実津瀬を伊佐に送り出した翌日。
蓮は典薬寮に出仕した。兄妹が五条からいなくなってしまって寂しい気持ちだが、その悲しみの中に居続けてはいられない。
典薬寮ではいつものように体の不調を訴えてきた者から話を聞いて薬草を調合した。その日は病人が少なく比較的ゆったりと時間が過ぎて行った。
宮廷で働く女官や従者の体の不調の書かれた札に合わせた薬草の調合をしている時に、伊緒理が現れた。
「伊緒理殿、腹を下している者にはどの薬草がいいでしょうか」
蓮と一緒に作業をしていた女官が尋ねた。
伊緒理はいくつかの箱を手にとって、墨で書かれた文字を確かめて一つ箱を差し出した。
「これは腹下しの時に効果があるものです。大量に飲むのはよくありませんが」
女官は箱から乾燥させた薬草を親指とほか二本の指で摘んで箱に入れた。
「そのくらいの量でよい」
伊緒理の言葉に女官はにっこりと笑って症状の書かれた札を箱に入れた。
「さすがは伊緒理殿」
女官は伊緒理を褒めた。伊緒理は人気で典薬寮の女人たちは皆、伊緒理に笑顔を見せる。伊緒理も話しかけられれば穏やかな表情で応えた。そして、やっと蓮のもとに来て庇の間に誘った。
「昨日、兄上が伊佐へと旅立たれたのだろう」
伊緒理は小声で尋ねた。
「はい、立て続けに兄妹がいなくなって寂しいです」
蓮も小声で丁寧な言葉で答えた。
「そうだね……。榧殿の様子は」
「全くわかりません。藍様も会ってくれません。お願いしても返事がないのです」
「そうか……王宮で止められているのだろうね。………ところで、明日、私は休みなんだ。七条で会えないだろうか」
「はい。もちろんです」
周りの目があるため、蓮は嬉しい気持ちを隠して小声で答えた。
翌日、蓮は伊緒理の住む七条の邸に行った。伊緒理の部屋に入るとすぐに二人は抱き合った。
「兄、そして妹と相次いで邸からいなくなって、実言様も礼様も寂しい思いをされているだろう。もちろん、あなたも」
「ええ、母は特に妹のことを心配しているわ。兄はそういう役目をいただいたのだから思うから。私は兄の妻が心配よ。兄がいなくて寂しいのは母や私よりも妻の芹だと思うので」
と蓮は芹のことを思い出して言った。
気丈に夫を見送った芹であるが、息子の淳奈と庭で遊ぶ様子は寂しそうである。
伊緒理はすぐに几帳の後ろに準備している褥の上に蓮を連れて行った。
言葉はなくとも気持ちはわかる。こうして月に一度会えるかどうかという貴重な逢瀬である。
再び抱き合って唇を重ねた。
伊緒理に会うのだからと衣装選びも入念にし、化粧もいつもより丁寧に髪型も決めているが、褥に横になってしまうと着てきたものも化粧も髪型も最後は乱れてしまうのだった。
「あなたが綺麗にしているのに、いつも私はそれを壊してしまうね」
伊緒理は蓮が侍女の曜に何度も梳かせて一つにまとめ上げた髪を留めた翡翠を埋め込んだかわせみの形の髪留めを外し、帯を解き、上着を脱がせて肌着一枚にして押し倒した。
「早く………あなたと一緒に住みたいと思う。こんな昼間に陰に連れ込んで抱くなんて、あなたには申し訳ないことだ」
と絞り出すように言った。
「何を言うの………伊緒理と会えるだけで幸せよ」
蓮の言葉に伊緒理はそんな言葉を言ってくれる口を自分の口で塞いで吸った。起き上がって自分で衣服を脱ぐと蓮の隣に横になり体に腕を回した。
「ああ、あなたを愛している」
伊緒理は何度もそう囁き、蓮も同じ言葉を返した。
性交の後に、横になったまま伊緒理は蓮の背中を抱いて、解けた髪を指に巻きつけたり、指を櫛代わりにして何度もすいたり、撫でたりした。
そして口を開いた。
「蓮……束蕗原のような場所を作る準備は進めているのだ。もう、領地に小さな邸を建てている。あなたにもその様子を見せたい」
「そう、どんなふうかしら。見てみたい。楽しみだわ」
「そこであなたと暮らす夢を実現させる。……実言様礼様たちが辛い思いをされている中、こんなことを言うのは憚られるのだが……実言様に手紙を差し上げたいと思っている。今は実津瀬や榧のことがあるからすぐと言うわけではないが、やはり、私たちの仲をお話しすることなくあなたを私のところに呼んで一緒に暮らすことはできない。実言様や礼様にお会いしてお許しをいただきたいと思っているんだ」
蓮は自分の髪を弄ぶ伊緒理の手を握った。
「早くあなたと一緒に暮らしたい」
「私もよ」
蓮は自分たちの結婚が父母に迷惑をかけるかもしれないと思っている。それは二人の家門が権力争いをする二大勢力であるからだ。この結婚が、両家に何かしらの影響を与えるかもしれないが、伊緒理との結婚を進めたい。伊緒理の決心を支えたい。束蕗原の去様のような場所を作り、薬草の研究をして、地域の人を助けたいという伊緒理の志をだ。
伊緒理との暮らしを想像することは嬉しい、楽しい気持ちになるのに、胸の奥がちくりと痛いと感じることにも気づいている。
なぜこんな痛みが起こるのかしら……。伊緒理と暮らせるという願いが叶おうとしているのに。
五条の誰もが実津瀬は半月もすれば帰ってくると思っていたのに、ひと月経っても伊佐から帰って来る気配はない。
群行に随行した者の何人かは徒歩でも都に帰っていて、宮廷に斎王を無事に伊佐にお届けしたとの報告を上げている。実津瀬はその者たちと一緒に帰ってくると思っていた。
芹は実津瀬からなんの頼りもないことを気に病んでいる様で、部屋にこもりがちである。蓮はかわいい甥と遊ぶために離れの邸を訪れた。
芹は体調がすぐれないと言って横になっている。蓮は淳奈と一緒に庭におりて、木の周りをぐるぐる回ったり、木登りをしたりして遊んだ。しかし、淳奈は叔母との楽しい遊びの最中でも母が恋しくなって離れに戻ろうという。手を繋いで離れに戻る途中に母さまはご病気みたいと言う。芹は前から実津瀬が帰ってこないことを悩んで、体調を悪くしていたのか、と心配した。
「芹、本当に大丈夫なの?」
離れに戻った蓮は芹が寝ている褥のそばに座って言った。淳奈は蓮の反対側で心配そうに手を握っている。
「ええ、大丈夫よ。少し寝ていれば平気」
顔は淳奈に向けて、その手を握り返して言った。部屋を訪ねたときは確かに青白い顔をしていたが、今はいくぶん良い顔色になった。
「お母さまに言って、薬湯を作ってもらいましょうか?」
「いいえ、寝ていればいいのよ。お母さまの手を煩わせることはないの」
心配ではあるが、蓮は様子を見ようと思った。
そこへ侍女の槻が入ってきた。
「蓮様、母屋で曜殿が蓮様を探していましたよ」
と言った。蓮の侍女が蓮を探しているらしい。
「あ、そう?何かしら?……では、また来るわね」
蓮は今後も芹のことをよくよく見ていこうと思って、母屋に向かった。
「あ、蓮様、見つけた」
自分の部屋の前で侍女の曜が駆け寄ってきた。
「実言様がお呼びなのですよ。蓮様を見たらお二人のお部屋に来るように言ってくれとおっしゃっておられます」
「お父様が?何かしら?」
父の実言が呼んでいるとは、何事だろうか。
両親の部屋に行くと、父と母は向かい合って話をしている。
いつも仲の良い二人に目を細めて蓮は咳払いをして、入りますよと合図した。
「ああ、蓮、入りなさい」
二人の顔が一斉に入り口を向いた。実言が言って、蓮は庇の間を抜けて奥の部屋へと入った。
「お呼びとのことですが、何かありましたか?もしかして、榧のことですか?」
「いいや、榧のことではない。榧は……今、聞こえていることはなんとか食事を取っているらしい」
大王に気に入られた妹の榧が王宮に囚われて、一切の状況がわからない中、突如として榧が食事を一切口にしないからどうにかしろと助けを求められた。食べないから痩せていって、このままでは死んでしまうと危ぶまれた。その時は父と母がなんとか説得して、榧は食べ物を口に入れるようになった。しかし、今も一族との接触は一切絶たれて、一人王宮で暮らしている。
「では、実津瀬のことかしら?」
「実津瀬のことなら、お前と共に芹も呼ぶよ」
「………」
「お前のことだよ、蓮」
「私、何かお父様にご迷惑をお掛けしたかしら……。思い浮かばないのだけど……」
自分の気づかないうちに父に迷惑をかけたかと、蓮の頭の中はぐるぐると回った。
「迷惑じゃないさ。ある人からの使者が今日来た」
「使者が……?」
「手紙を持ってきて、私がいないのなら出直すと言ったらしい。ちょうど私が帰ってきたところだった」
「手紙を受け取られたのですか?」
「ああ、読んだ」
と実言は脇に畳んでいた紙を蓮の目の前に置いた。
「伊緒理だよ。伊緒理からの手紙だ」
「………!」
先月、七条の邸で会った時に、伊緒理から父に手紙を出す予定と聞いていたが、それはすぐではないと言っていた。蓮はあれから取り決め通りに典薬寮に通っているが、伊緒理は忙しいようで、姿は見るが言葉を交わすことはなかった。
「突然の手紙を詫びていた。そして、私に会いたいと書いてあった。会って、お前とのことを話したいとね」
「………はい」
返事をして蓮は押し黙った。
「そんな顔をするものじゃないよ。別に私は怒っているわけじゃないよ」
「……はい。今まで黙っていてごめんなさい」
「そんなことは気にしないさ。私たちは知っていたからね」
「え!」
「考えたらわかることだろう。なぁ、礼」
と、実言は隣に座っている妻に同意を促した。
「そうね」
と礼も言う。
「お前の初恋の人だろう。そして、命を助けてくれた人だ。再会して、どうもならないはずがない。だから、典薬寮への出仕も、なるほどと思ったものだ。そのうち、うちに忍んでくるかと思っていたがそれはしなかったのだな。どうなることだろうと思っていが……この手紙だ」
「伊緒理らしいわね」
と礼が言った。
母の礼は幼い頃から伊緒理をよく知っており、伊緒理が医師になるきっかけを作った人でもあり、伊緒理を去に引き合わせた人である。伊緒理らしいわねとはその長い付き合いから、伊緒理の気持ちを推し計っての言葉だ。
「二人は私たちがとやかく言わないといけないほどの子供じゃないからね。許しも何もないと思うが……私は、私の大事な娘の夫になるという男と話をしたいからね、会うつもりだよ。伊緒理の心配は自分が椎葉家の人間だということだろう。私たちはそんなことは気にしないが、岩城と椎葉の二人が結婚となると、何かしら勘ぐる者がいるだろう。痛くもない腹を探られて、岩城に何か迷惑がかかるのではないかとね」
岩城と椎葉という宮廷の権力を争っている一族に属する二人の結婚は、両家の意向なのか、それとも意に反した二人の決断なのか。そのことを二人で話したことはあった。二人とも、政治に関わることはないので、大きな影響はないと思いつつも、家門に迷惑がかかるのであれば申し訳ないという気持ちである。
「この手紙の返事は娘に持って行かせると言って、使者には帰ってもらった。これを」
ともう一つ傍に置いていた手紙を手に取った。
「これを伊緒理に渡しておくれ」
蓮は膝で進み出て受け取った。
「そんな顔をするんじゃないよ」
蓮の苦しそうな表情を見て、実言は言った。
「お前は自由なのだよ。自由でいいんだ。だから、自分が幸せなら伊緒理と一緒になればいい」
「……お父さま……」
伊緒理と一緒になってもいいのだ。別に悪いことをしているわけではないが、一族のこともありなぜか後ろめたく思うことも事実だった。初恋を成就させようと、陶国に留学することが決まった伊緒理を追いかけて束蕗原に行った向こうみずな若い頃の自分ではない。
蓮は父の言葉が沁みてきて、込み上げるものがあるがそれが現れるのを我慢した。
「伊緒理は忙しいのだろう。時間のある時に伊緒理のところに持っていっておくれよ」
父は笑顔で言って、隣の妻を見た。母も笑顔で蓮に笑顔を返した。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章22
小説 STAY(STAY DOLD)
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