New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章15

小説 STAY(STAY DOLD)

 毎夜、実津瀬は芹の隣に体を横たえると手を握り、体を抱いた。
 伊佐に行く前の義務のように。
 そんな思いが芹の心の中で湧き上がるのを抑えるように、芹は実津瀬の背中に手を回す。
 昼間は淳奈の相手をしながら、実津瀬の伊佐行きの準備をした。
 斎王が都から伊佐に旅立つ儀式は数日続き、そして出立する。都を出るまでは壮麗な列を作って、斎王を見送ることになる。その時に着る装束の準備や旅の持ち物など、やることはたくさんあった。
 不本意ではあるが、夫が不自由しないように準備しないといけない。
 異彩期が決まると、芹は夫の肌着を作るのに、一刺し一刺し針を刺した。左手が不自由だから、人より時間がかかる。あとひと月たらずで伊佐に旅立ってしまうのだから、悠長にやってはいられなかった。
 そして、縫い物に没頭している中でふっと想像した。
 この肌着をあの女の手が触ることになるだろうか……。実津瀬が許さざるともそうなる可能性はある。そうならないように少しでも実津瀬を守る念を入れ込もうとした。
 そこに淳奈が部屋に駆け込んできた。後ろには子守の侍女を一人連れて、庭には天彦が待機している。
「お母さま、お庭に行きましょう。お花を摘んであげます」
 春になって花々が咲くと、淳奈は庭で花を摘んできて、芹に差し出した。芹がそれをとても喜んだので、きれいな花を見つけたら必ず摘んでくるようになった。
 最近は邸の子供達と遊ぶことが増えた淳奈であるが、やはりまだ母の膝の上に座りたいと近寄ってきて、その胸に顔を埋めて甘えてくる。
 今も、毎日縫い物をして一緒に遊ぶことが少なくなった母と外に行きたいと言った。
 早く縫い上げたいと言う気持ちはあるが、息子と一緒にいることも大事だと思って芹は言った。
「そう、嬉しいわ」
 縫い物を置いて、淳奈と一緒に簀子縁に出た。
 部屋の中にいたから全く気づかなかったが、朝、実津瀬を送り出す時には広がっていた青空は今は重い雲が垂れ込めている。
 芹は左手を空に向けて、雨が降っていないことを確かめた。
「淳奈、雨が降りそうよ。お外に行くのはやめましょう」
 芹が言うと、淳奈は首を横に振って母の手を引いて階を降りようとする。
 雨が降り出す前に花を摘んで戻ってくればいいか、と芹は思い、淳奈と共に階を降りた。
 淳奈はすぐに自ら庭の奥へと走っていくのを天彦が追った。
 五条岩城邸は本家に引けを取らない広大な敷地を有している。義母の礼のために、義父が薬草園を作り、通りを挟んだ向かい側には診療所を作った。そして、少しずつ隣の土地を買い増して敷地を広げた。買い増した土地は薬草園と庭になり、子供たちには格好の遊び場所になった。
 芹は淳奈と天彦の背中をゆっくりとした足取りで追った。知らないうちに淳奈は邸の子供達と庭や薬草園を探索し、目当ての花があるようだ。
「お母さま!」
 庭の奥にだいぶ行ったところで、淳奈は振り返って両手をめいいっぱい広げて芹を呼んだ。
 芹がたどり着いた先は、椿の木が幾本も植えられている場所だった。季節終わりの最後と言わんばかりに赤い花、白い花が別れて咲き誇っている一画だった。
「まぁ!」
 その美しさに思わず声を上げた母の様子に、淳奈は満足気な顔で言った。
「きれいでしょう?」
 淳奈が母の袂に走ってきてその手を握った。
「……本当にきれいね」
 雲行きは危ういが、椿の木を見上げると雲間から青空がのぞいていた。
 淳奈は天彦の助けを借りて椿をいくつか枝ごと折った。
 伊佐の準備で根詰めていた芹は淳奈と庭を歩き回るのは良い気分転換になった。
 淳奈の案内であちらこちらと花の咲いた草木を見て回っていると、頭上から冷たい水滴が落ち来た。
「あ……」
 芹は手のひらを開いて上を見上げた。
 青空の見えていた空は今では黒い雲に覆われていた。早く離れの部屋に戻らなければと思ったが、雨は急に強くなって、広い庭から離れまで戻っているとびしょ濡れになってしまいそうだった。
「芹様、こちらに」
 天彦は淳奈を抱き上げて、枝葉のよく茂った椋の木の下に導いた。
「ああ、早く離れに戻ればよかったわね」
 芹は胸から白布を出して、天彦の腕から下ろされた淳奈の頭や肩の雨粒を拭った。
 天彦が同じように自分の白布を胸から取り出すと、淳奈はそれを受け取って母と同じように母の髪を拭いた。
 天彦がしばらく空を見上げてから、芹と淳奈を同じ目線になるよう片膝をついて言った。
「この雲が通り過ぎれば雨も小降りになるでしょう。しばらくここで雨宿りをしてはどうでしょう」
「そうね……少し様子をみましょうか」
 芹も同意した。広い庭だから戻るのに時間がかかる。この雨の勢いであれば、部屋にたどり着く前にぐっしょりと服に雨が染み込んでしまうだろう。
 天彦が白布を敷き、その上に芹と淳奈は座った。
「天彦も座って」
 立って空を見上げている天彦に芹は言った。
 天彦は淳奈の隣に腰を下ろした。
 淳奈は母のために手折った白の椿の花を天彦から受け取り、母の耳の上に挿した。
「お母さま、きれい」
 淳奈の言葉に芹は微笑んだ。
 いつの間にかこんなことを言うほどに成長したのか、と目を細めた。
 雨は思いの外降り続き淳奈は芹に寄りかかって、うとうとし始めた。
 庭から帰ったら昼寝をさせようと思っていたが、ここに足止めになり本人も眠いはずだ。
 芹は小さな淳奈の背中に手を回し、規則的にとんとんとその背中に手を置いた。
 母に触れられているという安心感から淳奈はすぐに目を瞑って眠りに落ちた。その様子をみた天彦が言った。
「芹様、淳奈様は私が抱いて差し上げましょう」
「いいえ、このままでいいわ。動かして起きてはいけない」
 芹は言って、肩に寄りかかる無垢な寝顔に目を落とした。
 そこで耳に挿された白い椿の花びらが一枚、二枚と膝の上に落ちた。
 それで芹は椿の枝を耳から外した。
「あっ……」
 外した椿を膝に置いたのを見た天彦は声を上げた。
「どうしたの?」
 芹が言った。
「いえ……とても似合っていらっしゃったので」
 と、天彦がしりつぼみに声を小さくして言った。
「この花?」
 膝に置いた椿を取り上げて訊いた。
「……はい」
「まぁ!淳奈といい、あなたといい、女人を思いやってくれるのはいいけれど、そんなお世辞を間に受けたりはしないわよ。でも、嬉しいわ」
 淳奈を起こさないように小さな声だが、天彦に聞こえるように、手を口元に立てて言った。
目を細めて笑う芹に天彦も目を細めた。
「今の季節は色とりどりの花が咲いて美しいわ。最近は部屋の中にこもっていたから、そんなことに気づかなかった。淳奈はそれを教えてくれようとしたのかしらね」
 芹は言って淳奈の角髪に結った髪を撫でた。
「………芹様……これを」
 突然、天彦は背中に隠していた桃色や黄色の花の束を差し出した。
「まぁ、私が言ったからくれるの?あなたが別の人のために手折ったものでしょう。申し訳ないわ」
 出してしまったものを引っ込めるわけにはいかないと思い、芹は受け取った。
「淳奈が手折ってくれたものと一緒にいけるわ」
 芹は言うと天彦の花を膝の上に置いて黙った。
 天彦は顔を下にして自分が渡した花を見ていると芹の手の甲にぽたりと水が落ちた。
 雨が落ちてきたのか、と天彦は慌てて顔を上げて、芹に移動を促そうとしたが芹を見て、動きを止めた。
 落ちてきた水。それは雨ではなくて、芹の涙だったからだ。声を出すこともなく芹は涙を流していた。
天彦はその様子をみてはいけないとわかっていても、黙って見つめた。
「………ごめんなさい………私」
 芹はようやくそう言ったが、声を詰まらせた。
「いいえ、私のことは気になさらないでください。私は………陰です」
「………ふ、ふふっ………」
 芹はしばらく黙っていたが、小さな笑い声を漏らした。
「どうしたのかしらね、泣くなんて」
 芹は言った。訳もなく泣いている自分が恥ずかしくなった。
 そこで天彦は身を乗り出して芹の膝の上の手の下に自分の手を入れて握った。
「無理なさることはないのです。悲しいことがあったなら、それを外に出してしまったらいい。ここにはあなた様と……眠っておられる淳奈様しかおりません」
 目の前にあなたがいるではないの、と芹は思ったが、自分のことを気にせずに今は思いを露わにしなさいと言ってくれているのだと思った。
 芹は声を押し殺して泣いた。嗚咽が大きくなりそうになると、天彦の手を握って声を抑えた。
 私は陰ですと言った天彦。姿が見えないのに必要な時に現れる。それはいつも、どこかで芹たちを見ているからだろう。しかし、どこまで見ているのだろうか。実津瀬、芹、淳奈の何をどこまで見ているのだろう。
 天彦の言葉に溢れ出る感情を抑えられなくなって、それでも、側で寝ている淳奈を起こさないように芹は泣いた。
 天彦の手を握って。
 芹が力一杯握るのを天彦の大きな手は指を添えて包み込んだ。
 芹は自分の心の内に目を向けた。
 泣き止むために、自分の感情を抑えるために。
 芹が嫌だと思っていることを夫はしなくてはいけない。夫も嫌だと思っているのに、それをしなくてはいけない。
 二人の気持ちは一緒だ。しかし、夫はそれを責務として果たさなくてはいけない。この理解し難い困難を二人で乗り越えていかなくてはいけないのに、芹には拭えない猜疑がある。
 夫を信じていると言えるのに、こうして涙が出るのはなぜだろうか。自分の心は嘘をついていると言うことだろうか。
「芹様……」
 天彦は言って握る芹の手に力を込めた。
 天彦は陰で私たち夫婦の姿を見て、自分が何に葛藤しているのか知っているのだろうか。
 夫は最高の男である。こんな自分を愛し、女主人として身を立たせてくれた。全てのよりどころであるが、今、自分の感情を受け止めてくれてはいない。
 この寄る辺ない気持ちを支えようとしてくれているのは、目に前にいる男だ。
 この手が今は自分の心を慰めてくれる。
 大きくて暖かくて。そして優しさを感じる。自分の感情に寄り添ってくれる男は目の前にしかいないかもしれない。
 この男は今、私が何に苦しんでいるのかわかっているのだろう。だから、優しくしてくれるのだ。
 この手に縋り、感情の赴くままに身を委ねたら……この苦しさかを忘れることができるだろうか。
 実津瀬は自分の手をこんなふうに優しく包み込んでくれるだろうか。伊佐に行く準備で忙しい時に、そんな余裕はないかもしれない。
「芹様………私は……」
 天彦は芹の手を握ったまま淳奈の隣から這い出て、芹の前に片膝をついて言った。
「あなた様を……」
 芹の方が強く握っていたはずが、今は天彦の方が芹の手を強く握っていた。
 天彦は何を言うのだろうか。自分にどんな言葉を言ってくれるのだろうか。
 芹は天彦に手を握られることは嫌ではなかった。むしろ、心が安らぐように思った。
「あま……」
 芹が目の前の男の名を呼ぼうとした時、寄りかかって眠っていた淳奈が声を上げた。
「…んん……母さま……」
 淳奈が目を覚まし、寝ぼけ眼で目をこすった。
 芹も天彦も黙って淳奈の様子を伺った。
 目をぱちりと開いた淳奈は母の目の前に膝立ちして畏っている天彦の姿を見た。それがどういう状況なのかわかるはずもないのだが、母の袖を握ると天彦に凄んだ表情を見せた。
「お母さま、どうしたのですか?」
 淳奈の問いかけに芹は答えた。
「……雨が止みそうだから、その様子を見るために天彦が立ち上がらせてくれようとしていたのよ」
 と。
 淳奈は母の袖を両手で掴んで、視線は天彦に向けたまま。
「まだ、雨は降っているけど、お部屋に帰りましょう。濡れても仕方ないです」
 と言った。
 芹は淳奈の言葉に空を見上げた。雨は小降りになり、これなら走って離れに帰ってもいいように思った。
「……そうね、戻りましょうか」
 芹の言葉に天彦は芹の手を握って立ち上がらせた。芹は淳奈の手を取って立ち上がらせた。
 離れの部屋に戻る時、淳奈と手を繋いだが、離れに導いてくれているのは淳奈だった。
 淳奈は目を覚ましてすぐに母と従者の様子に何かを感じ取ったようだ。
 淳奈が目を覚まさなければ、天彦はなんと言っただろうか、私はどうしていたのだろうか………。
 芹は考えた。
 自分の感情に寄り添ってくれる男の手の中に落ちていくことを選んでいたのだろうか……。それは、夫への復讐になるのだろうか……。
 離れの部屋の前に階に着いた時には淳奈は普段通りに芹に甘えて沓を脱がせてほしいとねだった。侍女の槻が降りてきて淳奈に手を貸した。沓を脱いで淳奈の手を引いて部屋に上がる時、芹は後ろを振り返った。
 天彦は芹と淳奈が無事に部屋に戻ったことに安堵しているかのような表情で弱雨の中、びっしょりと濡れて立っていた。

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