New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章3

小説 STAY(STAY DOLD)

 蓮は少しでも早く後ろにいる景之亮から離れるために、当てもなくただただ歩いた。なんとなくの方角に歩いていると、見覚えのある庭に出てきた。橘の木が植えてあるので間違えようがなく、ここまでくれば、帰り道もわかる。
 早く戻らなくては鋳流巳が心配しているだろう。
 典薬寮の方に向かって歩き始めた時に、後ろから蓮を呼ぶ声がした。
「蓮様!」
 振り返ると鋳流巳が立っていた。
「鋳流巳!」
「よかった。出会えて」
 すぐに蓮の前まで走ってきた。しゃがみ込みそうになる体を膝の上に突いた手で支えて、腹の底から安堵した声を出した。
「後宮から遣いの方が蓮様とはぐれてしまったが典薬寮に戻っていらっしゃるかとおっしゃって、そこで蓮様が行方知れずになっていることを知りました。そこから帰っていらっしゃるかとしばらく待っていたのですが、我慢しきれず火事の場所まで行ってみようとここまで来たのです。すれ違いにならずよかったです」
「心配をかけたわね」
 蓮自身も鋳流巳と出会えて安堵し、自ら鋳流巳の袖を握った。
「蓮様……どこにおられたのですか?お召し物が焼けています。髪も顔も……」
 蓮はそう言われて松明の明かりで、自分の姿を見た。服は煤が付いて、胸のあたりは濡れている。
「……逃げ遅れた人を助けたの……」
「そんなことを!怪我はないですか?火傷は」
 鋳流巳は目を剥いて蓮を頭から裳の裾まで見た。
「怪我はないわ。大丈夫よ」
 蓮は鋳流巳と典薬寮に戻った。
 そこは医官や助手の者たちが右に左にと忙しく行き来して火事の対応に追われていた。
「蓮様、帰りましょう」
 鋳流巳に促されて、蓮は頷いた。急に寒さを感じて身震いした蓮に、それを見た鋳流巳が自分の上着を脱いで蓮の肩に着せかけた。
 宮廷の中で火事が発生した知らせは都中を駆け巡って、大勢の人が宮廷の正面入り口である朱雀門前に詰め掛けていた。仕事できた役人たちの中に、この騒ぎを見物しに来た都の住人もたくさんいた。
 その間をかき分けて、蓮は五条に帰った。
 五条岩城邸の正門の前には大勢の人が出ていた。
 宮廷で火事となれば、政の不穏な動きの可能性もある。岩城一族は大王と王宮をお守りするための準備で五条邸は騒がしくしていた。そこへ蓮が震えながら帰って来たので、邸の中はさらに混乱した。
 父と兄は火事の報告を聞いてすぐに邸を出て不在で、妹の榧は実由羅王子の求めに応じて泊まりがけで出かけている。
 五条の邸にいるのは母と弟と一番下の妹の珊で、母と弟が驚いた顔で蓮を迎えた。
「姉様!」
「蓮!その姿は一体!」
 蓮は鋳流巳から弟の宗清に交代して支えられ、母の部屋に入った。
「まあ、すぐに着替えないと」
 しばらくして、蓮の侍女である曜が着替えを持って現れた。
 宗清は一旦部屋を出て、蓮は母と曜に手伝ってもらってぼろぼろの衣服を着替えた。
「さあ、炭櫃の近くに座りなさい」
 母の言葉に従って蓮は炭櫃の前に寄って、手をかざした。しかし、櫃の中の炭が赤く燃えるのを見ると、先ほどまで炎の中を逃げ惑った出来事が思い出されて体が震えた。
 それを見た母が言う。
「蓮、今日はもう横になった方がいいわね。あなたの部屋に行きましょう」
 宗清に支えられて自分の部屋に行く間、蓮は母と宗清に自分の身に起こったことの半分を話した。
「藍様に呼ばれて遅くまで話をしたの。外が暗くなって王宮の門を出た時に、逃げて来た人たちに出会って、どうしたのか聞いたら、火事だと言って。怪我人がいたら助けなくてはと思ってその場所の近くまで行ったら、燃える建物の中から人の声が聞こえて……」
「そう、それであなたはその人たちを助けたの?」
「……はい」
「それはよくやったわね。今日はしっかりと休みなさい」
 侍女の曜が準備してくれた褥の上に横になると、母が顎の下まで衾を上げてくれて、蓮はすぐに目を瞑った。
 炭櫃の中の赤く燃えた炭を見て怖いと思ったのに、今、思い出すのは炎に囲まれて逃げられなくなった恐怖ではなく、その中で蓮たちを助けに現れた景之亮のことだ。
 顔を見るまでもなく声でわかった。
 火に囲まれてどうすればよいかわからなくなった時に、現れた人が景之亮だったとは、偶然とはいえやはり浅からぬ縁のある人のように思えた。
 炎の中を逃げ切り、高欄を跨いで降りる時に差し出されて握った景之亮の手……。
 大きくて力強い……安心と共に懐かしさが蘇った。蓮の体を下ろすのに手を持ち替えて再び握る時、蓮も自然と景之亮が取りやすいように手を差し出し、引っかかることもぶつかることもなくすっと合わさったのは、昔の一緒に過ごした時の慣れた呼吸が蘇って声を出さずとも自然とわかるものがあった。
 伊緒理との未来のために景之亮を克服すると決めて、徐々にそうなっていたのに、今夜で積み上げたものが壊れたように思った。
 そう思うから蓮は今、胸が痛いのだと気づいた。
 怖い……。
 あの炎の中での恐怖とは違う。自分は何に苦しんでいるのか分からなくて、暗い暗い穴の中に迷い込んだような気持ちになるのだった。

 翌日、蓮は頭が痛くて体を起こすことができなかった。
 妹の珊が部屋に来てくれて、侍女の曜と一緒にかいがいしく世話をしてくれた。母が処方した頭痛に効く薬湯を飲み、また横になった。
 父と兄は宮廷に行ったきりのようだし、弟の宗清は夜が明けると岩城本家に行った。
 午後には実由羅王子と一晩を過ごした榧が帰ってきた。蓮が寝ていると聞いて、そっと部屋を訪ねて来た。
「姉様火事の中人を助けたとか……さすが姉様ね」
 蓮は曜と榧に手伝ってもらって体を起こした。榧が母から聞いたことに感心して言うと、蓮はにっこりと笑みを返した。母にも逃げ遅れた姉妹を助けに燃える建物の中に入ったことを話したが、景之亮に助けられたことまでは話していなかった。なので、榧は純粋に蓮が一人で助けたように思っている。多くを語りたくない蓮は曖昧に微笑んで、すぐに話題を榧に向けた。
「私より、あなたはどうだった?実由羅王子とは?」
 昨夜は二人の初夜になったはずだ。
 榧は恥ずかしそうにして、蓮と同じで曖昧に微笑み返した。
「王子は帰られたの?」
「……王子は宮から直接王宮に向かわれました。火事を心配されて」
「……そうね……お父様も、実津瀬も、宗清も火事のことで宮廷や本家に行ったわ」
 蓮の体を気遣って榧は早々に自分の部屋に戻った。
 蓮は自室に行った榧のことを思った。待ちに待ってやっと妹は実由羅王子と結ばれたのだ。今後は時期を見て実由羅王子の宮に移り住むことになる。姉妹で一緒にいられる時間は後少しである。それまでの時間を大事にしようと思った。

 宮廷の火事は夜通し消火活動が行われて、翌日の午後にようやく鎮火した。
 内膳司は燃えて真っ黒になり、また、丸太で突いて破壊されて崩れ落ち跡形もなくなった。
 すぐそばの王宮に燃え移ることは防ぐことができたが、まだ安心はできないので、雨乞いの祈祷をし、屋根に水をかけて小さな火の目を摘むのに人が割かれた。
 王宮深くの寝室で横になっておられる大王に昨夜の喧騒は聞こえただろうか。大王はいつの日か再び臣下の前にその姿を見せるために長い休息の日々を過ごしておられるのだが、その安らかな休息の時間を破り、体に障ったのではないかと臣民は心配した。
 建物が焼けた臭いに、宮廷の下級役人や下男は、寒さのために首に巻いていた襟巻きを鼻の上まで引き上げて、黙々と火事の現場を片付けている。
 典薬寮は出火した連絡を受けた直後から火傷をした者、逃げる時に押し倒されたり、転んだりして怪我した者たちの手当てで夜通し忙しくしていた。
 蓮は一日寝込んでしまったが、翌日には元気になって母の手伝いをしたのだが、典薬寮への出仕はいつも通りとはいかなった。蓮は火事やその消火活動で怪我した人たちの手当ての手伝いをしたかったが、典薬寮から断りの連絡があった。消火活動がまだ落ちつかず、通常の活動はできないので、出仕は待って欲しいとのことだった。
 その間に岩城本家では有馬王子の後宮に入っている身重の藍が出産のために実家に帰ってきた。火事が起こった日、蓮に嬉しそうに王子から実家で出産していいと言われた、と話したが、本来なら年末までもう少し後宮にいる予定だったが、火事の後片付けは火が移らなかった後宮も例外ではなく、屋根に上がって水を掛ける作業が騒がしいのでこの時に実家に帰ることになった。宮廷で火事の片付けに顔を出している兄の稲生と鷹野に連れて帰ってもらったと、蓮が本家に帰ってきた藍に会いに行った時に話してくれた。
 火事から十日経ってやっと蓮はいつものように典薬寮に出仕した。
 火事の後の対応が落ち着いたと連絡があった翌日、蓮は鋳流巳に付き添ってもらって、典薬寮に行くことができた。十日ぶりに会った典薬寮の女官たちに、火事の日のことを訊かれた。
 蓮が有馬王子の後宮に行ったことは一部の人々は知っていて、無事に帰っただろうかと話し合っていたのだった。
 蓮はちょうど王宮の門を出た時に、火事から逃げる思いもよらないほど大勢の人々が塀の前の通りに溢れ出てきて、流されてしまい道に迷ったが、運よく迎えに来てくれた付き添いの鋳流巳と出会うことができて、五条まで帰ったと話した。
 目と手は薬草を見ているのだが、口は別に動いて、女同士でわいわいとそんなことをおしゃべりをしていると、そこに伊緒理が現れた。
「蓮、火事顔起こった日、君がここに来た後、行方不明になったと聞いて心配していたんだ。無事に五条に帰ったと聞いて安心した」
「心配をお掛けました」
 蓮は女官たちの輪から外れて、久しぶりに会う伊緒理と向かい合って話した。
「私があなたを典薬寮に推薦したのだ。何かあっては実言様に申し訳が立たない」
 伊緒理は心底蓮の身を案じていたようで、申し訳なさそうに言った。
 蓮は火事の話をするが、伊緒理に逃げ遅れた姉妹の救出の話まではできなかった。蓮が火事の中に取り残されそうになったところ、男に助けられたなんてことを言うなら、伊緒理を余計心配させてしまうし、助けに来た男の話になれば、それは誰だという話になりかねない。知らない男といえばいいことかも知れないが、それで通し続けられるのか……分からない。
 すでに火事から十日経ったが、その間、蓮は何度も燃え盛る炎の中、景之亮が現れて助けられて逃げて切った後、井戸の前で二人きりになった時の会話までを何度も反芻していた。その度に、心の中に封印していた景之亮の優しさと甘く楽しい夫婦の日々を思い出し、その思い出は蓮の肌を優しく撫でてくすぐった。
「蓮」
 それまでの声音を少し落として、伊緒理が呼んだ。蓮は顔を上げる。
「明日、いつものように」
 蓮はこくりと頷いた。七条の伊緒理の邸に来ないかと言う誘いの言葉だった。
 本当に久しぶりに伊緒理と一緒にいられる。
喜びとともに、蓮は後ろめたい気持ちになるのだった。
 突如、飛び込んでしまった災禍の中で、絶体絶命と思った時に助けに現れた男。それはどんなに頼もしく心強く思ったことか。そんな男に少しばかり気持ちが向いてしまうことはあるように思う。それが昔の男だっただけだ。
 火事から十日が経ったが、都はまだその混乱は続いており、家の中も蓮も落ち着かないでいた。それと同じで蓮の心の泉もちゃぷんと石が投げ入れて波紋が広がり落ち着かない。それは蓮の心の中に景之亮が居座っているからだった。火事の混乱が終われば、景之亮のことも前と同じように小さくなって、心の中に閉じこめて平気になって行くはずだ。
 蓮は何度も今の自分の気持ちを思い返してそう分析した。
だから今は自分の気持ちに生まれた波紋がおさまるのを待つしかないと思った。

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