芹と淳奈が突然の降雨で庭に足止めになった日から三日後。淳奈は元気に外を走り回っているが、部屋でせっせと実津瀬の伊佐に着けていく衣類の支度をしている芹はなんだか体がだるく感じていた。淳奈が庭で摘んだ花を持って部屋に駆け込んできて、それを迎えるために立ち上がった時、急に立ちくらみがしてその場に伏してしまった。驚いた淳奈が大きな声を出した。
「お母さま!」
すぐに起きあがろうとしたが、芹はめまいがして再びその場に突っ伏した。淳奈の後ろをついてきた侍女の編が飛んできて芹を支えた。
母の手を握る淳奈に芹は笑って見せて言った。
「大丈夫よ、淳奈。少し横になったら元気になるわ」
手を握り返して言ったが、すぐにその手を編に託して、部屋から下がらせた。摘んできてくれた紫のすみれの花を受け取って。
すぐにもう一人の侍女、槻が現れて芹の体を支えた。
「騒ぐことないわ。少し目眩がしただけよ。褥を整えてちょうだい。少し横になればいいの」
槻は脇息を引き寄せて芹に掴ませると、すぐに奥の部屋に褥を準備した。
「数日前の雨に濡れたせいでしょうか。または根を詰めて縫い物をされたからお疲れになったのでしょうかね」
芹を褥の上に寝かせると槻は言った。
「そうかもしれないわね……少し寝たら良くなると思うわ」
芹はそう言って目を瞑った。ただ横になるだけでよいと思ったが思いの外疲れていたのか、深い眠りに入ってしまった。
目が覚めて、目を開けると辺りは暗く、部屋の隅の小さな灯りが部屋を照らしていた。
日が暮れたのかと驚き、起き上がろうとしたら、左手が重くて顔だけ上げて左手を見た。
親指しかない左手のその親指を実津瀬が握ったまま、衾の上に突っ伏していた。
芹の身じろぎに実津瀬は気づき、目を覚ました。
「………ん……芹………起きたのか」
実津瀬は顔を上げた。
「……私、とても寝てしまったのね。もう夜……」
起き上がろうとする芹を実津瀬は止めた。
「そのまま寝ていていい。少し熱があるようだ。数日前の雨に降られたせいかな……」
実津瀬は体を起こして、芹の側に寄った。
芹の手を握り直し、心配そうな顔で覗き込んだ。
「槻と編から聞いたよ。目眩がしたそうじゃないか。毎日私の伊佐行きの準備に精を出してくれるのはありがたいが、体を壊してはいけない。今はゆっくりと休んだらいい」
そう言って、実津瀬は芹の左手を握る手を右手から左手に持ち替えて、右手を芹の額に当てた。
「ん……熱はまだあるようだ。………母上が薬湯を作ってくれた。飲めるかい?」
芹は頷いた。
実津瀬は微笑んで、芹の顔に顔を近づけた。
「腕を首に回しておくれ」
実津瀬の言葉に芹は素直に両手を上げて実津瀬の首に回した。実津瀬も芹の背中に手を差し入れて抱き起こした。実津瀬は膝を立てて芹の背中を支えると、脇に置いていた椀を持って芹の口元に運んだ。
芹は口をすぼめて少しだけ口に含んだ。熱は冷めているが、苦い薬湯に顔を顰めた。
「熱いかい?もう冷めていると思ったのだが」
実津瀬はそう言って椀を自分の口元に運び、同じように口をすぼめて薬湯を飲んだ。
「ごほっ!こ、これは苦いね。母上は何も言っていなかったが、こんなに苦いものなら言って欲しかった」
椀を下において、今度は水の入った別の椀を取った。
「無理をして飲むことはない。さ、水を飲んで」
芹は水を続けて三口ほど飲んだ。
「疲れているだろう。また横になろう」
そう言って実津瀬は芹を寝かせて、乱れた襖を胸の上まで引き上げた。
「あなたもお疲れでしょう。寝屋の御帳台で休んでください」
「いや、私はどこでも眠れる。あなたの体が休まるのが一番だが、ここであなたを看病したい」
「それは申し訳ないわ」
「そんなことない。私はあなたのそばに居たいのだよ。こうして邸にいる間は私が看病する。まぁ、うちは母や妹の方が看病するのには適任かもしれないがね」
そう言って芹の左手を握った。
安心させるように微笑む実津瀬に芹は微笑み返した。
実津瀬が伊佐に行くと言った時、それは義妹の榧を王宮から返してもらうための取引の結果なのだから仕方がないと分かっているが、裏切られたという気持ちが拭えなかった。伊佐に向かって体が離れていくというだけでなく、夫の心が離れて行くのではないかと思うのだった。
夫を伊佐の随行者に指名したあの人の思いが透けて見える。あの人に夫を取られるのが怖い。もっとも恐れている夫の裏切りが起こってしまうのが怖い。
そうなることを恐れて、自分が同じような裏切りをすれば夫の裏切りを許せるのではないかという考えが頭の中をよぎった。だから、天彦の手を握り、天彦の言葉を待った。あの時、淳奈が目覚めることなく天彦が言おうとした言葉が自分の心を慰めてくれていたら、きっと小さな反抗として実津瀬を裏切っていただろう。
しかし、目覚めた淳奈はすぐに母の邪な気持ちを感じ取ったのだ。そして、母を諌める代わりに天彦に凄んで見せたのだ。
「もうひと月もしたら私は伊佐に行く。その間は離れ離れだ。あなたがこんなふうに体調を悪くしたとしても、看病したくてもできない。だから、今は甘えておくれよ。私が帰ってくるまではどうかどんな小さな怪我や病気もしないでほしいと思っている」
微笑む顔は部屋の隅に置かれた灯台の明かりで疲れが見て取れるが、声は穏やかで優しい。
この人に裏切られるくらいなら自分も同じように裏切りを働こうなんてことをいっときでも考えるなんて愚かなことだ。裏切ってしまったら、この人に二度と心から甘えることはできないはずだから。
実津瀬は空いている右手を芹の頬に当てた。
「眠れるかい?眠れないのなら少しばかり話をしようか?」
「ええ。あなたの声を聞いていたいわ」
芹は言った。
「分かった。何を話そうかな……そうだな……私の夢の話を聞いておくれ。私は海が見たいと思っている。淳奈がもう少し大きくなったら、三人で海を見に行かないか?」
「海?」
「そうだ。実由羅王子の領地を訪ねて、そこで丘から海を眺めるんだ。宗清が話してくれた。三人で海を見たい。海に入ってみたい」
「昨年の花の宴では波を表現しなくてはいけなかったわね。あの舞で波を想像できたけど、本物を見てみたいわ」
「そうだろう。私も見せたい」
「はい」
「伊佐から帰ってきたら、ぜひ行こう」
「はい」
芹は返事をした。
「伊佐に行くことであなたには苦労をかける。だから、帰ってきたらあなたと淳奈の望みをなんでも聞きたいと思っている。私が帰るまでにやりたいことを考えておいてほしい」
「まぁ、でも、私はあなたがお役目を果たして無事に帰って来てくれればいいのです。それが私の望みです」
「もちろんだよ。私のいる場所はここだ。あなたの側だよ。必ず帰ってくる。帰って来たら嫌と言うほどあなたと淳奈のそばを離れない」
「はい。帰ってきたら、あなたが言ったように、あなたと淳奈と一緒に海を見たいです」
「うん、行こう!それまで少しの間、待っていておくれね」
実津瀬は言って芹の顔に近づいて、額に額をくっつけて。
「少し熱いね」
と言い、唇を当てた。
ちゅっという音が目の上で聞こえた。
こうして疲れて帰って来たのに付き添ってくれて、真夜中にこの先の夢を語ってくれるこの人の気持ちを今はただただ素直に受けたい。
やはりこの人しかいない。
伊佐に行くと言われてから、実津瀬に不信を募らせてしまって睦まじく過ごせていたかというと、そうとは言えなかった。実津瀬は芹のどことなく避けている様子に気づいているはずなのに、気を悪くしたりはしない。芹の態度に気づいていないように穏やかな表情で接し、機嫌を取ってくれる。
この人を嫌いになどなれるはずがない。いや、そんなぬるい言葉で表せるものではない。愛している。愛しくてたまらない。命に代えても守るべき人である。この人の気持ちが自分から冷めたとしてもそれは仕方ないこと。この人に裏切られたとしても、私は裏切ってはいけない。それでもこの人のことが好きなのだ。だから裏切らなくてよかった。
込み上げてくる思いが、芹の目尻に涙を浮かばせた。
「どうした?辛いのかい?」
芹は小さく首を横に振った。
「あなたの優しさが嬉しいのです」
芹が言うと、実津瀬は両手で芹の頬を包み、唇を吸った。
優しく、柔らかい口づけ。唇が離れると芹は言った。
「ここに一緒に寝てください」
「あなたは体を休ませなくてはいけない」
「実津瀬のそばが安心できるの。お願い」
「ふふふ。嬉しいことを言ってくれるね」
そう実津瀬は返すと、衾をめくって芹の隣に横になって芹の体を抱いて言った。
「目を瞑って」
「ええ」
芹は言われる通りに目を瞑った。そして、実津瀬が実由羅王子の領地のことを話す声を聞きながら眠りについた。芹が眠ったことを確認すると、実津瀬は起き上がりその顔を見つめた。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章17
小説 STAY(STAY DOLD)
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