部屋に戻った芹はすぐに淳奈の着ているものを脱がせて、もう一人の侍女である編に風呂の用意をするように言った。
「もうすぐ整います」
雨の中、芹と淳奈が庭に出て帰ってこないことを心配し、戻ってきた女主人が何を言うのか予想した侍女たちはすでに支度を整えていたのだ。
「まぁ、助かるわ。淳奈を温めないと風邪を引いてしまう」
淳奈を風呂に入れて夕食を食べさせると早々に眠りにつかせて、芹は一人、部屋で縫い物の続きをした。
淳奈との時間も大事だが、実津瀬の伊佐行きは差し迫っているので、少しでも取り戻さなくてはいけない。
芹は黙々と手を動かして、昼間のことを考えないようにした。天彦がなんと言おうとしたのか、それを聞いて自分はどうしていたのか……。
もしもを考えてもしょうがないことである。
芹は実津瀬の肌着の身頃を縫い合わせ終わると畳んで、部屋の入り口を見た。
雨は芹たちが部屋に戻ると止んだので、実津瀬が帰ってくるのも困らないだろう。しかし、ここ最近は毎日帰りは遅い。付き合いで人の邸に招かれたり、本家で今後のことを話したりと忙しいようだが、必ずこの離れの部屋に帰って来て、芹の隣で寝ている。
その姿を見て、こんな朝をあと何日迎えることができるだろうか、と芹は思った。
入り口に実津瀬の気配はない。
芹は立ち上がって褥の上に上がった。その時になんだか、体がふらっと前に倒れるような感じがあった。
昼間の雨で体の調子が悪くなったのだろうか……。
淳奈のことばかり気にして、自分が風邪を引いてしまっては元も子もない。
芹はその夜も夫を待つことなく衾を被ると眠ってしまった。
翌日、目を覚ますと案の定、実津瀬が隣で眠っていた。芹がみじろぎするとすぐに目を覚まして言った。
「ああ、朝か」
「お帰りになっていたのね。起こしてくれればよかったのに」
「だいぶ遅くに帰ってきた。父上と一緒に本家に行っていてね、今後のことを話していたんだ。そんなことより、昨日の昼間に庭に出ていて雨に降られたそうじゃないか。大丈夫だったかい。淳奈が風邪を引かないか心配だと、槻が言っていた」
「そうなのです。淳奈が花を摘んでくれると言って、庭の奥まで行ってしまって。急な雨で、少し様子を見ようと雨宿りをしていたら、ひどく降りだしたので戻れなくなってしまって」
「ああ、私も宮廷から本家に向かう時に雨が降ってきて、見合わせたよ。よく降ったね」
芹は頷いて、訊ねた。
「今日はもう宮廷に行ってしまうのですか?」
「いいや、昨日雨で足止めされたから仕方なく仕事をした。そのお陰で今日は早く行かなくてもいいのだ。だから、今朝は芹とのんびりできる。雨も時にはいいことをしてくれる」
と言って、実津瀬は芹の胴に手を伸ばして引き寄せた。
「あなたの体は冷えていないかい?雨に濡れた上に夜はまだ寒い」
「ええ、でも風呂に入って体を温めたから、大丈夫よ」
「そうか、だからあなたの体は温かいのか」
そう言って芹の体を優しく抱いた。
芹は実津瀬の胸に頭をつけて時間が経つのを待った。
昨日の天彦とのことが心をよぎった。浮ついた心を持っている今、実津瀬に掛ける言葉がすぐに出てこない。抱かれる喜びは、今は湧き上がって来ないのだった。
蓮は昨日、典薬寮に出仕して女官たちの体調の聞き取りをしたのでたいそう疲れたが、それでも一晩ぐっすりと眠れば元通りに元気になった。夜明けと共に起きて、朝餉の前に薬草園に行き植物の手入れや、葉の摘み取りをした。その後、朝餉を食べ終えると部屋で写本をしていたら、道を隔てた反対側にある診療所に怪我人が数人運び込まれたので手伝いがいると聞いて、部屋を飛び出し診療所に向かった。大路で牛が暴れたために転倒した人々が運び込まれたのだった。傷口から出る血を洗って薬を塗り清潔な白布で巻くのを手伝った。ちょうど手が空いたところに舎人の忠道がわざわざ蓮を呼びに来た。
「蓮様、実言様がお呼びです」
「お父様が?」
何事だろう、と思ったが蓮は診療所で少なくなった薬を板に書きつけ終わるとその板を持って立ち上がった。忠道と一緒に診療所と邸の間の道を渡り、母屋の父の部屋に向かおうとしたら。
「蓮様、実言様は広間にいらっしゃいます」
父母の部屋ではなく広間にいるという。
来客の後だろうか?
伊緒理は去様のように自分の領地での活動を始める準備を進めている。それとともに蓮との暮らしを考えてくれている。近いうちに五条に、父母に会いに来ると言っていたが、もしかして……伊緒理に関わることなのだろうか。昨日も典薬寮で伊緒理と会ったが、何もそんなことは言っていなかったが。
芹は忠道の後ろをついて、父が待っているという広間の手前の庇の間に入った。
「お父様、どうされたのですか?」
蓮は入るなり言った。部屋の奥に座っていた実言は手元の巻物から顔を上げて蓮を見た。
「ああ、すまないね。忙しいのに」
「いいえ、忙しいなんてことはないです」
「向かいに怪我人がたくさん来たから、手伝いに行ったと聞いたよ」
「はい、手伝うのは当たり前のことですから」
蓮は言って、父の前に置かれている円座に座った。
その円座は温かく、誰かが少し前まで座っていたのではないかと想像させた。
「それで、何のご用ですか?」
蓮はもう一度尋ねると、父はしばらく黙った。
お父様は何をもったいぶっているのだろうか?
話があるから呼んだのだろうに、言いたいことがあるなら早く話せばいいのにと思った。
父は顔を上げると。
「こっちに来てくれ」
と言った。
自分はもう目の前に座っているのに、もっと近くに寄れと言うことかしら?
蓮は首を傾げたくなったが、身を乗り出そうとした時、後ろで音がし、振り返ると庇の間に置いてあった衝立の陰から男が立ち上がる姿が見えて驚いた。
まさか庇の間に人がいると思わなかったから、気づくことなく素通りしていた。そして、立ち上がった男を見て蓮は再び驚いた。
景之亮様!
大きな体は父に呼ばれて、蓮のいる部屋の手前の縁の前に座った。
「………お父様………」
蓮はすぐに言葉は出て来なかった。
「まぁ、お前も薄々知っていたと思うが、私は景之亮に色々と話を聞いてもらっていた。年に一度くらいはこの邸にも来てもらってね」
景之亮は有能な武官であり、これからの政の中枢に加わるべき男だから蓮の夫でなくなっても父が手放すはずはなかった。信頼している男だからこそ娘の夫になることを望んだのだ。
「景之亮がお前に話があるそうだ。景之亮たっての頼みなので聞くことにした。宮廷の火事の日、二人は出会ったそうじゃないか」
父は言うと立ち上がった。それを見て、蓮は顔を上げた。
「心配なら、忠道を庇の間に入れようか」
と父は尋ねた。
「いいえ、それには及びません。景之亮様を信頼していますから」
蓮は即座に答えた。父が行ってしまうのに驚いたが、だからと言って忠道に話を聞かれるのも嫌だ。景之亮が自分を傷つけることなんてあり得ない。ただ、景之亮が何を言うのかと恐れているだけだ。宮廷の火事の日のこと。そして、その後、偶然伊緒理と一緒の時に出会った時のこと。
あの時、言おうとしたことを言うために父に頼んだのだろう。
「そう?では、皆を下がらせよう。景之亮、よく知っている邸だろう。帰りは見送らないよ」
そう言うと実言は部屋を出て、ゆっくりと簀子縁を歩いて行った。歩く足音は一人ではないので、蓮を連れてきた忠道も一緒だ。
蓮は心を決めて、後ろを振り返り座り直した。景之亮も同じ場所で居住まいを正して口を開いた。
「………蓮………騙すようなことになって申し訳ない。実言様にも無理を申し上げて申し訳ないことをした。しかし、私はもう一度あなたと話をしたかった。それで、実言様にお願いしたのだ。そうでもしないと、あなたは私と話をしてくれないだろう」
蓮はしばらく黙っていたが、口を開いた。
「あの時も言いましたがが、私はお話しすることはありません」
と、冷たく突き放す言葉を言い放ったが。
「でも、一つだけ……腕の火傷の手当てはされたのかだけは気になっていました」
と続けた。
それを聞いた景之亮は、髭の生えた頬が緩んで思わず笑い顔になった。
「やはり、あなたは優しい人だ」
「あの時、腕に白布が巻かれているのを見ましたから、手当を受けられたのだとわかりました」
景之亮の言葉を無視するように表情を変えず蓮は言った。
「ふふふ、そんなところを抜け目なく見ているのもあなたらしい」
と、景之亮は返した。蓮との会話が楽しいと言わんばかりに目を細めて笑顔になる。
「景之亮様はそんなことをお話したいのではないでしょう………」
蓮はこんなふうに話をして時間が流れるのを恐れた。早く景之亮から離れなくてはいけないと思った。そこで、景之亮は表情を硬くし言った。
「………夫婦でなくなっても、私にとってあなたは変わらず大事な人だから、時々宮廷の門ですれ違って姿を見られるのは懐かしく、また運よく言葉を交わすことは嬉しかった」
「何をおっしゃるの。景之亮様には新しい奥様がいらっしゃったのよ」
「そうだけど………あなたは私の妻だった。嫌いで別れたわけじゃない。あなたがいきいきと幸せな様子を見られるのは嬉しいことだし、そんなあなたと昔のように話ができるなんて、本当に嬉しいことだった。そして、あの日だ………」
あの日とは、あの火事の中の出来事のことだ。
「本当に偶然だ。火事が発生して大勢の人が逃げまどっていると聞いて、その日、宿直だった私は仲間たちから遅れて火事の現場に向かった。その途中に、あなたの横顔を見かけたのだ。宮廷にいる事は不思議ではないが、王宮のすぐそばにいるのは何故だろうと思い、見間違いかと思ったがやはりあなたに違いないと思って後を追った。そうしたら、燃え盛る建物の中に入っていくではないか。もう、驚いて思わず大きな声を上げたよ。でもあなたに聞こえるはずもなく、そのまま奥へと入って行ってしまった。それで慌てて追いかけたのだ」
蓮は景之亮の言葉を黙って聞いた。
「追いかけて行って、あなたの他に二人の女人を見た時に、あなたがなぜ建物に入って行ったのかがわかった。あなたらしい勇敢な行動だ。しかし、危なかった。火が回る前に逃げられてよかった」
「………火に囲まれる中、景之亮様の声がどれだけ心強かったか。私は自分が愚かだったかと後悔しそうになっていました。三人で逃げるのはもう無理かと思いましたから。そこへ景之亮様が現れて身を挺して私たちを守ってくれました」
蓮は火事の日の記憶を思い起こしてそう返事した。
「いや、本当に三人が無事でよかった………」
景之亮は言った後にその時のことを反芻しているかのように蓮から視線を外し、外の景色をしばし眺めていたが、再び蓮に視線を向けて言った。
「簀子縁の高欄を乗り越える時……あなたの手を握った時、私は懐かしさと共に錯覚しそうになった。あなたと離れて数年経つのに、その日の朝、一緒に目覚めて支度を手伝ってもらい、朝食を一緒に食べて別れた後のようだと。それほどにあなたの気持ちが伝わった………それは、あなたも同じ気持ちと思ったのだ。……そして………私たちはもう一度、やり直すことができるのではないか……と思ったのだ」
景之亮の言葉が耳に入るなり、蓮は声を荒げて言った。
「そんなことはありません……私たちはもうそれぞれの道を進んでいます。………しかし私たちは宮廷の中ですれ違う中でお互いのことを気に掛けてはいますが、それは私たちが昔夫婦だったからです。私たちはこれまでと同じようにお互いの道を歩まねばなりません。それがお互いのためです。……私は景之亮様のこれからの活躍を願っています。そして、景之亮様も私の活動を気に掛けてくださっていることを嬉しく思っています」
蓮は続けて言った。
「あの日、私も懐かしい気持ちになったのは確かです。昔もあの時も鷹取景之亮という人に助けてもらい、感謝しています。だから私は鷹取家が栄えることを願っています。我が一族が栄えることと同じように」
蓮は思った。景之亮ともう一度やり直すなんてことは考えられないことだ。だって、私は初恋の人との未来が待っているのだから。
でも……あの時、感じたことを景之亮も同じように感じていたことを知ることができた。自分たちはやはりよい相性であったのだ。しかし、今は、別々の道を歩んでいる。一度交わった人生ではあるが、二度と交わらないと決まっているのだ。少なくとも蓮がそう決めた。
「景之亮様、今日お会いできてよかったです。お帰りは見送りません。失礼します」
蓮は言うと立ち上がり、景之亮の左側を通り抜けて庇の間から簀子縁に下りて、自分の部屋へと向かった。
景之亮が何か言いたそうではあるが、蓮はその姿を一顧だにしなかった。

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