蓮が次に典薬寮に出仕して、宮廷で働く者たちの体の不調の症状が書かれた板を見ながら薬草を調合している時に、いつものように伊緒理が現れた。
「伊緒理殿、この腹が下るという症状にはどのような薬がいいでしょうか」
すぐに見習いの女官が尋ねた。
「ああ、これはこの薬草をひとつまみ足して」
と、伊緒理は薬草の箱を取って渡した。
部屋の中には薬草の入った箱を所せましと置かれている。
蓮もその輪に入って渡された板の症状に合う薬草を選んでいた。
暫くすると伊緒理は蓮の隣に座った。
「どうかな、仕事は進んでいるかい」
必要な薬草の箱を探しに女官たちは立ったり座ったりしており、その時蓮の周りに人はいなかった。
「はい。……伊緒理殿はこれをどう考えますか?」
と蓮は自分の悩みの症状が書かれた板を伊緒理に見せた。
そこには、頭が悪い、と書かれていた。
「……あははっ!これは!どうしたものかね?つける薬はないかな」
笑いながら頭痛に効く薬草の箱を引き寄せた。
「これを煎じて飲むようにいい、様子を見てもらおうか!」
と言った。蓮もおかしくて笑みをこぼした。
伊緒理は近くに人がいないことを確認してから小声で言った。
「明日はどうかな?七条に」
「はい。父から託されたものがありますから持って行きますね」
「実言様はあなたに話されたのか」
「はい」
「すまない、事前に話もせずに」
「いいえ。少し経てば送るとおっしゃいました」
「そうは言ったが、あなたを驚かせた。最近はここで会おうことがなかったためやむを得ず尊様に使者を送ってしまった」
「ええ。嬉しかったわ」
そこで今、自分の気持ちを喋り始めると声が大きくなってしまいそうで、蓮は口をつぐんだ。
「詳しくは明日」
と言って伊緒理は立ち上がり、他の女官のところに行って蓮としたように板に書かれた症状にあった薬草の選別をして、やがて部屋を出て行った。
翌日、いつものように七条に出発する。邸の者たちに会わないようにこっそりと曜を連れて裏門から出て行った。
伊緒理との仲を隠せているとは思っていなかったが、そこを敢えて明らかにすることはなく、何となくここまで来たのだった。たまのこの外出も伊緒理のところに行っていると実は知られていたとは恥ずかしい話だ。
七条に着くとすぐに伊緒理の部屋に通された。
「やぁ」
伊緒理は晴々とした表情で蓮を迎えた。
向き合って座ると、蓮は懐に入れていた父からの手紙を差し出した。
「これを預かって来ました」
「ああ……実言様もあなたを使者にするとはずるいな」
伊緒理は頬を掻いて蓮から手紙を受け取った。
「父も母も私たちの仲はわかっていたと言われたの」
「そう………ならばもっと早くお話しするべきだった」
伊緒理は手紙を開いて目を通した。
「いつでも会いたいと書いてある。いつにしようか」
「はい。父はそれを早く決めるために私を使者にしたのよ」
伊緒理が五条岩城の邸に来る日を決めた。
これで二人の仲は大きく進めることができる。伊緒理の都の外に作る邸の完成を機に一緒に住み始めるか、または蓮が典薬寮の出仕を辞退した時にこの七条に移るかがよいと思われる。
蓮は喜びを噛みしめた。
「蓮、本当に私は幸運な男だ。……陶国に留学するのだからあなたと一緒になれないと思った。あなたは他の男と幸せになるべきだと。しかし、陶国から帰って来たら、あなたはひとりだった。だから私は堂々とあなたが欲しいと言えた」
それを聞いて思わず蓮は伊緒理に抱きついた。突然の動きで伊緒理は抱き止められず、後ろにと倒れた。蓮も伊緒理の胸に頬をつけたまま一緒に倒れたが、すぐに上体を起こして、伊緒理を上から見つめた。目が合うと蓮はゆっくりと近づき、自分から伊緒理に口づけした。伊緒理は受け身で蓮の口づけを味わったが、息苦しくなった蓮から一度離した唇を伊緒理は両手で蓮の頬を包み引き寄せて再び強く吸った。
蓮は陶国に行くことが決まった伊緒理を追いかけて束蕗原に行き、部屋に一人でいた伊緒理を今のように押し倒して口づけし、抱いて欲しいと懇願した。あの時は伊緒理にひどく拒絶されて、失意の中に落とされた。その記憶は嘘だったように書き換えられて蓮は今、幸せである。
伊緒理が言うように、結婚はしたが今は独りであり、なんの障害もない。こんなにちょうどよい巡り合わせがあるものかと思う。
しかし………あの人も今、独りなのだ。蓮が叶えて上げられなかった子供を得て、これから妻、子供と幸せになると言うときに、妻を亡くしてしまって。
景之亮。
景之亮も独りだから、父の実言を通して蓮に再び一緒になろうと言ってきた。
周り回って、今、三人は自由に愛を交わせるのだ。
「奥の部屋へ行こう。あなたが欲しい、今すぐ」
そう言って伊緒理は体を起こすと蓮を横抱きにして几帳の後ろに行った。
伊緒理に体を愛されて満たされて行くはずなのに、蓮の心の中は別のものが居座っていて不安になる。
夏の暑い日。
淳奈は邸の従者侍女の子供達と一緒に庭を駆け回った。夏の日差しが子供達に降り注ぎ淳奈は少し日焼けしたように見える。
遊んでいても午刻(正午)になると遊びの輪から離れて、離れに帰ってくる。
部屋で伏せている母の側に行儀よく座り、どんな遊びをしたが、庭にどんな花が咲いているかを話した。時には花を摘んできて母に見せた。その花は侍女が持ってきて椀に活けて、芹は伏せているときによく眺めた。
その日、淳奈が部屋に来ると、芹は褥から体を起こした。
「お母さま、今日の気分はどうですか?」
「ええ、良い気分よ。明日は横にならなくてもいいわ」
「では明日は一緒にお庭に行きましょう」
「そうね。行きましょう」
芹は手を出すと、淳奈はすぐにその手を握った。
父の実津瀬に母を頼んだと言われた淳奈はその期待に答えようと精一杯背伸びをして、務めているようで、その手は小さいながら力強い。
蓮は芹の体調不良を心配して離れをよく訪れた。
芹は朝は起きて縫い物などしていても、昼からしんどいと言って横になる。またその逆もある。芹にどうしたのか、どこか体が悪いのではないかと聞いても、大丈夫だと言うので見守っているが、心配で芹の体調のことを聞きに母の部屋に行った。何か話しているのではないか、と思ったのだ。
母の部屋なので、何の遠慮もなく入っていくとそこには先客がいた。
「お母さ……ま」
蓮は声を小さくして庇の間に留まった。
五条の邸の道を隔てた場所に誰でも受け入れる診療所をつくっており、束蕗原の去のもとで学んだ医師が都の人々の怪我や病気を治す活動をしている。そのうちの一人である、真那という男医師と五条の邸で働いている侍女の峯が母の前に座っている。
「では、よろしくお願いしますね」
真那医師は母から渡された箱を手にして侍女と共に部屋を出て行く。蓮の前に来ると小さく頭を下げて行った。
「蓮、どうぞ入ってきて」
母の言葉に蓮は部屋の中に入って、すぐに訊ねた。
「何かありましたか?病人がありますか?」
「………景之亮殿……景之亮殿の上の御子が病気なのよ」
「景之亮様の……」
「ええ、熱があって寝込んでいるの。だから、真那に薬草を持たせて行かせるわ。まだ生まれたばかりの赤さまもいるので大変だと思うから手伝いの人もやろうと思って、峯を行かせるわ」
「景之亮様の御子が病気……病状は?とても悪いのですか?」
「ええ、数日前から高い熱が出ているそうよ。早く言ってくれればいいのに、景之亮殿が遠慮していたみたい。今日、丸が自ら来たわ。主人に怒られるかもしれないが、助けて欲しいと。すぐに手の空いている医師を走らせたの。交代で真那に行ってもらうことにしたわ」
「そう……」
「あなたは困っている人がいればほっとけないから、こんな時は真っ先に手を上げて行くというでしょうね」
「そんなことは……」
「だって、行きたそうな顔をしているもの。でも、景之亮殿のところには行けないかしら……行ってもいいのだけど」
「……いいえ、私は明日、典薬寮に行かなければいけません。真那殿や峯が行ったなら、私が首を突っ込むことはないわ」
「そう?わかったわ。……それで、あなたがここに来たのは何か用事があるの?」
「……えっと……芹よ、芹のこと……疲れているのかしら?よく横になっているけど、淳奈がお母さまはご病気なの、と悲しそうな顔で言うのが気になって。お母さま、芹の体調のことどう思っているのかしら。何か聞いてる?」
「………そうね……」
と母は蓮の言葉にしばらく黙った。
「あれこれと尋ねてはいないけど、芹は自分の体のことはわかっているのではないかしら……だから自分から言ってくれるまでは私も様子を見ることにするわ」
「えっ……?」
蓮は母の言葉の真意が分からなかった。
「大丈夫よ。私も毎日芹のところには行っているの。淳奈のことも見ているわ」
蓮はそれから母の話に突っ込むことはなく、たわいもない会話を続けたが、こちらから話題を振っているのに上の空になる。それは、景之亮のことが気になるからだ。
あの人は……大丈夫だろうか。息子が心配でしょうがないだろうに。
母の話では病気になってすぐに丸が五条に来たわけではなさそうだ。
ここには多くの薬草や病気を治す知識がある。なのに、すぐに頼らなかったのは蓮とのことがあるからだろう。景之亮は遠慮をしたのだろうが、実言と礼は水くさいと思っている。蓮と別れたからと言っても、景之亮は五条の一員である。
翌日、典薬寮から帰ってきた蓮は隣の診療所に行った。
薬草を探す振りをして、その実は景之亮の邸に行った真那医師がいないか見に行ったのだ。
診療所には子供を連れた母親や、歳を取った男が体の痛みや病気について話をしているが、診ているのは真那医師ではなかった。
蓮は顔をすぐに引っ込めて薬草を収めている別の部屋に入った。そこに真那医師が女医師と話をしていた。
「あら、蓮様。何かありましたか?」
女医師が気づいて声を掛けた。それで真那医師も蓮の方に顔を向けた。
最近、蓮がこの診療所を訪れることは少なく、女医師は驚いたのだった。
「ああ、邸の方でお腹が痛いと言って、腹下しにいい薬草をとりに来たのよ。一人じゃなくて大勢お腹が痛いと言うもので減ってしまって」
と取り繕って真那に話しかけた。
「真那医師は昨日、鷹取殿のところに行ったのでしょう。母のところに行った時すれ違ったわ。あの後、母から事情を聞いたの。今、五条に帰っていると言うことは、鷹取様の御子は元気になったのかしら?」
「はい……行った時は苦しそうに息をして心配でしたが、夜通し看病をして朝方には熱もだいぶ下がり、寝息も穏やかでした。鷹取様は前の日は夜通し看病されていたそうで、昨夜は私や五条から来た者が看病するので休んでくださいと言うのに、昨夜も一緒に息子殿を看病されていました。明け方に落ち着いたので、やっと寝室に下がっていただきました」
蓮は景之亮の息子の熱が下がり落ち着いたと聞いて安堵した。小さな子供は熱が出て翌日には元気になることもあれば、熱が続いてあれよあれよと悪化し、命を落とすこともある。そんなふうにして小さな子供が亡くなっていくのを何度も見ている。
聞いたわけではないか、真那医師は景之亮のことを話した。
「あなたが帰って来ていると言うことはもう大丈夫なのかしら」
「熱も下がったので大丈夫と思いますがしばらく様子を見た方がいいと考えられて礼様が私の代わりに累を鷹取様のところに行かせました」
「そうなのね。よかったわ」
蓮はそれを聞くと薬草を見ることなく部屋を出て行った。
一晩中我が子の看病をするなんて、景之亮らしいことだと蓮は思った。

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