Infinity 第二部 wildflower63

水仙 小説 wildflower

 夜明け前から、藁を踏む音が聞こえてくる。
 耳丸はまだ夢の中だが、その音が気になって目を覚ました。
 礼がいくら慎重に動こうとも、藁の音を消すことはできなかった。礼の逸る気持ちが夜明け前も前に目を覚まさせて、身支度を済まさせていた。
 夜明けに、馬六頭を連れて都に行く男たち三人のところに耳丸と礼は行った。男たちは皆眠そうに目を擦って、泊まっていた小屋から出たら、入り口前に昨日、都まで連れて行ってくれてと言った男と、左目に眼帯をした隻眼の女が立っていたのでびっくりした。
 礼達は売り物の馬に特別に乗せてもらうようで、慎重に乗るようにと言われた。初めて乗る馬であるが、礼も耳丸も気負わずに乗ってみた。大人しい馬を選んでくれたようで、すんなり乗ることができた。男たちが乗る馬も合わせると総勢九頭が鼻息も荒く都に向かって走り始めた。途中、休憩をとりながら進む。人の乗っていない馬たちを操りながらなので、ゆっくりとした速さで進んだが、それでも徒歩で進むよりだいぶ速い。
 今まで走っていた道が二つに分かれるところで、この一団をまとめる男が耳丸を振り向いた。
「ここがあんたのいう束蕗原という土地に行ける道だろう。ここで、お別れだ」
 耳丸は後ろを振り向いて礼を見た。それで礼はここが分かれ道だと知った。二人は馬を降りた。耳丸は馬上の男に近づき、懐から出した袋を渡している。残りの貨幣を全て渡すという約束をしていたのだと礼は思った。
 受け取ると、男たち三人は馬を引き連れて、真っすぐに都に通ずる道を走って行った。冬の乾いた大地に少しの砂ぼこりがたつのを礼は口元を袖で押さえて見送った。
「覚えているか、夜にこの道を走って、北へと向かったことを」
 それは十ヶ月も前に束蕗原を旅だったときの夜のことだ。礼は暗闇の中を馬に乗って耳丸についていくのが精一杯で、道のことなど覚えていなかった。
「順調にいけば夜には束蕗原につけるだろう」
 耳丸からそう聞くと、礼の表情は明るくなった。それから二人は無言で歩いた。この道を歩けば束蕗原に着くときいたら、礼は耳丸の前に出て歩いた。その足取りはしっかりとして速く、緩まることはない。
「礼……礼……礼!」
 一度呼んでも、気づかない礼に耳丸は三回怒鳴るように大きな声で呼ぶと、礼はようやく足を止めて耳丸を振り向いた。なんだ、と言わんばかりの表情である。
「少し、休もう。朝から何も食べていないだろう」
 礼は、はっとして、耳丸のいうことに従った。道の脇にある一本の大きな樹の下に座った。
「ごめんなさい。無理をさせたわね」
 二人は固い握り飯を噛み、水筒から水を飲んだ。礼の手にある握り飯はすぐになくなった。悠長に食べていられないという気持ちなのだろう。礼の心はもう、束蕗原の去の邸の上を飛んでいるのかもしれない。
 自分の魂の半分を双子の元において、残りの半分を自分の身と共に実言のもとに行くと言っていた。今、半分に裂いたものがまた合わさろうとしている。強い磁力に引き寄せられるように、礼は、束蕗原に向かう歩きをやめない。
 礼は歩けば歩くほどに、束蕗原の記憶がよみがえり自分が過ごしたこの地の風景を思い出した。半ば走っているような速さで、その一本に伸びる道を進む。
 陽は西の山に沈み、真っ赤な夕日が山の稜線に最後の光を照り映えさせる時、反対の山の麓遠くに束蕗原の集落が見えた。
「耳丸!」
 礼は、後ろを振り向き、耳丸を呼んだ。そして、合図のように走り出したのだ。朝からずっと歩いていた人とは思えないほどに、礼は勢いよく走った。集落にたどり着いたころには日は暮れた。礼は走るのをやめて去の邸の前まで歩いた。
 門の前で礼は感慨深く見上げた。耳丸も礼を追って、門の前にたどり着く。
 帰って来た二人を拒むように門扉は閉まっている。当たり前に、夜になればこの門扉はいつも閉まるのであるが、去に反対されても、黙って、まして幼い子供を置いて強行した北方行きだっただけに、その閉まった門は礼の帰還を拒んでいるように思えた。少なくとも温かく迎えてくれるわけはない。
「どうした?」
 耳丸は門の前で、横を向いて突っ立っている礼に言った。礼は耳丸の声に反応して顔を上げた。潤んだ目がためらっているのを表していた。耳丸は礼に並んで立つと、躊躇なく扉を叩いた。
「おい!おーい!開けてくれ!」
 邸に響き渡るような大きな声で耳丸はよわばった。
 夜でも病人が出れば村人は訪ねてくるから、門の近くの小屋に男が詰めているのはわかっている。
「おーい」
 耳丸は容赦なく戸を叩いた。しばらくすると、内側から声がした。
「なんのご用で?」
「耳丸だ。開けてくれ」
「……耳丸?」
 中で扉の鍵を外す音がして、やがてゆっくりと扉が開いた。扉を開けたその隙間から、老爺が松明を掲げて覗き見る。
「……耳丸。……礼様?」
 老爺が見たのは、ボロボロの衣服を何枚も重ねて纏った左目に眼帯した女と大きな体の男である。ふたりとも、一年前にここにいたときの面影はない。日に焼けて色黒く、寒さに赤らんだ顔のみすぼらしい姿である。
「そうだ。帰って来たんだ。去様に取り次いでくれ」
 その声は、確かに耳丸の声である。老爺は扉を開けて、礼と耳丸を入れた。鍵を閉め終わると。
「すぐに家の者に知らせてきます」
 走って母屋に向かう。礼も耳丸もゆっくりと歩きながら慣れた敷地の中を歩く。
 礼が母屋の階にたどり着くと、簀子縁には去の弟子たちが灯りを持って集まってきた。
「礼様!」
 ひときわ大きな声で礼の名を呼んで、簀子縁を走ってきたのは縫だった。
「ご無事で……」
 階を駆け下りて礼の手を取って、声を詰まらせた。
「……縫」
 礼は縫の手に導かれるまま、階を上がって部屋の中に入った。
 礼は庇の間に腰を下ろすと、部屋の奥から去が現れた。
 部屋の中は灯台に火が灯され、明るくなった。その中に薄汚れた着物を纏って、真っ黒に日焼けした隻眼の女が座っていた。
 去は足元に座る女を見た。
 これが、あの礼か、と疑うほどにみすぼらしい姿だ。美しかった髪は、中途半端な長さに汚く削がれて、埃をかぶって艶がない。白かった肌は日焼けして、冬の寒さに頬や手は荒れて、赤くなっている。
 去は礼の前に座った。
「礼」
「……去様」
 その声は紛れもなく、礼のものだった。
「お前という子は……お前という子は……」
「……申し訳ございません。……去様の言いつけを守らず、勝手をしました。……もう、帰れる場所ではないとわかっていても、こうして戻ってきてしまいました。どうか、一目、我が子の寝ている姿を見せていただきたいのです。その願いが叶えば、私は、この場を立ち去ります」
 礼は去を見つめて言った。そして、頭を深々と下げた。
「礼、顔を上げなさい」
 去に言われて、礼が顔をあげると、いきなり去の手が飛んできた。平手が礼の左頬を打った。一度ではなく、二度、三度と続けられた。旅で痩せてしまった礼は、その力に負けて横倒しに倒れた。
「去様、お怒りはごもっともです。しかし、礼様はたった今旅から帰られたばかりの体です」
 縫が倒れた礼の体に覆いかぶさって言った。
「一年の間、お前が行方知らずとなり、残された者がどのような気持ちであったかを考えたことがあるか。皆がお前のことを案じて、苦しんだことを。お前が投げ出して行った子供たちをお前の代わりに大切に育てるために苦労したことを。なにより一番にあの子たちがどれだけ悲しんだことか。どれだけ泣き叫んで、母を探したことか。お前を恋しがって泣いて泣いて……。お前がしたことは、許しがたいことだよ。許せることではない。……しかし……こうして無事に帰って来られたのだから、しばらくは屋敷に置いてやろう」
 去は立ち上がって部屋を出ようとするが、その前に小さく縫に告げた。
「縫、世話をしておやり」
 去と入れ替わるように、侍女二人が部屋に入ってきた。
「礼様」
 去の言葉が突き刺さり、俯いて黙っている礼に、縫が体を揺すって促した。
「ご覧ください。お二人とも、健やかにお育ちですよ」
 礼はその言葉で近寄ってくる侍女の腕の中を見た。
 すでに眠っていた我が子二人を抱いてここまで連れてきてくれたのだった。小さな衾にくるまれた二人は、すやすやと眠っている。体は大きくなって、顔立ちもまたはっきりとして、月日が経ったことを教えた。
「二人とも、とても元気です。言葉もたくさん覚えてよくお話されますよ」
 礼は二人を代わる代わる覗き込んで、その可愛らしい顔をながめた。
 真っ白な美しい我が子を見て、去が言うように自分の代わりにこの子達を邸の者達が大切に育ててくれたことがわかった。皆に感謝してもしても、したりないほどである。
 礼は、自らの両手で顔を覆った。声を出して泣けるわけはなかった。自分の勝手で、どれだけの迷惑と苦労をかけたことか。ただ声を殺して、その代わり肩が揺れた。

コメント