秋風が吹く心地よい夜だった。
「遅くなりました」
自分の部屋にいた珊は夕餉の時間に少し遅れて家族が集う広間に入った。
そこには父母と離れから来た芹と淳奈がいるだけだった。
「あれ……姉様はいらっしゃらないのですか?」
兄の実津瀬は伊佐に行ったまま帰って来ない。そして、姉の榧は王宮に囚われたままだ。そして、もう一人の下の兄、宗清は今日は本家に用があると言っていたから、まだ帰っていないのだとわかった。
「蓮は七条に行ったのよ」
珊は母の左側の席に座った。
「七条に……」
十四歳になった珊は兄、姉の恋愛をわかっている。
姉が夜通しかけて七条に行く意味もわかる。
五条の夕餉はいつも大人数で賑やかであったのに、今は実津瀬、榧が邸に帰ってこず、姉もまた近いうちに邸からいなくなるかも知れないのだ。
大人数でよく集まる家族であるから、兄弟姉妹がいなくなると寂しさが増すのだった。
「姉様、お加減はいかがですか?」
向かいに座る芹に向かって珊は言った。気分がすぐれず横になることが多い芹を気遣った。
十日ほど前、芹は子供を孕っていることを隠せないと思って、母の礼に打ち明けた。
そのことを実津瀬に知らせたのか、と礼はすぐに訊いた。芹は首を横に振った。
「なぜ?」
「枷になりたくないのです」
「実津瀬もあなたも子供を望んでいたのではないの。実津瀬はどんなに喜んだか」
「はい……でも、伊佐に行かなければなりませんでした。帰ってきた時に知らせればよいと思ったのです………」
「………そう……一月くらいで戻って来るものと思っていたのに……もう三月が過ぎてしまったわ」
三月経っても実津瀬が帰ってこないことに芹はやはりそうか、という諦めの気持ちがあった。
礼は芹の体を思って栄養のある食材を用意して食べさせ、離れをたびたび訪れて体調を気遣い、孫の淳奈の相手をして手助けした。
芹は悪阻も落ち着き、相変わらず痩せているがお腹は少し膨らんできた。体の変化で新たな命を産み出す心算と喜びが湧いてきたようだ。息子と二人で新たな命に呼びかけている姿は側から見る者たちは微笑ましく思った。
「ではいただこうか」
皆の前に料理が載った膳が揃うと、実言が言った、
その日の正午過ぎ、蓮は曜と鋳流巳を伴って七条の伊緒理邸に着いた。
蓮が門の内に入って進むと、伊緒理が玄関先まで出てきてくれていた。
榧と実津瀬が五条に帰らない今、蓮はすぐに七条に移り住むことを躊躇う気持ちがあり、まずは五条から七条に通い、そのうち七条の滞在を多くし、七条が我が居場所となっていけばよいと思った。そうすれば、家族も蓮の不在に慣れていくだろう、と。
「よく来てくれたね」
伊緒理は蓮の手を取って自分の部屋へと連れて行った。
これまでに何度も訪れている伊緒理の部屋だが、今日は別の部屋に来たように新鮮に感じた。
「蓮、これが竹と言って、この邸に古くから仕えてくれている者だ。わからないことがあればなんでも聞いておくれ」
部屋の中に落ち着くと、伊緒理が蓮の後ろに控えている老女を指して言った。蓮は体の向きを変えて、竹を見た。にっこりと笑う顔は蓮という人が来てくれたことを嬉しく思っていることが滲み出ている。
「蓮様、どうぞよろしくお願いいたします」
竹は深々と頭を下げた。竹が去っていくと、伊緒理は膝をにじらせ蓮に近づいて、手を蓮の頬に当てた。蓮は驚いて伊緒理を見つめた。
「少し元気がないように見える」
「まぁ、そう?何度も来ているけど、今日ここを訪ねるのはこれまでと意味合いが違うから、少し緊張しているのかもしれないわ」
蓮は笑顔を見せた。
伊緒理はそれ以上追及しなかった。
「あ、これは!」
伊緒理の机の上に広げてある巻物に目をやって、蓮は声を上げた。
「ああ、これはあなたが写してくれたものだ。ここにはあなたが写してくれた本がたくさんある。美しく読みやすい字だ」
蓮はこれが恋だと知った初々しい乙女の頃の自分を思い出した。少しでも自分の気持ちを伝えたくて一心不乱に本を書き写し、伊緒理の元に届けていた時のことを。
「これだよ、この巻物」
と伊緒理は棚に置いている巻物を取って、机の上に広げた。
「これは陶国まで持って行って、そして持って帰って来たものなんだ。陶国での日々は刺激の多い面白い日々だったが同じくらい辛いこともあった。この巻物の手磧を見ると………あなたのことを思い出して、必ず都に帰ることを誓った」
そう言って蓮の手を握った。
「あなたの部屋を案内しよう。そのうちあなたの物も増えるだろうから」
と隣の部屋に連れて行った。
「ここならすぐに部屋を移れるし、声が届くだろう」
「ええ、そうね」
「いつも一緒にいたいが、それぞれ別にやりたいこともあるだろうから」
「私は伊緒理のそばにいられればいいのよ。伊緒理の手伝いをして、余った時間はたくさんの本を写すわ」
蓮は言った。伊緒理のそばに来たなら、それは全身全霊で伊緒理の夢をさらに手助けしたいと思うのだった。
夕餉の時間になると、竹ともう一人の若い侍女が膳を持って入って来た。蓮の前には三つの膳が置かれて、膳の上の皿にはたくさんの料理が載っている。
「あなたの口に合えば良いのだが」
伊緒理が言った。
蓮は一皿一皿少しずつ口に入れてその味わった。
「とてもたくさんの料理を作っていただいたのね。どれも美味しいわ」
「いつもはもっと質素なのだが、あなたがここで初めて食べる食事になるのだから、竹が色々と考えてね。いつもより皿が多い。五条には敵わないと思うけどね」
「いいえ、五条も質素なものです」
侍女は食事を運び終えると二人から見えないところに退いた。蓮は伊緒理の杯に酒を注いだ。蓮も勧められて一口だけ嗜んだ。
夕餉が終わって伊緒理の部屋に移ると、部屋の奥の几帳の後ろには寝所が整えられていた。昼間の逢い引きの時に何度もその寝所に入っているが、今夜、ここに入るのはいつもとは違う心持ちである。
伊緒理の手に誘われて褥の上に上がって顔を上げると、伊緒理が微笑んでいる。
「なんだか、不思議な気分だ。初めてではないのに……」
「私もよ」
伊緒理が照れ笑いをして、蓮も同じように照れて下を向いた。
「いつも昼間だった。いつか夜にあなたと一緒にいたいと思っていたが、それが本当になる日が来たと思うと……こんな喜びはないよ」
「ええ、私も」
蓮の返事に伊緒理は蓮の手を引き寄せて腕の中に入れた。
「改めて、あなたとこうして一緒にいられることが嬉しいよ。私に妻ができるなんて、ゆめゆめ考えられることではなかった」
「伊緒理……」
「………私は幼い頃から父母、弟と離れて祖母と一緒にこの邸に住んでいた。体が弱く、しんどくていつも横になっていた。私はもうすぐ死ぬのだと思っていた。一人ぼっちだと思っていた。だから、こうして妻を得るなんて夢のようだ。家族ができた。一人ではなくなる」
初恋の人の妻になると思うと胸が高鳴ると共に、伊緒理の言葉に蓮はこの幸せを掴むことへの後ろめたさを感じる。
前の結婚で諦めた子を伊緒理との間で成せるとは思えない。
「……伊緒理………私は…・家族を増やすことはできないかもしれないのよ」
蓮はもう一度言わないと気が済まず、子を成せないことを言うと、伊緒理はすぐに返事した。
「あなたがいてくれる。一人ぼっちが二人になった。増えているよ」
「伊緒理……」
「前にも言っただろう。あなたがいてくれさえしたらいいんだ」
伊緒理は蓮の耳に囁いて、蓮と一緒に褥の上に横たわった。
「蓮……」
これまで何度も何度も重ねた唇。しかし、今夜はやはり違う気がした。いつもより伊緒理の唇が熱い。強く吸われて少し口を開けると、伊緒理の舌が蓮のそれに触れた。息継ぎをしながら、唇を離さない口づけ。そして、伊緒理は起き上がって蓮の帯を解いて衣服を脱がして裸にすると、自分も半服を脱いで裸になった。
再び抱き合って、そしてまぐあって、眠りに落ちる。
伊緒理と共に夜を過ごすことができるのは、いつのことかと思っていたが、そういえば束蕗原で一度伊緒理と一緒に過ごしたことがあったと蓮は思い出していた。
蓮が洪水に巻き込まれて行方知れずになり、伊緒理がいち早く蓮を見つけ出した時のこと。衰弱した体の回復を待って、夜中に伊緒理が蓮の部屋に忍んで来てくれた。あの時以来だ。でも、あの時も朝まで一緒にはいられなかった。人に見つかってはいけないと伊緒理は帰っていった。
しかし、今夜はこのまま朝まで、いや、ずっと一緒にいられる。
翌朝、蓮は目を覚ますと、すぐに隣に寝ている伊緒理と目があった。
「………伊緒理……起きていたのね」
「ああ」
「起こしてくれたらよかったのに」
「いや、あなたの寝顔を……」
「まぁ、寝ている顔を見ていたの。恥ずかしいわ」
「……かわいらしいよ」
蓮は照れて襖を引き上げて顔を隠した。
「あはは」
伊緒理は笑い声を上げて、襖の上から蓮の体を引き寄せて抱きしめた。
「これからはいつでもあなたの寝顔を見て起きられる」
伊緒理は言って、襖で覆っていない蓮の額に口づけた。
これまでの逢引きで何度も体を重ねてきたのに、昨夜は初めてのような真新しい気持ちで性交した後、二人は抱き合ったまま寝物語をしてどちらからともなく、眠りについた。二人とも眠ったのだが、夜中に蓮が起きたことを、伊緒理は知っている。
蓮は目を覚まして、目だけで辺りを見回した。
真っ暗な中、眠りについたままの姿、伊緒理の腕に抱かれている。蓮が体を動かすと伊緒理の腕は簡単に解けて、上体を起こすことができた。
秋の風が裸の体に柔らかく触れた。
お互いの求める気持ちは強いがお互いの体に触れる力は優しかった。
蓮は頭の中に蘇ってくる昨夜の愛の行為の余韻とまだまだ体の表面にも内側にも残っている震えるほどの喜びを感覚に身を任せた。
しかし、今起き上がった自分は、伊緒理と一夜を過ごせたという喜びを噛み締めるだけではないことをわかっている。心の中に渦巻く不安が目覚めさせた。しかし、その不安は何だ、と言葉にはできない。
伊緒理の腕に抱かれて、それにつかまってついていけば良いのにそれでいいのかと、心のどこかが言っている。
蓮は前を見つめて自分の内側を探った。
嬉しいのよ……伊緒理の妻になることが現実になるなんて。
蓮は隣で眠っている伊緒理の寝顔を見た。
母親に似て整った綺麗な伊緒理の横顔。
こんな美しい人を周りの人は放っておかないと、幼い心でもわかっていた。多くの人が容姿も出自も申し分ない伊緒理に近寄るはずだ。だから、伊緒理がどんな人を恋人に、妻に選ぶだろうかと気が気じゃなかった。
だから、今、妻として伊緒理に選ばれて嬉しいはずなのに、なぜ迷っているの?
蓮は再び伊緒理の胸の中に潜り込んだ。
伊緒理はこの時目を覚ましていて、蓮の様子を感じ取っていた。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章26
小説 STAY(STAY DOLD)
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