ、気持ちいい」
 後ろで礼が声を上げた。
 素直な感情を声にするのが礼らしくて、耳丸も「そうだな」と応じていた。
 伊良鷲の村にいた時であれば、村人たちが気軽に礼のところにきて、二人きりになることはなかった。今は二人きりにならざるを得ず、その空気は重いものだが、やはり礼は優しい女のように思う。
 耳丸の見立て通り、日暮れ前に村についた。耳丸は村人に声をかけ、村の長の所に連れて行ってもらった。関所近くの村のため、宿を頼まれることが多いようで、小屋がたくさん建っている。
 耳丸は外で待っていた礼を手招きした。
「こっちだ。ここは、旅人の宿をする村のようだ。部屋はあるそうだ」
 一人の老爺の後ろを歩ながら耳丸は言った。一つの小屋に案内された。入り口の板を外して、中を見ると、干し藁が積まれた何もないがらんとしたものだ。四方を板で囲まれて、南側に面した壁の上の方に、明かり取りのためにくりぬかれた所があった。
 二人は荷を降ろして、藁を整えて腰を降ろしたが、耳丸はすぐに立ち上がって、外を見てくると言った。
 礼もしばらく小屋の中にいたが、何もない部屋にいるのも味気なく外に出た。
 まさに陽が西の山の中に吸い込まれて消えていくところだった。
 小屋の前に座って、礼は冬の山の向こうに明々とした光全てを吸い込んでいく様子を眺めていると、耳丸が礼の斜に立った。
「幸運だ。都まで馬を連れていく一団がいた。途中まで連れて行ってもらうよう交渉したら、了解してもらえた」
 礼は立ち上がった。
「本当?」
「明日、夜明けに出発するそうだ。これで、一日は早く束蕗原につけるだろう」
 礼は嬉しそうに目を細めた。
「これが役に立つ時が来たよ」
 と、上着の中に手を入れて腹から硬貨の入った袋を取り出した。
「都ではこれは通用するからな。文句は言わんよ」
 都から離れるほどにそれの威力は弱くなり、いままでずっと宝の持ち腐れだったものが、最後にして役立ったということだった。
 伊良鷲たちが持たせてくれた握り飯を食べて、それぞれ明日の準備をした。耳丸は、やはり小屋の中にはいられなかった。しかし、寒さが身にしみて小屋の中に入った。それに、礼が耳丸に話したそうに目で追っているのがわかったからだ。
 入り口の戸をはめた時。
「耳丸」
 礼は耳丸が藁の上に腰を下ろすと話しかけた。
「この旅がここまで来られたのも、あなたのおかげよ。感謝しています。あなたには大変な怪我を負わせてしまって、申し訳ないと思っているわ。束蕗原に帰ったら去様に診てもらいましょう。もっと傷が癒える方法があるだろうから、いろいろと手を尽くすわ」
 礼は右側にいる耳丸に背を向けて、自分の話したいことを言った。耳丸に返事をもらいたいわけではなく、この旅で耳丸に負わせたものを考えると、言わずにはいられなかったのだ。
 藁の乾いた音が連続して聞こえてきて、礼は自分の後ろを振り返った。そこには、耳丸が迫っていて、とっさに身を引こうとしたが、その長い腕の中に囚われてしまった。
「耳丸っ!」
 この時は、礼は声を出した。
「しばらく、しばらくの間、このままでいさせてくれ」
 耳丸は礼の耳元でそう言って懇願した。後ろから礼の体を抱きしめて、じっと腕の中に入れたままだ。
「……この前のこと。乱心からではない。この旅を通して乗り越えたものを思うと、あなたを愛しく思えて」
 耳丸は、告白した。告白しなければ、自分の夢想を実現できない。
 激しい耳丸の息づかいの中で、礼はつぶやいた。
「……耳丸……全て……」
 礼の小さな声は、耳丸に全部聞こえなかった。全て……なんだというのか。耳丸は聞き返すことができなかった。
 それ以上、礼から返ってくるものはなかった。耳丸が震えるほどに思い悩んだ夢想は、夢想のままでしかない。実現しようとしても、それは、底の割れた桶のように満ちることはない。叶うことはないのだ。主人の妻を略奪しただけのことである。
 耳丸はそっと、礼の体から腕を解いた。元いた場所に戻って、静かに目を閉じた。

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