実津瀬は宴の翌日は予め休みをとっていたので、宴から二日後、宮廷に出仕すると中務省の仲間たちが早速声をかけてくれた。
口々に勝てなくて残念だと言ってくれて、実津瀬は皆が応援してくれていたことに感謝の言葉を返した。
一日休んで溜まった仕事をしていつもより遅くまでしていると、扉の前に人影が射した。部屋の奥にある机について作業をしていた実津瀬はそのことに気づかなかったが、扉の近くにいた者が人影の男に用を尋ねて、実津瀬のところにやってきた。
「桂様の遣いの方が、実津瀬殿を訪ねていらっしゃっている」
実津瀬は顔をあげて扉の方を見た。
一人の若い美丈夫がすらりとした姿でこちらに顔を向けて立っていた。
実津瀬は礼を言って、立ち上がるとその男の前まで歩いて行った。
「桂様が何か?」
実津瀬は訝しみの表情で尋ねた。
「そろそろお仕事が終わる時間と思ってこちらに参りました。桂様が岩城実津瀬様にお話があるので、佐保藁の宮までご足労いただきたいのです。これから来ていただけますか?」
佐保藁の宮の従者は丁寧な言葉で尋ねた。
「はい。これから佐保藁の宮に行くことはできますが、まだ少し仕事が残っています。それをすぐに片付けます」
「では待っています」
従者は即答した。実津瀬を逃すまいとする意思が見えた。
「佐保藁の宮は訪ねたことがありますから、案内は不要です。必ず行きますから」
実津瀬の言葉に従者は考えてから頷いて、扉を離れた。実津瀬は席に戻って残りの仕事を片付けると、急いで館を出て佐保藁の宮へと向かった。
道中、二日前のことがまざまざと蘇ってきた。
勝敗を決めている間、顔を上げることはできず桂の顔を見ることはできなかった。頭の上で大王との会話を黙って聞いていたが、桂が鼻を啜って、湿った声を張り上げていたのを考えると、あの時泣いていたのだろう。
その涙はどうして?
実津瀬はそんなことを考えながら、佐保藁の宮の正門の前に来た。すぐに門番が出てきて名乗ると、実津瀬を迎えに来たあの従者が現れた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
ほっとした顔をした見せた従者の後ろをついて行きながら、実津瀬はいつものあの部屋に行くのだと思った。
庭に入って桂が気に入っている石畳の部屋にたどり着くと、従者は扉を開けて声を掛けた。
「桂様、岩城様がいらっしゃいました」
机に向かって書き物をしていた桂は、顔を上げて実津瀬を見ると笑顔を見せた。
「実津瀬、よく来てくれた。突然の呼び出しですまないな」
桂が椅子から立ち上がるのを見ると、実津瀬は大股に歩いて桂の元に行った。その様子を見て桂は笑い声を上げた。
「あはは。そんなに焦るものではない」
「いいえ。何かご用があったかと思いまして」
「用がなければ、実津瀬を呼んではいけないか?」
いつものように桂は挑戦的な声で言った。
「そんなことはありません。しかし、宴で、何か私に粗相があったかと思いまして」
「そうだよ。宴だ。宴が終わったから呼んだのだ」
桂と実津瀬の後ろでは、従者が扉近くに置いてあった椅子を一脚持って近づいてきた。
「ああ、太良音(たらね)、そこに置いておくれ」
桂は言い、言われたように太良音という美丈夫の従者は桂が座っていた椅子の前に持って来た椅子を置き、次に桂の椅子の背を持って、向かい合わせになるように動かした。
「さぁ、座ってくれ。少し話をしよう」
そう言って、桂は自分の椅子に座った。実津瀬もゆっくりと椅子に腰掛ける。
「宴の舞は苦労をかけたな」
桂は真っ直ぐに実津瀬を見つめて言った。
「いいえ」
実津瀬は視線を落として返事をした。
「………私を恨めしく思っているか?」
桂の言葉に顔を上げてすぐ様否定した。勝敗のことを言っているとすぐに察した。
「恐れ多いことです。私がそのようなことを考えるとお思いですか?」
「思っていない。しかし、万が一にもそなたの心をかすめたと言うのなら、と思って聞いてみた」
「……恐れながら、あの日、舞台を下りて大王の前にいた時、桂様のお顔を見ることはありませんでしたが、大王とお話しされていた声はよく聞こえました。……その声はなんだか、震えているように思いました。もしかしたら、桂様は涙を流しておられたのではないでしょうか。……それは間違いを恐れず言うなら、我々の舞に感動してくださったのではないか、と思いました。大王に良いものを見てもらうことが、我々の一番の願いでありましたが、それと同じくらいに桂様にも最高の舞を見てもらいたいと思っていました。だから桂様が我々の舞を良いものを思ってくださったならこんな嬉しいことはありません。また、今回も勝敗は桂様が決めることも想定していました。そうなった時は、常々、桂様が言っておられるように公正な目で見てくださると信じていましたから。今回も、公正公平な目で余すことなく見切って、決められたのだと思いますので、桂様の判定を恨めしく思うことなどありません。……決して私が負けていたとは思いませんが、あの時、あの場では朱鷺世の舞が少しばかり優れていたと感じられたのでしょう」
「ふん。最後のは恨み節ではないのか?」
「そう聞こえましたか?」
「聞こえた」
「恨みごとではありません。私は負けず嫌いなので、自分は負けたと思いたくないだけです。しかし、朱鷺世より優れていると言いたいわけではありません。自分の舞に自負があるのと同じくらい、朱鷺世の舞の美しさに敬意を持っています。彼の舞も素晴らしかった」
「うん。そうだな。どちらも素晴らしかった。実津瀬が言ったようにあの場で私は朱鷺世を選んだ。あの男の舞が良いと思った」
「はい」
「……来年も」
「桂様」
それまで穏やかな声音で話していた実津瀬が鋭い声で桂の名を呼んだ。しかし、桂はその変化を意に介することなく続けた。
「対決すると言うのはあの場の思いつきのように思っているのだろう。違うぞ。少し前から、朱鷺世が勝てば、来年も対決を提案しようと思っていた。実津瀬には最初はこの一度だけと口説き落とし、二回目は相手が望んでいるのだから受けてくれとお願いをした。そして、三度目の来年だが……どうか、受けてくれないか。この対決は実津瀬がうんと言ってくれないと成立しない。一度だけと言ったものをこうも引っ張ってやらせることを申し訳なく思っている。……しかし、私の本心は毎年二人の舞を見たいと思っているのだ」
それまでの、恨んでいるか、と実津瀬の気持ちを試していた時のからかいの笑みは消え、桂は真剣な表情で問いかけた。
「……桂様……」
「何?」
「私は……まだ答えることができません。今終わったばかりでございます。もう少し待っていただけますか?」
「……もちろんだ。まだ時間はある。ゆっくりと考えてくれ。今日、呼んだのは私の発言をその場の思いつきのように思われて、流されてはいけないと思ったからだ」
「はい……桂様のお気持ちは承りました」
「また機会を設けて実津瀬の気持ちを聞くとしよう」
「承知いたしました」
「しかし……それ以外の用事でも実津瀬を呼んでいいだろう?」
「……はい。しかし、今日のような昼間の酒を飲まれていない時に呼んでください」
実津瀬は佐保藁の宮での宴の夜のことを念頭に答えた。
「ふん。あの夜は私の大失態だった。あれも戯れと思われたくないのよ。いつか、また、と思っているのだが、そう釘を刺されてはすぐにこの邸での宴に呼ぶわけにはいかないな」
「昼間に、桂様のあのお気に入りの従者と一緒に庭を歩きながら語らいましょう」
と言って、実津瀬は扉の外で見張っている太良音という従者の方にチラッと視線を送った。
「ふふ。それは嫌味か?……私は太良音を気に入っていることは事実だ。美しい男だと思っている。でも、私は実津瀬と二人きりがいい」
「それは私が困ります」
「お前が困ろうとも、私は知らん」
「酷いお方ですね、桂様は」
「私はお前と良い仲になりたいのだ。そのためなら手段は選ばん。しかし、無理矢理と言うのも興がない。その境を攻めて落としたいのだ」
「私は鹿や猪のような獲物でしょうか」
「いやそれは違う。鹿のような獲物は有無を言わさず落とされるものだが、私は実津瀬を納得させたいのだ」
「納得……?」
「そうだ。…………岩城の男は困ったものだ」
「?」
「お前の父親は妻一人を愛してきたのだろう。妻の邸には通わず、すぐに自分の邸に住まわせたと聞く。そんなことでは他所に通うこともできないだろう。どこぞに隠し子がいると言う噂もない。それを見てきた実津瀬も妻一人を愛するようになったのではないか」
「私は幼い頃から父と母の仲の良さを見てきました。子供の頃は何も思いませんでしたが、大人になってからそれは特殊なことだと知りました。桂様がおっしゃる通り、私は両親を見ていたからか、すぐに妻を自分の元に呼んで一緒に暮らしていますが、それは私にとって必要なことでした」
「……そんなに妻のことが好きなのか?」
「はい」
「……そんなに素直に言われたら、私はどうしたらいいのか……悪いことをしている気になる」
「はい」
「お前は馬鹿か!」
「はい」
実津瀬は迷いなく返事した。桂は呆れ顔で。
「まったく!……しかし、私はそんな実津瀬が好きなのよ。だから、やはり、獲物としては申し分ない男だ」
言って、カラカラと桂は高笑いをした。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第八章1

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