Infinity 第二部 wildflower7

邸 小説 wildflower

 相変わらず、耳丸の視線は厳しい。礼は耳丸に好かれたいとは思わないが、苦々しげな視線をむけるのはやめてもらいたい。
 実言は耳丸の様子に気づいて、礼に尋ねてきた。
「礼、耳丸とはどうだい?」
 実言に続いて礼も、もう寝ようと寝台の上に上がったところだった。
 礼はどう答えたものか、しばらく考えた。すると、実言は鋭く言った。
「何か、あるのだな」
「……いいえ、違うのよ」
「違わないさ。お前に嘘はつけない。何かあるのだろう。何か言われたのかい?」
「……」
 礼はなんと言ったものか、黙っている。
「言うのだよ、礼。お前は自分一人で悩むのだろう。それは許さないよ。言ってごらん」
 実言は、もう礼の手を捕まえて引き寄せると、礼を腕の中に入れようとした。
「……相応しくないのよ」
「何が?」
「私は、実言に相応しくないのよ」
 礼はふいっと左を向いて、右目を見せた。
「耳丸がそう言ったのか?」
 礼は頷きはしないが、否定の言葉を言うわけでもない。
「それで、礼は何を考えているの?」
 実言はがっちりと礼の体を捕まえて離さない。
「……耳丸の言うように考えている人はいると思うわ」
「礼、それでは耳丸の思うツボじゃないか。礼がそんなふうに思って、お前の心を私から離れさせようとするのがあいつの狙いだよ」
「でも」
「他人がどう見ているかじゃない。礼自身が私をどう思うかだよ」
 実言は礼を押し倒して、迫った。
「私にとって礼は、得難き須和の娘で、私の守り神で、愛する美しき私の妻さ」
 実言は目を細めて笑みを浮かべながら、礼の眼帯を外して唇を寄せる。
「だから、誰が何と言おうとも私にはお前が必要だ」
 実言は礼を自分に向かせた。
「礼にとって私はなんだ?」
 実言はわかっているはずのことだろうに、と礼はあえて言葉にすべきか考える。
 実言は押し倒した礼を後ろから抱え込んで、礼に囁く。
「言わなくてもわかっているけどね。お前にとって私は」
 礼は、急いで実言の方へ向いて、実言の耳元に実言にだけわかるように言った。
 実言は笑って、礼を抱きしめた。礼は実言の気持ちが痛いほど伝わるが、耳丸の言うことが心に引っかかる。
「しかし、実言には耳丸の思う人生もあったわ」
「それは、どんな人生かね。後戻りできないことをあれこれ言ってもしかたないことだし、私は後悔などしない性分でね」
「あなたの容姿、身分にあった女性を得ることよ」
「そんなことを耳丸は言うのか?」
 礼は黙っている。
「あいつは、ひとりで田舎に暮らしていたから、すっかりひとりに慣れてしまったのだ。艶なものにはとんと縁がなかったのだろう。だから、美しい花を部屋の中に活けて愛でるのと同じように、女人も部屋の中に座っていれば良いとでも思っているのかもしれない。美しいだけで何もなさないのは味気ないこと。座っていれば良いだけの相手など、楽しくないね。私には我慢できないことだよ。そして私にとってお前はよき話し相手で、私の生活に味わいを与えてくれて満ちたりた思いに浸らせてくれる」
 実言は礼の帯に手をかけた。
「礼と話をするのも好きだけど、言葉を交わさずこうして褥の上で抱き合うのも、私は好きだよ。どちらも、私にはなくてはならないものだ。私はお前を手離すことなどできないよ」
 実言は礼の単衣の襟に手をかけ身につけているものをゆっくりと剥がしていき、いつものようにその身を腕の中に入れる。実言の胸に顔を伏せて礼は実言の耳元に囁いた言葉を思う。
 私にとってあなたはもうなくてはならない人。別れるなんてできない。

 梅雨の時期、一日中雨が降って気温も下がり、邸中の侍女や従者が寒いと言っている。
 離れでも、縫が自分の肩を抱いて震えながら、火鉢を出したいと言っている。大げさなと思いながらも、礼も悪寒を感じた。
 実言も宮廷から帰ってくると、温かいものが食べたいといい、礼は夕食の献立に温かいものを出すように言いつけて、実言に薬湯を作って飲ませた。
 翌日は、風邪を引いたといって多くの屋敷のものたちが礼のところに薬湯を貰いに来た。礼は倉から薬草を出してきて釜で煎じて、来る者来る者皆に飲ませた。気温の変化で邸の者たちがこの離れに来るのは、恒例になりつつあり、礼たちも予測して準備をするようになった。来る者には薬湯を飲ませて、熱で褥から起き上がれない者には、侍女たちが部屋に薬湯を送り届けた。
 実言は宮廷から帰って来ると礼に言った。
「誰か、耳丸の部屋に人をやってくれ。風邪をひいたようで、起き上がれないそうだ」
 今日、実言は都の周りの見回りに行ってきたと言っているから、当然耳丸も連れて行くつもりだったのに、朝起きてこなかったことで風邪を引いていることがわかったのだ。
「耳丸はずっと部屋で寝ていたの?」
 邸の者たちがそれぞれやってきて自分の身体の不調を訴えたり、隣の部屋の誰々が起き上がれないと言ってきたりするので、自然と邸に仕えている者たちの体調は把握できているが、その中に耳丸だけは入っていなかった。だから、耳丸が風邪をひいて部屋で寝ている何てことは全く知らなかった。
「昨日の雨に濡れていたからね。礼の世話になるのが嫌なのか、黙って部屋で唸っているようだ」
 礼は、すぐに薬湯を作らせて、縫と一緒に従者の住む棟へと向かった。
「礼様。わざわざあなた様が行くことはないのですよ。私一人でもいいのです」
 縫は薬湯をもって礼の後ろを歩きながら言う。礼はそれには答えずに、早足に棟に向かって歩いた。
 もう夕方だ。朝から苦しんでいたのであれば、長い間辛かっただろう。もう峠は越えただろうか。症状は落ち着いていたらいいけれども。
 そんなことを考えながら、礼達は耳丸の部屋の前まで来た。
「耳丸。礼よ。入ります」
 声をかけて、礼は戸を引いた。部屋に入って衝立の上に顔を出すと、耳丸の寝姿が見えた。部屋の中は、汗の匂いが立ち込めている。
「耳丸?」
 耳丸から反応がなく、礼は衝立を越えて奥に入った。向こうを向いていた耳丸は慌てて起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かないのか、一度起こそうとした体は起き上がれず、突っ伏したままだった。
 礼は耳丸の顔が向いている側に座って、顔色を窺った。耳丸は礼が側にいることはわかっているが、声も出せないようだ。目をうっすらと開けて、礼を見たがすぐに目を閉じた。
 礼はそっと耳丸の額に手を置いた。熱がある。それも、とても高い。実言よりも大きな体で体力も有り余っている男でも、この熱ではとても苦しいはずだ。
 礼は縫と共に水を入れた桶や、着替えを持ち、下男も連れて再び耳丸の部屋に向かった。
 汗にまみれた耳丸の体を固く絞った布で拭いてやり、湿った単を着替えさせた。耳丸は力なくも、抵抗するそぶりを見せた。
「私に世話されるのは嫌でしょうけど、言いたいことは熱が下がってから聞くから、まずはその体を治しなさい」
 大きな体なので、縫と下男と三人で耳丸の身体を起こし支えてその体を清潔にした。体を起こしたまま、薬湯と水を飲ませて、ふたたびゆっくりと横にした。
「このまま寝るのです」
 礼はそっと耳丸の耳に行った、そして静かに部屋を出た。礼は下男に、亥刻に耳丸の様子を見に行くように言いつけて離れに戻った。
 実言は机に向かって書物を広げていた。礼が部屋に入ってくると振り向いて声をかけた。
「わざわざ礼が行ってくれたのか。ありがとう。耳丸はどうだった?」
「熱も高くて、声も出せないほど苦しんでいたわ。明日も寝かせておきます」
「私の方も、明日は宮廷に出仕だから、問題ないよ。しっかりと休ませてやっておくれ」
 礼は実言の隣に座って、手に持った薬湯の入った椀を差し出した。

 礼は朝一番に、侍女を耳丸のところに向かわせて様子を見に行かせた。
「おやすみのようですよ」
 侍女の報告を聞いた縫が、朝、実言を送り出した礼に言った。下男にも夜の様子を聞くと、枕元の水を入れた椀は空になっており、苦しくなっては目を覚まして水を飲んでいるのがわかった。今はまた眠ったのだろう。朝餉の前に、礼は澪を連れて耳丸の部屋に入った。
「耳丸?入りますよ」
 礼は声をかけたが、部屋の中から反応はない。礼は衝立を越えて中を覗くと、耳丸は寝息を立てていた。礼は向こうを向いて寝ている耳丸の背中側に座り、そっと額に手を置いた。昨夜の火のような熱さは収まっている。体の内側から出る苦しさは脱しただろう。あとは体をゆっくり休めなくてはいけない。耳丸の着ている単に手を伸ばすと、しっとりと湿っている。部屋の中は汗のくぐもった匂いが充満している。夜具や着ているものを清潔なものに取り替えてやりたいが、せっかく深く眠っているのを起こすのもかわいそうだ。礼は、持って来た水の入った椀を置いて出て行った。下男に耳丸が起きたら教えるように言った。
 礼は朝餉を食べて終えて、去から借りた書物を広げていた。すると、下男が庭から階の下に来て、耳丸が目覚めたようだと伝えに来た。
 礼はすぐに耳丸の部屋に向い、声をかけて部屋の戸を開けた。
「耳丸。起きてる」
 部屋からは何の返答もなかったが、気にしなかった。部屋に入ると耳丸は目をつむったまま、横になっていた。起きているのかどうか分からないが、礼は耳丸のそばに膝をついた。そこで耳丸は身じろぎした。起きているということを言いたいようだ。
「気分はどう。熱は引いたようだけど」
 耳丸は答える気配はない。
「体を拭くわ。単衣も着替えたほうがいい」
 掛けている衾を剥ぎ取り、一緒に連れてきた澪と下男と共に耳丸の体を起こした。帯を引き抜いて、単衣を脱がすと、礼は背中を手早く濡れた布で拭いてやった。耳丸は起きてはいるが、熱と戦ったあとで体力を消耗したためか、上半身を起こしただけでもふらついて、礼達にされるまま身を任せた。耳丸の身体の下に敷かれた薄い褥を引き抜いて、新しい褥を引く。濡れた冷たい布で礼は耳丸の額、頬、首筋と拭いてやる。
 すると、耳丸は何か言いたそうに口を開けて動かした。すぐには声が出ないために、口をゆっくり動かして、やっと声になった。小さな声で、何を言っているのか、礼は耳を澄ました。
「……余計なお世話だ。いらぬことを……」
 苦々しげに憎まれ口を叩く。礼は、すっと身を引いた。
「間違えてもらっては困る。私はあなたのためにこのようなことをしているのではないわ。これは岩城の家のため、実言のためよ。実言に仕えるあなたが何日も寝込まれては困るからよ」
 礼もお返しのようにかわいらしくないことを言った。そんなことが言いたいわけではなかったが、憎らしいことを言う耳丸に、素直に熱に苦しんだことをいたわる言葉は出てこなかった。
「……はっ、だから、あんたを嫌いなんだ。実言にはふさわしくない……」
 苦しそうではあるが、礼を睨むように見上げた目を細めて耳丸は言った。
「なんとでも言うがいいわ」
 礼は静かにそう言って、下男に耳丸に冷ました薬湯を飲ませるように言った。立ち上がると、澪に目配せして二人は障子の後ろに消えた。部屋を出て行く振りをして、礼は障子の後ろに立ち止まった。
 下男に抱き起こされた耳丸は口元に差し出された椀の端に口をつけると、ごくごくと喉を鳴らしながら飲んだ。「水も飲むか」と下男に問われて、水の入った椀を口元に運ばれたのだろう「焦ることはない。水がこぼれるぞ」と声をかけられながら、今度はゆっくりと水をすする音がした。礼は、その様子を確認すると音を立てないように耳丸の部屋から出て行った。

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