Infinity 第二部 wildflower64

小説 wildflower

 礼と耳丸の帰還から一夜明けて、去の屋敷は大いに賑わった。去の怒りはもっともであるが、しかし、邸の者達は二人が無事に帰ってきたことを喜んだ。
 昨夜、汚れた衣装から清潔なものに着替えた礼は、侍女達の部屋の空いている一室で休んだ。朝に、縫がやってきてあれこれと世話を焼いてくれた。
「礼様、湯浴みの用意ができました」
 縫に促されて礼は湯浴みをした。さっぱりと旅の汚れを落として、衣装を整えると、意を決して去の元へと行った。
 去は自室で、弟子の一人と話をしているところだった。話しが終わるまで、庇の間でも簀子縁に足の指が出てしまうほどの一番端で待ち、弟子が部屋を出ても、すぐには中へと呼び入れてもらえなかった。やっと呼ばれると、礼は去の前に恐る恐る座った。
「なんだい?」
 去は机に向かって筆を走らせながら訊いた。
「……耳丸を診ていただきたいのです。帰りの旅の途中で大怪我を負って、生死をさまよったのです。どうか、耳丸の治療をお願いいたします」
「……いいだろう」
 去は礼を下がらせると共に、すぐに耳丸を呼ぶように言いつけた。
 耳丸は、昨夜の礼と去のやりとりを、階の下から見聞きしていた。そして、旅立つ前に使っていた自分の部屋へ行くと、夜具が畳んであって誰も使っていないようなのでそこへ入って寝たのだった。
 老爺と共に薪割りをしていたところに去の弟子に呼ばれて、耳丸は去の部屋に現れた。
「耳丸、傷を負ったそうだね。見せてみなさい」
 耳丸は黙って自分の上衣を脱いで、その左肩の傷を見せた。去はその傷が現れると息を飲んだ。
「ああ、どうしたことか。お前たちはどんな旅をしてきたの。命があったのが不思議なくらいだ」
 去は生々しいその傷に手を置いて、確かめた。
「耳丸、お前の口から聞かせておくれ。どんな旅だったのか。実言殿はご無事だったのか」
「去様……」
 耳丸は静かに話し始めた。まずはその旅の始まりを。

 耳丸はしばらく束蕗原の温泉地で療養することになった。それを聞いた礼は安心し、耳丸の傷が少しでも癒えることを祈った。
 そして、礼は縫から旅立つ前に使っていた自分の部屋で過ごすように言われた。そこは今、双子の部屋になっている。礼は、子供達と一緒に過ごすことを許されたことに驚いた。縫をはじめとして皆が遠慮なく双子の母親として扱うので、そのまま子供達の部屋で皆と寝食を共にした。
 双子は去や縫、去の弟子たちに懐いていて、いつものように礼以外の女性たちにまとわりついて遊んでもらっている。転んで泣き出しても、すぐに立ち上がって縫や弟子たちの腕の中に飛び込んで慰めてもらう。
 束蕗原を発つときは、まだ這い始めたばかりで、はっきりした言葉はなく、可愛らしい笑い声をあげていたものが、今では拙い言葉を一生懸命に発して自分の気持ちを伝えようとする。愛らしい仕草や言葉に礼は癒されるのだった。
 礼は部屋の隅でさりげなく二人の様子を見ている。双子は礼を怖がるわけではないが、近寄ってもこない。礼が居ないかのように部屋をかけまわっている。
 礼は二人がどんな態度であろうとも、二人の姿を見ていられるだけでよかった。たとえ、自分を母と認めてもらえなくてもこうして近くで見守ることができればそれでよかった。礼は自分が犯した罪への罰を受けるつもりだ。どう弁明しようとも、一度この子たちを捨てたも同然である。会うことを禁じられても仕方ないと思っていたから、部屋の片隅にでもいられるだけでよかった。
 礼が戻ってきて一月が経った頃。そのときは礼が部屋の隅で縫物をしていた。縫や去の弟子たちは隣の部屋にいるのかそばには誰もいなかった。双子の女児が、庇から簀子縁へ出ようとしたとき、躓いて転んでしまった。転んだまま起き上がらないのを心配して、礼は手を止めて部屋の隅から立ち上がり、後ろから体を持ち上げて起こした。
 そのとき、初めて子供の体を抱き上げた。赤ん坊のときとは違い、ずっしりと重たくなっていて、その重みに礼は驚いた。
 体がふわりと浮いて、自分の足で立たせてもらった女児は礼を振り返った。礼はぎこちなく笑う。女児は泣くことはないが、隻眼の女を不思議そうに見上げて、やがてぷいっと後ろを向いて簀子縁を走って隣の部屋へと駆けて行った。
 礼はその姿を見送ったあと、外に視線を移し、遠くの山を見て、これは私の罰なのだと言い聞かせた。
 子供が昼寝をしているときは、礼は都から持って来た自分の机で、去から借りた薬草の本を一心不乱に写した。そのときだけが、実言のこと、子供達のこと、苦しみも悲しみも忘れられた。
 礼は不意に視線を感じた。手を止めて視線を上げると、昼寝をしていた男児が起きだしていて、庇の間を歩いて来てじっと礼の姿を見ているのだった。礼もじっと見返した。ビクッとして、その場から抜足差足で礼の視界から消えていく。かわいい姿だった。礼は目を細め、胸を熱くした。縫が男児を呼ぶと、軽やかな足音をさせて、隣の部屋に入っていく様子が感じられた。
 礼はこんな風に子供達の様子を見られて嬉しかった。そっと視界に入るあどけない姿や、隣の部屋から聞こえてくる笑い声。そのそばにいられるだけで喜びが湧いてくる。
 ある日、子供達は部屋の中で人形遊びをしていた。その様子を去の弟子達が見守っている。礼も庇の間に座って二人を見ていた。
 人形遊びも飽きてきて、二人は立ち上がって、追いかけっこをし始めた。部屋と庇の間、そして簀子縁を行ったり来たりする。小さな体が俊敏に駆け回るのを大人たちは右に左におろおろと動き回った。
「これ、二人とも、危ないではないですか」
「おやめなさい」
 口々に止めるように言われても、二人は追いかけっこを止めない。捕まえては離れて、追う方と追われる方を入れ替わりしながら、走りまわる。
 大人たちは二人の姿を追いながら、危険がないように気を配った。礼も庇の間から二人の姿を目で追っていた。部屋は御簾をおろしているところや、几帳をたてているところがあり、二人はそれをうまくよけて縫うように走りまわる。男児が隣の部屋の上げている御簾の下を通り抜けて、簀子縁へ出る。それを追いかけて女児も簀子縁へと消えた。二人が簀子縁にでてしまって、礼の視界から二人は消えたと思ったら、突然、礼の座っている庇の間の開いている妻戸から男児が飛び込んできた。女児もそれに続き、庇の間を走り回った。男児は礼の右側をすり抜け背中を通り、左側を走り去るのかと思ったら、礼の左腕に取りついて顔を押し付けた。女児も遅れて走ってきて礼の右腕につかまると、真似るようにして顔を押し付ける。二人は礼の左右の腕を柱代わりに、少し顔を出して、礼の胸越しに睨み合った。険悪そうな顔を見せあっても、次には可愛らしい声で笑い出して、礼の胸の前で小さな手を伸ばして握り合った。
「礼」
 頭上から去の声がした。しかし、礼は、その声に顔を上げることはできなかった。
「あなたがいつまでも隔てを置くから、この子たちの方が先に折れてしまったかもしれないね。あなたはこの子たちに申し訳なくて、自分を許していけないと思っていても、それは大人の世界のこと。子供たちはあなたが必要なのよ。抱いておあげなさい」
 去は簀子縁から庇の間へと入ってきて、礼の前に座った。
 礼は大きな息を一つ吐いた。溢れ出る涙を堪えようと息を止めていたからだった。
「二人ともおいで」
 俯いて右目から大粒の涙をこぼす礼を不思議そうに見上げている双子を去は自分と礼の間に座らせた。
「お前たちのお母様だよ。いくらでも甘えていいんだ。お前たちはお母様を恨んだりしていないものね」
 ほら、と言って、去は二人の手を膝の上で固く握られている礼の拳の上に乗せてやった。礼の拳は小刻みに揺れて、唇からは嗚咽が漏れた。
「さ、去、さ、ま」
「私たち大人の感情をこの子たちにまで負わせようとは思わない。この子たちにはお前が必要だよ。こうして、生きて帰ってきたのだから抱いておあげ。この子たちも、ずっと我慢していたのだよ」
 礼は拳を開いて、小さな手を一人ずつ握った。それが合図のように、二人は礼の膝によじ登り、礼の顔に自分の顔を近づけた。
 小さな手が礼の頬に触れて、左側にいる男児が礼の眼帯に手を伸ばした。眼帯はされるままに小さな手で外された。醜い傷が現れたが、男児は恐れることなく礼の左目をそっと小さな手のひらで覆った。右側にいる女児は、大粒の涙が後からあとから流れ出るのを袖で拭うのだった。
「うっ、うっ……」
 礼はどうしても嗚咽を止められず、腕に抱く二人の胴を引き寄せてその肩に顔をうずめた。
 我が子の優しい手に癒されながら、礼は涙を止めるために少しの時間を要した。
 その日から、皆は礼が部屋の隅に座ることを許さず、部屋の真ん中で子供たちと一緒に過ごすようになった。最初は、子供たちも今まで自分達が慣れ親しんだ縫や弟子たちに遠慮してか、何かあればその者たちのもとにかけ寄って行ったが、礼と触れ合う時間が増えると、次第に礼を頼りにするようになって、自分から礼の膝に乗ったり、礼の背中にすがって甘えたりした。
 ある日の昼間、女児が礼の膝の上に頭を乗せてきた。遊び疲れて眠たくなったのだろう。礼が手を差し出すと、待ってましたとばかりに腕の中に入って眠ってしまった。横抱きして、寝顔を見ていたら。
「礼様。褥の上に寝かせてください」
 と言って、侍女がすでに男児を寝かせた隣の部屋の褥を案内する。礼はゆっくりと立ち上がり、隣の部屋に移って抱いている女児を褥に降ろすと、少しむずがる仕草を見せる。礼は動きを止めて女児の様子を見た。そおっと背中に回した手を抜こうとしたら、女児の目がうっすらと開く。礼は、手を抜くのをやめて、起きるのか寝るのか様子を見ていると、女児が言った。
「……おかあたま」
 周りの者が、礼を「お母様」というのを真似て言ったのだろうが、礼にとってはそれが初めて母と呼ばれた時だった。まだ、はっきりと発音できずに可愛らしい間違いをしているが、礼には清らかな声が「おかあさま」と言ってくれたのが自分の耳に届いた。
 女児は言ったら、目をつむって寝息を立て始めた。礼はそっと手を抜いて、女児の様子を見た。上からその寝顔を見ていたら、我慢しきれず出てきた一粒の涙が女児の頬に落ちた。女児はぽたりと顔に降ってきたものに驚いたように手を少し上げかけた。次に口の両端を上げて、にっと笑った。何か楽しい夢でも見ているかのようだった。
 礼は、これ以上の喜びはなく、袖で顔を覆い、簀子縁に出て行って咽び泣いた。

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